ブックマーク / www.keystoneforest.net (15)

  • こころはきっとわたしの身体の外にある - 森の奥へ

    「死」について、も考えていますよね。きっと、絶対。いえ、考えてなくても、感じているはずですよね。ずっと傍で暮らしていたの匂いやモフモフや足音や鳴き声や寄り添ったときの身体の温かさを。それらを感じられなくなったときの寂しさを。 花は陽の当たるところ水のあるところに素直に咲いている。そしてまた、陽の当たるところ水のあるところを奪い合って咲いている。辛いとか怖いとか疲れたとか、なにも言わずに咲いている。花も「死」について考えているんでしょうか。 わたしたちは「死」を知っています。老いも知っています。鏡は残酷です。なんの遠慮も忖度もなく老いた自分をそのまま見せてくれます。でも… 鏡が残酷なのではなくて、以前の自分と今の自分とを比べてしまう自分が残酷さを感じさせている、きっとそうだと思います。 老いることには何の問題もない、と思います。それを問題とするのは社会であったり、医療であったりするのでし

    こころはきっとわたしの身体の外にある - 森の奥へ
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    withtheage 2021/07/07
    92歳の母は、この1年の間に2人の妹弟、そして昨日従兄が亡くなった事を知りました。7人いた兄弟の内、今も健在なのは母と母の姉だけになりました。私の父も兄も先に逝きました。母は今どう感じているのでしょうかね。
  • 白猫🐾さんのこと、繋がっているということ - 森の奥へ

    アガパンサスの花を見ると思い出す人がいます。 と言っても、色っぽいお話じゃないです。 久しぶりに書きます。 というか、久しぶりにブログを書きます。 毎日何かしら文章は書いていますが、はてなブログを書くのにはパワーがいるので、ブログ用のパソコンをしばらく開かずに遠ざけていました。 そうそう、改めて断らなくても、ブログを書く時はいつも久しぶりでした(^^; 嘘っぽいですけど、書きたいことはたくさんあるんです。 でも、それを頭の中に寝かせておいて、熟成するのを待つうちに、もうそれだけで気が済んでしまうことがほとんどなのです。 なので、書きたかったことはたいてい文章にしないまま、わたしの中で終わってしまっていました。 でも、、、終わったことにしたらあかんこともあるなって、ふいに思いが沸き上がってきて、今回パソコンを開いたのは、通勤の路傍に咲くアガパンサスの花に出会ったからです。 アガパンサスの花の

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  • 明けない夜もある - 森の奥へ

    明けない夜はない 座右の銘を訊かれると、いつもこの言葉を応えてきました。 どんなに辛い状況であっても、延々とそれが続くことはない。 いつかきっと穏やかな朝を迎えることができるはず。 辛い状況を乗り切れるヒントをそのうち思いつくかもしれないし、自分で思いつかなくても、いつか誰かが教えてくれるかもしれないし、そのどちらでなくても、時間が解決してくれるかもしれないし、、、 だって、夜は絶対に明けるんだから。 そんなことを思って、そう信じて自分を励まして、ここまでこれました。 シェークスピア『マクベス』が出典だそうです。 原文は "The night is long that never finds the day." とのことですから、「明けない夜はない」と訳した人のセンスに痺れます。 話はそれますが、アメリカのロックバンド・シカゴが1982年に発表した "Hard to Say I'm Sor

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    withtheage 2021/05/24
    92歳の母の人生には『明けない夜もありました』それは今も明けていません。多分母は生涯その夜をずっと抱きながら生きて行くのだと思います。誰もがそうなのではと思います。
  • 第一の人生の終わり方 - 森の奥へ

    同じ朝、同じ昼、同じ夜。 仕事を終えて帰宅して、何はともあれ、まずお風呂。 夜はのんびりべて飲む。 家族みんなが揃うのは夕飯の時くらい。 少し話して、少し聞く。 子供らは数回ご飯をお代わりし、それでもすぐにべ終わり、部屋へ戻って誰かとゲーム。 わたし一人べ終えずに飲んでいる。 家族と一緒にべて飲む、話して聞くのが生きること。 そのために働いた。 楽しい仕事の日だけじゃない。 あれこれ気持ちを塞ぐ日も、腰や肩が重い日も、なかったと言えば噓になる。 話して聞いてべて飲んで、それですっかり忘れてしまう。 忘れてしまって酔っ払う。 酔っ払ったら眠くなり、布団をかぶってふと思う。 今日という日の延長に必ず明日が来るのだろうか。 今日と明日とが違うのは、存在するのかしないのか。 存在するのは今、一瞬。 その先を信じて今日まで生きてきた。 これからもそれでいい? 当に必ず明日は訪れる? 春と

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    withtheage 2021/04/30
    『 炭火の写真素敵❗️焔の色がとても美しい』私もそう思いました。詩のような文章に赤い炎がとても印象的な写真ですね。
  • 震災通信(阪神淡路大震災体験記)後記 5/5 - 森の奥へ

    * 『震災通信』の連載中につぶやいたこと、思ったこと。Twitterから引用します。 2021年1月18日、この日の朝も冷えました。 寒いけど朝焼けはきれいです。寒くなればなるほど美しくなります。 駅までの尾根筋を下る通勤の途中、欠かさずこの場所から東の空を望みます。正面は大阪、その奥が生駒山地、中央右に大阪湾が見えます。 朝陽が美しい日は必ず写真に残します。 この場所からの見晴らしが良いのは、実は、あの震災後ここに建っていたマンションが取り壊され、いまだに更地のままでいるからです。 あの日から26年経ちました。 今朝も冷えます。 寒いけど朝焼けはきれいです。 寒いからこそ美しいのかも? pic.twitter.com/EVy0JMCwqe— 山🐾 (@keystoneforest) 2021年1月17日 1月の満月はWolf Moon(狼月)と呼ぶそうです。 1月15日、あの日の夜は

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  • 震災通信(阪神淡路大震災体験記) ***39日目(2月24日)*** - 森の奥へ

    26年前、わたしは神戸市兵庫区で震度7の揺れを経験しました。その記憶を日記とパソコン通信のログとで振り返っています。あの日から39日目です。北海道から応援に来られた水道局の人に、わが家の漏水箇所の修理をしていただきました。 2月24日(金) 北海道の水道局の人が家にやってくる。5人がかりでいろいろ家の中を見て回り、1階のトイレの下が漏水箇所だ、と突き止めてくれる。縁の下を調べた時に、そこにヘルメットを忘れてくるハプニングがあったり、トイレのパイプを手持ちの材料で北海道の佐々木さんが直してくれたり、当に親身になって心配してもらった。でも、結局完全に修理してしまうことはできず、使用する時だけ栓を開けるように言われた。何度も何度もご苦労様を言う。 北海道のどこから来てもらったのか、訊くのを忘れていた。あわてて道路まで追いかけて行って作業の車を探したが、札幌ナンバーということしか確認できなかっ

    震災通信(阪神淡路大震災体験記) ***39日目(2月24日)*** - 森の奥へ
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    withtheage 2021/02/24
    芦屋市には、東京の練馬区の水道局の車が来ていて、東京練馬区の姉にその車の写真を送ると、甥っ子の小学校の先生が、『練馬区水道局』の写真を見ながら、子供たちに震災の授業をして下さったそうです。
  • 震災通信(阪神淡路大震災体験記) ***31日目(2月16日)*** - 森の奥へ

    26年前、わたしは神戸市兵庫区で震度7の揺れを経験しました。その記憶を日記とパソコン通信のログとで振り返っています。あの日から31日目です。神戸市営地下鉄が全線運転を再開しました。 2月16日(木) N村先生(※前任校の同僚、先輩、西区在住)に近況報告を兼ねて電話する。日曜日にお邪魔する約束をする。地下鉄が復旧した。 ※「あの朝はまだ寝てた。ドッシャーンと大きな音がしてガタガタガタって揺れたから、てっきり玄関にトラックか何かが飛び込んできたんや、そう思って飛び起きた」 N村先生はあの地震の朝の揺れをこんなふうに話されていました。N村先生のご自宅は地下鉄沿線(地下鉄と言っても、神戸市営地下鉄が地下を走っているのは神戸の都心部だけで、郊外では地上を走っています)に当時開発されたばかりの西神南(せいしんみなみ)ニュータウンにありました。このニュータウンの街びらきは1993年3月です。ですので、N

    震災通信(阪神淡路大震災体験記) ***31日目(2月16日)*** - 森の奥へ
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    withtheage 2021/02/16
    やはり東灘区多いですね。隣接する、芦屋の津知町も被害が大きかったです。お母様を亡くされた友人がいて、お父様を5年程前に見送った時に、「父はやっと母と会える」と言っていた言葉が切なかったです。
  • コロナ禍の墓参。 **ブックマーク・ツイートから** 山猫ノート30 - 森の奥へ

    わたしの父は56歳で亡くなりました。 脳腫瘍でした。 亡くなる2年前に病気が分かり手術をしましたが、1年後に再発、その後、回復することなく逝きました。 父が亡くなった当時わたしは28歳、孫の顔どころか、わたしの奥さんの顔も見てもらえないままの別れでした。 墓は父の生まれ育った山に建てました。兵庫県の山間の地です。墓からは父の生家があった場所や田んぼが望めます(農道が整備されたため、父が知っていた景色とは全然違ってしまってはいますが、、、)。 写真は父の墓の前から撮りました。映っているのは父の墓ではありません、、、(^^; 墓がある山までは、わたしが住んでいる神戸から車で2時間半ほどかかります。頻繁に訪れるには少し遠い距離です。 年に一、二度くらい会いに行っていましたが、2020年はコロナを言い訳にして一度も墓に参りませんでした。 下のリンクは、3年前の墓参のことを書いた記事です。 www.

    コロナ禍の墓参。 **ブックマーク・ツイートから** 山猫ノート30 - 森の奥へ
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    withtheage 2021/01/31
    私は亡くなった父の事をブログに書くことも供養だと思って書いています。お父様も喜んでいらっしゃると思います。
  • 満月の夜の雪 **ブックマーク・ツイートから** 山猫ノート29 - 森の奥へ

    去年の暮れのこと、神戸の街に雪が降りました。しんしん降った雪はうっすら積もりました。満月の夜でした。 満月の夜の雪。梢の葉に積もりました。積もった雪を月明かりは溶かせたでしょうか。 12月の満月をネイティブインディアンの人たちは「コールドムーン(Cold Moon)」と呼ぶのだそうです。 満月の夕、それはそれは寒い夜でした。 ちなみに、今夜、1月の満月はWolf Moon(狼月)と呼ぶそうです。 あの日の夜も満月でした。満月に向かって神戸の街は燃えました。 満月の夕 [ライヴ 1999] ソウル・フラワー・モノノケ・サミット オルタナティブ ¥306 あの日の出来事は、人の生死は偶然の積み重ねでしかない、とはっきりと教えてくれました。けれど、生き方は選ぶことができる。そう思います。 残されたわたしたちは、震災のあれこれを思い出すこと、思い続けること、語ること、語り続けること、そして、命の意

    満月の夜の雪 **ブックマーク・ツイートから** 山猫ノート29 - 森の奥へ
    withtheage
    withtheage 2021/01/29
    山猫様、言及ありがとうございました。とっちゃんのママの事、誰かが祈って下さったらとても嬉しいです。とっちゃんのママの笑顔が浮かびます。
  • 震災通信(阪神淡路大震災体験記) ***11日目(1月27日)*** - 森の奥へ

    26年前、わたしは神戸市兵庫区で震度7の揺れを経験しました。その記憶を日記とパソコン通信のログとで振り返っています。あの日から11日目です。 1月27日(金) 初日の24時間が終わる。朝帰宅。 夜、屋辺さんから電話をもらう。 ニフティサーブ、京増氏にメールを書くことを思い立つ。 #山        M*I00*04 95/01/27 21:55 題名:はじめまして ニフティに接続して初めて届いたメールが 京増氏からでした。 電話とも違うし、手紙とも違う、 とっても不思議な感覚を味わいました。 その後、大学の先輩からの年賀状の隅に IDが書かれているのに気付き、 その返事に僕のIDを書き添えました。 そして数日後、メールが届きました。 「メールが届いています。(未読分一通)」 このメッセージには未だに心時めくものがあります。 京増氏が2通目のメールを送信されたのは1月17日。 その日の早朝

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  • 震災通信(阪神淡路大震災体験記) ***8日目(1月24日)*** - 森の奥へ

    26年前、わたしは神戸市兵庫区で震度7の揺れを経験しました。その記憶を日記とパソコン通信のログとで振り返っています。あの日から8日目です。やっとお風呂に入れました。 1月24日(火) 10時すぎに自転車で出勤する。K芝先生よりカセットボンベの差し入れ。南蛮美術館の後片付けをする。 戦前に建てられた旧館も含めて、建物には被害はほとんどなかったが、書棚が倒れたり、書架にあった図書類が散乱したりしたようだ。 美術館はしばらく休館。僕は明日から兵庫区役所に応援出務となる。 夜、再びN村先生(※前任校の同僚、先輩)より電話があり、10時頃、D先生(※前任校の同僚)も誘い母と三人でN村先生邸に伺う。浴槽に浸かるのは、一週間ぶりだ。 震災直後の被災地でのお風呂事情です。震災直後にはべ物が、数日後には暖かい事が、そして一週間後には入浴が必要とされました。 同じ神戸市内でも、市の北部(北区)や西部(垂

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  • 震災通信(阪神淡路大震災体験記) ***6日目(1月22日)*** - 森の奥へ

    1月22日(日) 小雨の中、宏兄ちゃん帰る。 家の近くで、バイクでやってきたD先生(※前任校の同僚)と出会う。僕の被災の状況を訊ねに来てもらったようだ。D先生の板宿(※須磨区)のアパートも被災。かなりひどいらしい。 M田氏(※南蛮美術館の同僚、行政職)より電話、火曜日に出勤して欲しいとのこと。 N村先生(※前任校の同僚、先輩)より電話、N村先生の家は西区にあり、被害はほとんどないとのこと。お風呂に誘ってもらう。 パソコン通信復旧。 トイレを流すのに使っていた浴槽の水が、もう残り少なくなってきた(※水はまだしばらく復旧しなくて、トイレを流すにはタンクに水を補給しないといけませんでした。お風呂のお湯を流してしまわず、翌日まで残すようにしていたので、震災時はその残り湯が役に立ちました。気にせずにトイレを使えるということ、これだけでもどれだけ助かったことか、、、)。 * ATD0792****

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  • 震災通信(阪神淡路大震災体験記) ***5日目(1月21日)*** - 森の奥へ

    1月21日(土) 宏兄ちゃん(※従兄弟、父の長兄の長男、わたしは年上の従兄弟のことを「兄ちゃん」をつけて呼んでいます)が、下三河(※佐用郡南光町)から半日かけて原付バイクで見舞いに来てくれる。 「きんでん」(近畿電気工事株式会社)のロゴの入ったヘルメットを持っていたので、それをかぶっていると、ご苦労様、と声をかけられ、優先して道を通してくれたとのこと。家に来てもらうのは初めて。年賀状の住所を見て、地図だけを頼りに来てくれた。弟も片づけを手伝いに板宿から歩いて来てくれる(※西側から神戸市内方面へは、市営地下鉄西神中央駅~板宿駅の区間だけが運行していた。JR、山陽電鉄は神戸市内まではまだ動いていなかった)。 そうか、今日は土曜日だった。休みの日だ。 早速、家の片付け。屋根にブルールシートを張ってもらう(※屋根瓦がズレていたので、放置しておくと雨漏りが予想された。震災後は多くの木造家屋が屋根をブ

    震災通信(阪神淡路大震災体験記) ***5日目(1月21日)*** - 森の奥へ
  • 震災通信(阪神淡路大震災体験記) ***4日目(1月20日)*** - 森の奥へ

    1月20日(金) 昼頃、母が自転車で帰ってくる(※病院から、約8.5㎞)。夕には、たまたま地震の前に大量に冷凍しておいていた豚肉を、傷んでしまう前にまとめてカセットコンロで焼いてべるつもりでいた。器は散乱したものの中から割れてないものを拾い集め、埃や破片を拭って使っている。準備をしている時に、急に照明が点く。電気が復旧した。地震から四日目だ(※ガスと水道の復旧はまだでした)。 後、さっそくパソコンを起動させてみる。今まで通りに起動、異常なし。しかし、パソコン通信は繋がらない。 ライフラインの復旧(兵庫県のホームページより) 兵庫県/阪神・淡路大震災の支援・復旧状況 サンキタ通り(神戸市中央区) よければtwitterものぞいてみてくださいね。山 (@keystoneforest) | Twitter イラスト/バリピル宇宙さん (id:uchu5213)

    震災通信(阪神淡路大震災体験記) ***4日目(1月20日)*** - 森の奥へ
  • 震災通信(阪神淡路大震災体験記) ***3日目(1月19日)*** - 森の奥へ

    1月19日(木) 昼前に家を出て、自転車で海星病院(※灘区)に向かう(※家から約8.5㎞)。母が移動用に使う自転車を届けるためだ。途中、職場(※南蛮美術館)に立ち寄る。そこで昼をとりテレビを観る。ずいぶん長く観ていなかった気がする。思えば地震からまだ3日目だ。 病院からの帰路、K芝先生(※職場の同僚、先輩)と偶然出会い、一緒に帰る。 K芝先生の自宅は地下鉄の西神中央にある。地下鉄は板宿から新神戸まで不通のままだから、K芝先生の通勤ルートは六甲山の裏側を使う。自宅からバイクでいったん神戸電鉄の押部谷まで出て、鈴蘭台を経由して谷上へ、そこから北神急行に乗り換えて一気に六甲山を抜けて新神戸に着く、というものだ。 先生とは新神戸で別れ、僕は歩いて帰る。途中、三宮の様子を見に行く。どのビルも傾いて見える。そのうちまっすぐに歩けなくなる。三宮の手前でフラワーロードを遮るように横倒しになっているビルが

    震災通信(阪神淡路大震災体験記) ***3日目(1月19日)*** - 森の奥へ
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    withtheage 2021/01/19
    震災当時、交通センタービル2階でお店をやっていました。震災後ヘルメットを被って中に入った記憶は鮮明に覚えています。久々に当時の様子を思い出しました。投稿ありがとうございました。
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