タグ

【レポート大賞】に関するyamaigaのブックマーク (20)

  • 【山さ行がねが】隧道レポート 伊東線旧線 宇佐美隧道

    2007/7/25 11:55 【静岡県伊東市宇佐美】 目の前を軽快なステンレスカーが駆け抜けていく。 水平線と空をイメージしたのだと容易に分かるカラーリングのそれは、伊豆急行線の8000形電車という。 伊東から先の下田まで、国鉄が果たせなかった伊豆循環鉄道の使命を一部受け継いで、昭和36年に開業した私鉄だが、その当初の使命を思い出させるかのように、JRの線路を熱海まで悠々と乗り入れている。その逆も然りである。 ここは、宇佐美隧道の宇佐美駅側坑口に最寄りの小さな踏切である。 実は、既にこの地点では新旧線の切り替えが済んでおり、旧線のレールも踏切の両側に残されている。 だが、踏切部分のレールは綺麗に撤去されており、通行していてそれに気付くことはない。 遮断棒手前の道路右側に、黄色いバーが二横に渡されているが、この位置で旧線は道路を横切っていた。 上の写真と同じ地点で、左手、すなわち網代駅方

  • 隧道探険隊

    この隧道は、fuku氏のサイト『山形の廃道』より得た情報を元に、ヨッキれんが実走しました。 隧道についての諸情報は、自身で調べておりませんので、最低限の転載に留めました。ご理解ください。 この隧道の背景など、さらに詳細な情報が、氏のサイトにはございますので、合わせてご覧になることを強くお勧めします。 笹立隧道は、東北日海沿岸ではおそらく最大の温泉地である湯野浜温泉と、やはり東北有数の名刹善宝寺との間を隔てる高舘山を貫く。隧道と、その前後の峠道は、笹立新道といい、この鶴岡市を代表する観光に代拠点を短絡している。 この紹介文の「隧道」を「トンネル」に、「新道」を「バイパス」に置き換えれば、最近開通した新トンネルのことかと思われるだろう。 しかし、この新道は、もはや、新しくない。 それどころか、新道のまま、地中に眠っているのだ。 湯野浜の個人のよって竣工された新道の開通は、明治44年(1911

    yamaiga
    yamaiga 2010/06/02
    <隧道レポ-55>2003年度 「山さ行がねが」 人気投票第4位
  • 【山さ行がねが】隧道レポート

    岩手県和賀郡の特にこの錦秋湖周辺は、森吉と並んで、山行がには特になじみの深い土地である。 それは言うまでもなく、これまでに幾度もの良質の探索を提供してくれたと言うことだ。 具体的には、2003年度の山行がレポの読者人気投票第1位となった「錦秋湖 水没遺構群」を筆頭に、年度の「和賀計画」など、レポ(=道路レポ)クラスを二紹介できているし、隧道レポとしても「大荒沢隧道」や、「謎のトンネル」などというのもあった。 これらは、全て錦秋湖の湖畔や、そのすぐ下流の和賀仙人地域に集中している。 そんな、私をアツくしてやまない和賀に関する、新しい情報がもたらされたのは、この夏のことである。 複数の読者様から教えて頂いた情報によれば、 9月末から11月の下旬にかけて、湯田ダムの設備更新工事などに伴い、通常の最低水位よりも、さらに6メートルも、水位を下げるのだという。 湯田ダムと言えば、もちろん錦秋湖を

    yamaiga
    yamaiga 2010/06/01
    <隧道レポ-45>2004年度 「山さ行がねが」 人気投票第4位
  • 隧道レポート

    この二井山隧道については、当コーナーでも既に一度紹介している。 よって、その背景などについては改めて紹介はしない。 再びここを採り上げる理由は一つ、遂に崩落してしまったという情報が、相互リンクリンク先の『踊る大雄勝線』サイト様よりもたらされたためだ。 第一報は、確か今年2003年の雪解けの頃であったように記憶している。 実際の状況をこの目で確かめる為に、遅まきながら、この度再探索を試みた。 これは、前回の調査から、約15ヶ月後の姿となる。 もうすっかり御馴染みになった、二井山集落側坑門への道の入り口である。 ここから坑門までは既に2度歩いており迷う心配は無いが、余りの密林ぶりに躊躇いを禁じえない。 思えば、前回2年前の探索は雪解け直後の4月だったし、初めての探索となった1996年は8月だったが、まだまだこれほど荒れてはいなかった様に思う。車の通行止め処置がとられてから余りたっていなかったの

    yamaiga
    yamaiga 2010/06/01
    <隧道レポ-25>2003年度 「山さ行がねが」 人気投票第5位
  • 2007年度山行がレポート大賞 結果発表

    <ご投票のルール> ① 2006年12月16日~2007年12月31日までに『山さ行がねが』サイト内で完結した「道路・廃線・隧道・橋梁・ミニの各レポート、および 『日の廃道』vol12~19に執筆かつ完結した「ORJレポート」が投票の対象です。 ② あなたの印象に残った好みのレポート上位3を投票してください。 1位=3ポイント、2位=2ポイント、3位=1ポイントを加算し、集計して合計ポイントで大賞を発表します。 ③ 1位は必ず投票してください。2位、3位はそれぞれ「該当無し」を選ぶことが出来ます。 ④ 同一レポートに1位と2位など、複数の投票をした場合は、上位の一票のみ有効とします。 ⑤ 投票は、期間内に一回限りでお願いします。 ⑥ コメント欄へは投票の理由などを、ご自由に。 記入は任意です。

  • 2005年度人気投票 結果発表

    2005年12月19日から31日までの期間に当サイトにて実施しました人気投票の結果を発表します。 この人気投票では、公開日が2004年12月15日から2005年12月19日までに完結した全てのレポートを対象に、皆さんのお気に入り上位3を選んでいただきました。(投票は、お一人様一回) 各々の投票1位には3ポイント、2位には2ポイント、3位には1ポイントを加算し、その合計ポイントで最終順位を判断いたしました。 今回は、期間中あわせて 192名(重複票や白票と当方が判断した票がこの他に10票有りました。)の方にご投票頂きました。(昨年は148名) 皆様、ありがとうございました。 それでは、「2005年度人気投票」、さっそく第5位から発表してまいります! <作者コメント> 工事中の現場に強引に忍び込んで探索してしまうと言う、傍若無人な振る舞いが物議を醸し、良識派の山行が読者からはさすがに批判意見

  • http://yamaiga.com/vote_2004_kekka.html

    2004年12月15日から31日までの期間に当サイトにて実施しました人気投票の結果を発表します。 この人気投票では、公開日が2003年11月1日から2004年12月14日までの全レポートを対象に、皆さんのお気に入り上位3を選んでいただきました。(投票は、お一人様一回) 各々の投票1位には3ポイント、2位には2ポイント、3位には1ポイントを加算し、その合計ポイントで最終順位を判断いたしました。 今回は、期間中あわせて 148名の方にご投票頂きました。(昨年は91名) ご協力頂きました皆様、ありがとうございました。 それでは、さっそく第5位から発表してまいります! <作者コメント> 森吉林鉄シリーズは、2003年の秋に始まり、私だけでも5回も赴いてしまうと言う、2004年最大のネタとなりました。 獲得ポイントも、今回の投票対象に含まれていた「第2次」~「第5次」の4作で、合計148pと、シリ

  • <頂きましたコメント(抜粋)> 二井山トンネルの西坑口崩壊は衝撃的でした。 ただ、未だ1度も自分の目で見てないので、とても気になります。 さて二井山隧道ですがあの近くを一ヶ月に1回は通っていまして手前のクランクや切通し、かなり気にはなっていたのですがまさか鉄道が通っていたとはかなり衝撃でした。 第5位には、当サイトでも定番のネタであり、秋田県を代表する廃隧道である横荘線跡は、二井山隧道がランクインしました。 ここは、確かに強烈でした! あれ以来、ヒルに加え、コウモリも苦手になってしまって…、 あぁ、あの壁一面のコウモリ、あの匂い…  おえっ。 …、今では閉塞してしまい、永遠に光届かぬ地となった隧道に、おつかれさまの一票もあったかも知れません。 それでは、続きまして、第4位の発表です。

  • 【山さ行がねが】廃線レポート 奥羽本線旧線 赤岩地区

    これから紹介するのは、奥羽線の旧線である。 場所は、福島県福島市赤岩。 最寄り駅は、同線赤岩駅である。 奥羽線については、名前くらいは全国区だと思うし、今さら多くを紹介する必要はないだろう。 福島と山形と秋田と青森を結ぶ、全長485kmの幹線鉄道で、全通は明治38年である。 赤岩という地名はかなりローカルではあるものの、鉄道ファンにはよく知られたる4駅連続スイッチバックの一つ赤岩駅は、まさに 赤岩地区の中心駅である。 最も、この書き方は二つのアヤを含んでおり、まず一つ、4駅連続スイッチバックは既に過去のものであると言うこと。 そして、「中心駅」と言うには相応しくない、秘境閑散駅であるということ。 いわば、奥羽線きっての、ローカル駅なのである、赤岩は。 普通なら、駅などありよう筈もないような山中。 失礼だが、そんな場所だ。 そして、この赤岩に、豊富な旧線遺構が眠っている。 その古さ、残

    yamaiga
    yamaiga 2010/05/31
    <廃線レポ-17>2005年度 「山さ行がねが」 人気投票第4位
  • 廃線レポート

    「日のTVA」と称された、北上川流域を舞台にした壮大な治水計画があった。 TVAとは、テネシー川流域開発公社のことで、アメリカの流域開発の嚆矢とされる。 河川開発を通じて地域経済のたて直しや、電源開発、耕地開発、治水などを総合的に行う事業として、1933年ごろに始められたものである。 日でも、戦後これを手に各地で河川開発が行われたが、その中でも、最大の規模を誇ったのが、北上川流域に五つのダムを設ける計画である。 そのなかでも、最大の規模を誇ったのが昭和39年に竣工した湯田ダムである。 竣工当時、日最大の規模を誇る重力アーチ式ダムであり、その堤高は89.5mに及んだ。 この数字は、現在でも日3位である。 そして、この巨大なダムが和賀川に誕生せしめた人造湖が、公募によってその名が決められた錦秋湖。 錦秋湖の湛水面積は最大630ヘクタールであり、これは現在でも、重力アーチ式ダムとしては

    yamaiga
    yamaiga 2010/05/31
    <廃線レポ-03>2003年度 「山さ行がねが」 人気投票第1位
  • 【山さ行がねが】道路レポート 切ヶ久保新道   

    今年11月始め、『廃線隧道のホームページ』を運営される“しろ氏”より、興味深い情報のご教示を頂いた。 「みやま書房」が昭和43年に発行した『三国街道』なるのなかに、群馬県北部の「切ヶ久保峠」というところに、明治7年に隧道が掘られたという記述があるというのだ。そして、現在はそこに車道らしいものはないという。 明らかに“明治廃隧道”を匂わせる情報。しかし、遠方のため自身では容易に調査できないということで、私にその貴重な情報を教えてくれたようだった。 自身にとっても初耳である切ヶ久保峠。そして隧道。 まずは国土地理院のサイトへ行き、地形図にその名を探した。 【マピオンで位置を確認】 最新の地形図にも、切ヶ久保峠の名前ははっきりと記されていた。 現在の地名で言うと群馬県利根郡みなかみ町の布施(ふせ)地区の南方で、この峠を挟んで吾郡高山村中山地区に接している。 図中の切ヶ久保峠は、峠の南側に道が

    yamaiga
    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-97>2007年度 山行がレポート大賞第5位
  • 【山さ行がねが】道路レポート 国道135号旧道 トモロ岬

    一般国道135号は、伊豆半島の東岸を南北に縦貫する、観光及び物流の両面で代替路の無い極めて重要な路線である。 実際に通行してみると、確かに、ほぼ全線2車線しかない路幅の中を溢れんばかりに、様々な車が通っているのが分かる。 大型トラックから観光バス、オープンカーやバイク、自転車に至るまで、季節にもよるが、ありとあらゆる車を見ることが出来た。 そしてこの道は、伊豆半島という希代の観光地に全線の立地を置いたため、随所に有料バイパスとの分岐や合流がある。 その中には既に無料開放化されて久しい物も少なくないが、今でも、地方からの観光客やサンデードライバーの多くが、何気なく有料バイパスへ連れて行かれている。小田原から熱海の間はとくに、図らずも二度ばかり有料バイパスへ連れて行かれることになる。 今回紹介する旧道もまた、有料バイパスとの関わりの中で生きた道だった。そして、ある激甚な災害によって死んでいった

  • 【山さ行がねが】道路レポート 第三次 日原古道探索計画 江戸道編

    中世に秩父地方から進入し、この日原の地を拓いた原島家。 彼とその眷属の子孫が連綿と利用し続けた外界との連路、それが「日原みち」の始まりであった。 はじめ、外界側からこの道へ人が踏み込むことは稀であったが、やがて日原の奥地に一石山(日原鍾乳洞)なる信仰の地が現れ、近世には「日原みち」の改良が行われた。 右の図は、『日原風土記』や『新編武蔵風土記稿』などを元にして作成した、歴代の「日原みち」の概要である。 風土記における道の分類(第1期~5期)に、現道の直接の元となった道を6期として加えている。 このなかで、最も各代の道が輻輳しているのは「とぼう岩」の近辺であり、最も険しい河崖部分を大きく山上に迂回してきた第1期2期の道に対し、初めて谷中に道を開いたと考えられる第3期道は、その後の日原みちの方向性を決定づけたと言える。 この第三期道のとぼう岩開削については、風土記にはこう書かれてある。 第三期

    yamaiga
    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-88>2007年度 山行がレポート大賞第1位
  • 【山さ行がねが】道路レポート 第二次 日原古道探索計画 

    あの日、私は勝者ではなかったのか? 「都内最狂廃道」などと喧伝されてきた都道204号日原鍾乳洞線の旧道を危なげなく踏破した私は、有頂天だった。 旧道の終点で「あの道」を見るまでは。 私は急遽計画を変更し、「あの道」へ行くため対岸の作業道に入った。 決定的に時間が足りなかった。 それでも私は荒れ果てた作業道をチャリで疾駆し、巨大な吊り橋の残骸が残る廃鉱山へ行った。 そのまま、「あの道」目指し、危険きわまりない斜面にも進み出た。 全てが命がけだった。 しかし、孤軍奮闘もそこまでだった… (写真右) 結局私は日原古道の核心部。「あの道」へ辿り着くことは出来ず、迫り来る夕暮れに追い立てられるように撤退した。 再訪ではなく、再攻略を誓って。 …以上が私と日原のファーストコンタクトの要約である。レポートはこちら。 撤退の翌日、私は近くの図書館へ行き日原や奥多摩町に関する郷土資料を読みあさった。 その成

    yamaiga
    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-79>2007年度 山行がレポート大賞第2位
  • 【山さ行がねが】道路レポート 日原古道探索計画 

    新たなる目的地は定まった。 苦難の果てに辿り着いた都道204号日原鍾乳洞線の旧道最奥部から、千尋の谷を成す日原川の対岸に目撃された複数の道らしき痕跡。 旧都道突破の美酒に酔うはずだった私を一瞬で素面に戻してしまった、「伝説」を超える……道。 後日、図書館に行って「奥多摩町史」を調たところ、この道らしき影は確かに道であった。 氷川から日原へ向かう古来“日原みち”と呼ばれたそれの険しさは、町史としても特筆すべきところがあったらしく、かなり詳しい記載があったのだ。 それによれば、私がいままで辿った旧都道でさえ、日原みちとしては6代目の道であるらしい。 日原に人が住み始めたのは遅くとも室町時代に遡るそうで、以来、道中で最も険しいこの岩場…“とぼう岩”(日原の戸口という意味だそうだ)の“越え方”を中心にして、何度も道が変遷してきている。 断崖の中腹をほぼ水平に通る姿が、かなり鮮明に見えるそれは、大正

    yamaiga
    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-78>2007年度 山行がレポート大賞第3位
  • 道路レポート

    大峠である。 日中に無数にある「大峠」の中でも、国道が通っていた物としては 歴史上最も 大きく 高い 峠であった大峠。 山行が永遠のライバル(自称だが…)『ORRの道路調査報告書』が遂に事業着手したことに刺激を受け、この大作に挑む時が私にも来たと、悟るなり。 まずは手始めに、山行が史上おそらく最も大きいフォント(300px)で、当に大きいんだぞという、有り様を示してみたつもりだが、如何だろう。 格的なレポを始める前に、今回はまず、諸元について大まかなまとめておきたい。 大峠は、17世紀初め頃、伊達政宗によって開削された道である。 当時記された「会津風土記」には、「路狭くて牛馬通せず難」とあり、米沢街道檜原峠越えに対する脇道でしかなかった。 そもそも、東北6県各県間にある山嶺の中でも、福島・山形の間に横たわる吾連峰や飯豊山地は最も高く、最低鞍部の檜原峠でさえ海抜1100mという高さだ

    yamaiga
    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-52>2005年度 「山さ行がねが」 人気投票第3位
  • 道路レポート

    東北地方でただ一カ所だけの国道不通区間である甲子(かっし)峠。 福島県の中通り(なかどおり)地方と会津(あいづ)地方とを結ぶ、奥羽山脈越えの峠である。 現在、国道は会津側の下郷町からは甲子峠(海抜1300m)まで上れるものの、中通り側である西郷村からは海抜900mの甲子温泉で行き止まりとなっている。 この不通区間には、車道の代わりに登山道が整備されており、おおよそ4kmで通じている。 この登山道国道は、業界ではかなり有名であり、木の棒に真新しそうな国道標識が取り付けられ歩道の脇に設置されている景色を、あなたも何処かのサイトで見ているのではないだろうか? 山行がとしても、当然この登山道区間をチャリで乗り越す事を計画したが、決行日は生憎の雨でガスが酷く、結果的には挑む前に断念することになる。 しかし、私は読者の皆様に二つの約束をする。 ひとつ、私は今後必ずこの区間をチャリで踏破し、レポートをお

    yamaiga
    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-49>2005年度 「山さ行がねが」 人気投票第5位
  • 道路レポート

    あなたは、この穴の姿を覚えているだろうか? 忘れもしない、2004年9月22日。 我々、山行が合調隊の3名が、悪天候を押し突入した粒様沢深部の林鉄探索。 延々と濁流を掻き分け、命まで押し流されそうになりつつの遡行。 遭難の恐怖に怯えながら、暗い森で火も起こせぬ野営。 翌9月23日、長い夜が明けると、空は嘘のように晴れ上がっていた。 まもなく我々は、遂にレールの敷かれたるままの軌道跡を発見。 そこは、まさに林鉄探索者垂涎の楽園であった。 さらに上流へと、錆びたレールは何キロも残っていたのだ。 誘われるように、レールを辿り歩く我々だったが、ある地点を境にして、それは途端に消えた。 静かなブナの森の底で、二つの清流が出会い、一つになっていた。 そこで我々は、右の沢を、選んだ。 かつて、狩猟に生きたマタギ衆すら尊んで近づかなかった、山の神の領域。 地形図上には、ただ「様ノ沢」とだけ記された、その峡

  • 道路レポート

    2004年5月中旬、山行が宛てに一通のメールが寄せられた。 そこには、私を即座に夢中にさせるネタがしたためられていた。 差出人は、青森県にお住まいのぴょんぴょん氏。 その彼が以前登山で利用した道が、戦前の車道の跡であるというのだ。 その道の場所は、右の地図の通りである。 地図の最も下に水色がかっている部分があるが、これは十和田湖である。 その十和田湖の北岸の突端である御鼻部山付近から北上し、海抜900m前後の山上を縦走。 いよいよ南八甲田山の峰峰に対峙し、これをヘアピンカーブで上り詰める。 最高所は、標高1200mを超える稜線上にあり、この名が、地獄峠。 ここから猿倉温泉へ向け、数度のヘアピンカーブを経つつ緩やかに下りるというコースである。 すなわち、北東北有数の観光地である「十和田湖」と「八甲田山」とを短絡する稜線ルートといえば分かりやすい。 このルートは、確かに一般の道路地図にも示され

    yamaiga
    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-33>2004年度 「山さ行がねが」 人気投票第1位 山行が史上、最も難しい道。
  • 道路レポート

    ご覧の大カーブの先は、いよいよ県境の長大双子トンネルの片割れ「西栗子トンネル」である。 周りの風景は山岳そのもの、しかし道路上だけは都会のような喧騒に包まれている。 竣工した昭和41年ごろは、まだ環境保護の叫びは小さかったのだろうが、生態系を分断する巨大な帯である。 遂に目前に迫ったトンネル。 坑門に覆いかぶさる巨大な送風施設は、正にこの時代の長大トンネルのシンボルである。 はっきり言って、私などは胸がときめく。 幼少の頃、家族旅行で通った仙岩トンネルの威容が、私のトンネル好きの原点かもしれないのだ。 今日では技術の進歩により、地上にこのような巨大な施設を要さないので、こういった光景は今後再生産されないものだ。 道行く私たちを見下ろす坑門。 その姿は、なんとも誇らしげではないか。 実用上存在する物なのだが、何かそれ以上のコダワリを感じてしまう。 「俺がこの山をぶち抜いているんだ!!」 とい

    yamaiga
    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-17>2003年度 「山さ行がねが」 人気投票第2位
  • 1