亡くなった内藤ルネさんが、何度か電話をかけてきて、『三島由紀夫――剣と寒紅』(文藝春秋刊)の著者、福島次郎さんの若き日の写真を残された、お母さんに頼んで手に入れてほしいと言われた。 三島由紀夫さんが初対面で気に入った福島さん、背が高く、いい男だったに違いない。その話は果たせないままに、ルネさんんも亡くなってしまった。 藤田竜さんの文章の続きを紹介しよう。ベッドを共にしても福島さんは、性的になんの反応もしなかったのに、なぜ? 「それならなぜ離れなかったのか。性交をのぞけば著者は憧れのマスコミの鬼才、三島さんと共にいて、話を聞けるのは願ってもない喜びであったし、共に外出した先での豪奢な食事も嬉しく、ことにあたたかい家庭の味を知らないで育った身に、三島さんの母親に接すると心が満たされる思いだったからだ。上京して貧しく暮らしていた大学生には、僥倖があふれていたのだった。 僥倖(思いがけない幸福のこ
古い『薔薇族』(NO63.1978.4)を何気なくパラパラとめくっていたら、ハッと目にとまった記事があった。 東北大震災の被災者へのインタビュー記事は各紙に報じられたが、いずれも模範的な人ばかりのものだった。 哲学者の方のお名前を忘れてしまったが、同性愛者という文字をその記事の中に見つけだしたときはうれしかった。 多くの被災者の中に、ゲイの人たちがいないわけがない。その人たちがどんな思いで過ごしているのか気になっていたからだ。 「北から南から」というコーナーがあって、各地から寄せられたニュースを載せていた。その巻頭に「原発の町にフレッシュなハッテン場が(福島県発)」とあるではないか。 「福島県の原子力発電の町といえば、双葉郡大熊町を中心に南北に広がり、五つの町をかかえていますが、次々と建設される工事場には、中央からの技術陣(外人もいます)がワンサとくり込み、働く人のためのマンションも、ニュ
美輪明宏さんが41歳、ぼくが44歳のころ、新宿厚生年金会館(今はない)の並びのQフラットビルの2階に、クラブ「巴里」をオープンさせ、ぼくも続いて「伊藤文学の談話室・祭」を開店した。 ちょうど、そのころ、「新しい芸能研究所」が「季刊・芸能東西・蝉時雨号」を刊行した。編集・発行人は、小沢昭一さんとある。36年も前のことだ。「性を超える・特集・ホモでなけりゃ芸術家じゃねえ!!」 大きな文字で表紙に大書されている。巻頭に小沢昭一さんの「口上」があり、それにはぼくがいつも言っている「日本の芸術、文化はゲイの人によって支えられているのだから、誇りをもって生きよう!」と、同じことが述べられている。そしていつサインしてもらったのか、まったく覚えていないが、小沢さんのサインがある。 ピーター、神津善行、尾崎宏次、松田修、戸坂康二、南博さんが執筆し、本橋成一さんというカメラマンが、ゲイホテルに潜入して撮った「
2008年2月に、「ミリオン出版株式会社」から発行された『漫画ナックルズ撃・GEKI・VOL・03』に「日本初のホモ雑誌を作った男=同性愛のバイブルの生みの親・激動の30年」というタイトルで、ぼくのことが劇画化された。 4年も前に出された雑誌だから、おそらく読まれた方は少ないのでは。こまかいところで間違いはある。ぼくの親父が女を作って家出したとあるが、ときどき帰ってこなくなったとか。しかし、何時間もかけてしゃべったことを20頁にまとめてくれたのだから、たいしたものだ。 絵もリアルに描いてある。ぼくの顔がハンサムに描かれているのは、照れ臭いが。 「エイズ初の日本人患者」のくだりは、力を入れてしゃべったことで、きっちりと描かれているので、ここだけはよく見てほしい。 ブログを見てくれている若い人たち。劇画の方がよく見てくれるのではと、ミリオン出版の編集部に電話をかけて、ブログに入れることを承諾し
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