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坂東眞砂子に関するweblogconcentのブックマーク (2)

  • 坂東真砂子「子猫殺し」へ。その3 - 時代のウェブログ

    ソース・資料はこちら→★ その1★で「生物の『生』の意義は、子孫を残すこと」と書きました。そして「それは自然(野生)の摂理であり、野生でない動物には当てはならない」と述べ、「すべての人間は『生きる』価値がある」と言いました。 この辺りを大幅にはしょった感じがするので、詳しく述べます。 「死」を考える動物は人間だけです。他の動物は、なにかの死体を見ても、それが死体だと認識はするかもしれませんが、さらに「自分も、いずれはあのように死に至る」とは考えないでしょう。 しかし、人間は「死」の意味を知ってしまった。祖父が死に、祖母が死に、父が死に、母が死ぬ……そういう姿を見ているうちに「いずれは自分も、あのように『生』が終わる」という事実を知ってしまいました。 そして「生」への執着が生まれた。 「子孫を残すという自然界での役割は果たしたから、もう死んでも構わない」とは思えなくなった。「少しでも、長く生

    坂東真砂子「子猫殺し」へ。その3 - 時代のウェブログ
    weblogconcent
    weblogconcent 2006/08/30
    秀逸! 胸のつっかえがとれました。ツメアカ煎じて飲ませてもらいたいです。
  • 『「子猫殺し」が不快なのではない!』

    貨幣の心理学/*武士は喰わねど高楊枝 ケインズ派は貯蓄は資主義経済にとって阻害要因だという。市場原理からは腐れ金。宵越しの金は持たない。度が過ぎて空売りこさえた場合は?心理学の問題に移行する。心理戦に景色は移る。投機もまた。投資、でさえも。 それは、悲しいことではあるが、不快ではない。決して。 それは歴史的に選択されて来た人間史の厳然たる一側面の現存なので。 坂東眞砂子という女流が日経新聞に書いた、その「子殺し」は、「間引き」である。 「殺し」とは言わない。 「殺し」という言葉を使うことを、間引いた当人なら、憚るだろう。当にを飼っている人物であるなら。その実感から書き起こした随筆であるなら。 しかし、それを筆者自身が「殺している」と書いた。すでにしてセンセーショナリズム的意図を感じさせる。 続く内容は「殺し」という最大級の重みを持つ言葉が枕なわりには軽い。 概念的というか、思いつき

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    weblogconcent 2006/08/27
    食用と愛玩用を糞味噌にして「殺し」をうたう、この女流の思考力を疑う。
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