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トリ氏と2007に関するyamaigaのブックマーク (4)

  • 【山さ行がねが】廃線レポート 奥多摩鉱業氷川鉱山 専用索道跡

    私を魅惑して止まない日原の壮絶な山道風景。(過去のレポ1,2) しかし、その景色を彩るものは天然の山河ばかりではなかった。 むしろ、彼の地で最大の存在感を有するもの…それは現役石灰石鉱山による、未曾有の地形改変によるものだった。 この地での石灰石採掘は歴史は意外に短い。 少なくとも明治、大正、そして昭和の頭まで、日原地区に埋蔵される6億トン以上といわれる石灰石は眠り続けてきた。 だが、日の近代化と共にコンクリートの需要が爆発的に増え、全山石灰石と言っても過言ではない日原の山々が初めて認知されるに至る。 昭和12年、「奥多摩電気鉄道会社」発足。 同19年、同様の目的で鉄道を開設していた「青梅電気鉄道会社線」の終点御岳から、氷川(現:奥多摩駅)まで延伸が完了。そして開業と同時に国有化となって(→国鉄青梅線)、社名も現社名「奥多摩工業」に改称される。しかし結局、同社は戦前戦中において石灰石の採

  • 【山さ行がねが】道路レポート 旧東京府道242号 日原氷川線 (日原5期道) 

    これまで4編の都道204号日原鍾乳洞線の旧道に関するレポートを公開してきた。 そして、“とぼう岩”付近には現在の都道に至るまで、実に7世代もの道が存在していたことを突き止めた。 このうち、私が主な探索の対象としたのは、「3期:江戸道」「4期:大正道」「5期:昭和道」である。 緑:3期「江戸道」 江戸中期に日原の原島家が中心になって、とぼう岩に初めて横断する道が付けられた。 なお、探索の結果最も困難な岩盤に一の隧道を発見しているが、これが江戸道であるかは未だ不明である(レポ) 橙:4期「大正道」 大正4年に改修された道で、氷川から樽沢まで荷車の通行が可能になった。府道242号日原氷川線と呼ばれた。(レポ) 赤:5期「昭和道」 昭和6年に、従来の「大正道」を惣岳吊橋から日原まで延伸し、遂に全線荷車の通行が可能となった。引き続き府道242号と呼ばれた。今回攻略目標! 青:6期「旧都道」 昭和1

  • 【山さ行がねが】道路レポート 第三次 日原古道探索計画 江戸道編

    中世に秩父地方から進入し、この日原の地を拓いた原島家。 彼とその眷属の子孫が連綿と利用し続けた外界との連路、それが「日原みち」の始まりであった。 はじめ、外界側からこの道へ人が踏み込むことは稀であったが、やがて日原の奥地に一石山(日原鍾乳洞)なる信仰の地が現れ、近世には「日原みち」の改良が行われた。 右の図は、『日原風土記』や『新編武蔵風土記稿』などを元にして作成した、歴代の「日原みち」の概要である。 風土記における道の分類(第1期~5期)に、現道の直接の元となった道を6期として加えている。 このなかで、最も各代の道が輻輳しているのは「とぼう岩」の近辺であり、最も険しい河崖部分を大きく山上に迂回してきた第1期2期の道に対し、初めて谷中に道を開いたと考えられる第3期道は、その後の日原みちの方向性を決定づけたと言える。 この第三期道のとぼう岩開削については、風土記にはこう書かれてある。 第三期

    yamaiga
    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-88>2007年度 山行がレポート大賞第1位
  • 【山さ行がねが】道路レポート 第二次 日原古道探索計画 

    あの日、私は勝者ではなかったのか? 「都内最狂廃道」などと喧伝されてきた都道204号日原鍾乳洞線の旧道を危なげなく踏破した私は、有頂天だった。 旧道の終点で「あの道」を見るまでは。 私は急遽計画を変更し、「あの道」へ行くため対岸の作業道に入った。 決定的に時間が足りなかった。 それでも私は荒れ果てた作業道をチャリで疾駆し、巨大な吊り橋の残骸が残る廃鉱山へ行った。 そのまま、「あの道」目指し、危険きわまりない斜面にも進み出た。 全てが命がけだった。 しかし、孤軍奮闘もそこまでだった… (写真右) 結局私は日原古道の核心部。「あの道」へ辿り着くことは出来ず、迫り来る夕暮れに追い立てられるように撤退した。 再訪ではなく、再攻略を誓って。 …以上が私と日原のファーストコンタクトの要約である。レポートはこちら。 撤退の翌日、私は近くの図書館へ行き日原や奥多摩町に関する郷土資料を読みあさった。 その成

    yamaiga
    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-79>2007年度 山行がレポート大賞第2位
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