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東京都に関するyamaigaのブックマーク (17)

  • 【山さ行がねが】道路レポート 東京都道211号若郷新島港線

    東京都には、これまで当サイトのレポートでもその一部をご覧頂いてきたとおり、東京という大都会の他に、奥多摩町や檜原村のような山岳地帯が存在する。 そしてさらにもう一つの大きな場面としては… 離島 がある。 具体的には、伊豆諸島や小笠原群島に属する200を越す島や岩礁がこれにあたるが、今日一般人が定住している島は伊豆諸島に9島、小笠原群島に2島があるのみだ。 そしてこれらの有人島も無人島も全て東京都に所属していて、東京諸島という総称も存在する。 東京諸島の広大な地域(海域)の広がりは、東京福岡間に匹敵する1200kmをも越えており、実は東京都こそが日一の広がりを持った都道府県といえる。 しかしこれら島嶼(島しょ)と呼ばれる東京都のエリア人口は少なく、平成20年当時のデータだが、28,741人と記録されている。 これは東京都民1,279万人の0.22%に過ぎない数字だ。 ともかく、海の上にも東

  • 【山さ行がねが】道路レポート 奥多摩古道 (氷川~除ヶ野)

    東京都の奥座敷、奥多摩町の中心が氷川(ひかわ)である。 多摩川と日原(にっぱら)川の合流地点に開けたさほど広大でもない緩斜面に町役場、小学校、JR青梅線の終着駅である奥多摩駅、国道411号などの都市機能が集中的に立地している。 そして氷川から日原川に沿って1kmほど北上した山腹に、除ヶ野(よげの)集落がある。 取り立てて何がある場所でもないが、古くから人の住う土地であったことは、この意味ありげな地名にも現れている所だ。 現在、除ヶ野から氷川へは、日原川に架かる北氷川橋渡って行くのが普通であるが、このルートは安寺沢林道が除ヶ野まで開通した昭和50年代から使われるようになったという。これは除ヶ野集落で聞いた話である。 そして古い地形図を見ると、除ヶ野から氷川まで順当に日原川左岸の山腹を緩やかに下って行く道が描かれている。 その表記は「破線」であり、小径の域を出ないものであったと察せられる。 そ

  • 【山さ行がねが】道路レポート 国道16号 八王子バイパスの未供用ランプの謎

    表題の物件を紹介するのであるが、その謎解きについては、まだ完全に解決したわけではない。 しかし、都内で交通量も沿道の人口も多い地域の話であるから、私がここで解けなかった謎を提示することによって、地元の方などから決定的な情報が寄せられるのではないか。 そんな期待を込めつつ、編を公開することにした。 このレポートの最終回(考察編)では、私が解けなかった謎をまとめて書き出すので、ぜひとも皆様からの情報提供をお願いしたい。 なお、この物件は、私が2007年に東京都日野市に引っ越してきてすぐに発見した。 のらネコが縄張りを見回るように、私がアパートの周りを自転車でうろついていて、偶然に見つけたのだった。 2011/8/23 5:53 【現在地(マピオン)】 自宅を自転車で出発して15分くらいで、八王子市打越町にある国道16号八王子バイパスの打越ICに到着した。 八王子バイパスには無料の区間と有料

  • 【山さ行がねが】道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線旧道 兎峰橋

    日原(にっぱら)は、東京都の西の端に位置する奥多摩町の北西部、多摩川の支流である日原川上流の一帯である。 ここにある鍾乳洞は有名だが、オブローダーの世界でもその名は少しばかり知られている。 日原地区への出入りは、今日なおただ一の都道「日原鍾乳洞線」による他ないという“陸の孤島ぶり”で、近世以来のこの道の変遷が、そのままオブローディングの対象となるのである。 右図では中でも一番メジャーで新しい「旧都道」のみを赤く示しているが、実際に明治以降に使われていた道は、下図の通り多くの世代が存在する。 これら「日原旧道群」の探索は、私が東京に移住してきた平成19年に集中的に行ったこともあり、一通りは終えているという認識だ。 当サイトでも、以下のようなレポートを公開してきた。 これらの探索のあと、しばらく日原の土を踏むことはなかったのだが、年(平成22年)の春頃になってふと、やり残してきた(未踏破が

  • 【山さ行がねが】ミニレポート 第125回 檜原村の未成BP橋

    【マピオンによる周辺図】 都心から西に50km。 多摩の奥地、秋川谷の山峡に広がる緑と清流の村、檜原(ひのはら)。 そういえば聞こえもいいが、(離島を除く)都内で唯一過疎の“村”という現実は、担当する行政官にとって悩ましいに違いない。 そんな檜原村にとって最大にして唯一の縦貫道路である都道33号「上野原あきる野線」。 ミニレポ第119回(後編)において、この道の改良を期して建設されたものの、いまなお完成せぬまま放置されている橋を紹介した。 また同じ都道33号の沿道で奇妙な橋に出会った。 前回同様、柵に阻まれた、行き先無き橋である。 ご紹介しよう。 檜原村役場のある元郷地区から都道33号を西南方向へ進むこと約7.5km、南郷地区の下川乗という所へ来る。 都道は間もなく甲武トンネルのある山梨県境の峠越えに立ち入る訳だが、その上りが始まる少し手前、ずっと平行してきた南秋川の清流を二度連続して渡る

    yamaiga
    yamaiga 2010/06/08
    <ミニレポ-125>壮大な新道計画 その小さな種
  • 【山さ行がねが】ミニレポート 第121回 都道165号伊奈福生線 伊奈狭区

    東京都にはおおよそ340路線の都道が存在しているが、このうち島嶼部に存在するものを除いた数は約300。 この中には、地方出身者である私の目から見ても、とても都内とは信じがたいような未整備の道が、何か存在している。 そういった路線は、「東京都道」という言葉とのイメージギャップの大きさが受けるのか、或いは渋滞に日夜苦しめられる都民生活からの誤ったユートピア感に支えられているのか、他県の俗に“険道”と呼ばれるような路線以上に、特定のファンが多い。 一部ではファンの間では、そのような都道を指して「兎小屋程度の道」「兎がようやく通れるような道」という意味合いからか「兎道」と俗称されることもある。 今回は、そのような侘びしい都道の一つ、「東京都道165号伊奈福生線」の一部を紹介しよう。 都道伊奈福生線は、東京都福生(ふっさ)市の国道16号(東京環状)を起点に、同都西多摩郡日の出町の南縁部を経て、

    yamaiga
    yamaiga 2010/06/08
    <ミニレポ-121>2車線→1車線なんだけど…  酷くないか? これは…
  • 【山さ行がねが】ミニレポート 第119回 甲武トンネルの末端廃道

    県道上野原あきる野線は、山梨県上野原市と東京都あきる野市を結ぶ全長29km余りの主要地方道である。 主な経由地としては、上野原側に棡原(ゆずりはら)、あきる野側に東京都唯一の村である西多摩郡檜原村(ひのはらむら)や、秋川渓谷がある。 このうち、棡原と檜原を結ぶ峠が同路線の最高所であり、主に渓谷沿いを走るこの道でただ一カ所の峠越えである。 この峠は、平成2年に初めて車道が通った場所で、甲武トンネルと栗坂トンネルの二で尾根を貫いている。 言うまでもなくこの「甲武」の名は、甲州(山梨県)と武州(関東地方)をつなぐという意味合いから、地域交流のシンボルとなる期待を込めて名付けられている。 かつて、棡原と檜原の間の国境には、浅間峠や日原峠といった歩き道があって、行商人や富士詣の旅人が大勢通った。 しかし、海抜900mを越えるそれらの峠は険しく、近年まで車道が開通することはなかった。 そこに、甲武ト

    yamaiga
    yamaiga 2010/06/08
    <ミニレポ-119>トンネル脇に謎の道 発見!
  • 【山さ行がねが】ミニレポート 第117回 都道503号相模原立川線 堀之内狭区

    都道503号には4カ所の重複区間と1カ所の未開通区間。 そして1カ所の、極狭区間がある。(今回レポート区間) 一般都道503号相模原立川線は、神奈川県相模原市上溝と東京都立川市錦町を結ぶ、おおよそ19kmの一般県道である。 レポートの前に起点から終点へ向けて駆け足で紹介しよう。稿がレポートするのはそのほんの一部分だけだが、全体像を知っていた方が面白く読んでいただけると思う。 起点である神奈川県中北部の相模原市上溝を出発した路線は、国道16号と一部重複しつつ北上、米軍相模補給廠の脇を通り境川を渡る。 ここまでは神奈川県内で、路線名も神奈川県道503号(同名)である。 東京都町田市に入るとすぐ町田街道を渡り、ここから路線の特徴的な路線風景である多摩ニュータウンへ入る。 しかしここから暫し一般都道158号小山乞田線と重複している。 多摩丘陵上に登り切るとすばらしい4車線道路を蹴って左折、こ

    yamaiga
    yamaiga 2010/06/08
    <ミニレポ-117>車の通れぬ現役都道
  • 【山さ行がねが】隧道レポート 旧 吹上隧道群

    小学六年の夏に横浜から秋田へ引っ越して以来、17年間もの間、ただの一度も関東地方へと足を踏み入れることなく、ひたすらにみちのくの地に轍を刻み続けてきた私であったが、このたび、たった一日だけではあるが、思いがけない形で関東の地を踏むことになった。 この春から勤めはじめた仕事先の、出張の機会である。 東北新幹線が大宮に近付くと街並みがはじまり、それが途切れぬまま、やがて上野の車内アナウンスが響く頃には今度は列車は地下へと潜ってしまう。 これは東京隧道なのか。地下鉄なのか。 ……あれから17年も経って、もう東京の街では全てがドームに覆われ、空の見えない全天候型都市になったのかと諦めかけた頃、列車は再び光の元へ、周囲のビルディングの巨大さに驚く間もなく、すぐに東京駅の21番線に滑り込んだ。 不慣れなスーツに身を包み、ぱりぱりの名刺を胸に秘め、緊張の面持ちで下り立つ首都東京駅のホーム。 どうにかこう

  • 【山さ行がねが】廃線レポート 奥多摩鉱業氷川鉱山 専用索道跡

    私を魅惑して止まない日原の壮絶な山道風景。(過去のレポ1,2) しかし、その景色を彩るものは天然の山河ばかりではなかった。 むしろ、彼の地で最大の存在感を有するもの…それは現役石灰石鉱山による、未曾有の地形改変によるものだった。 この地での石灰石採掘は歴史は意外に短い。 少なくとも明治、大正、そして昭和の頭まで、日原地区に埋蔵される6億トン以上といわれる石灰石は眠り続けてきた。 だが、日の近代化と共にコンクリートの需要が爆発的に増え、全山石灰石と言っても過言ではない日原の山々が初めて認知されるに至る。 昭和12年、「奥多摩電気鉄道会社」発足。 同19年、同様の目的で鉄道を開設していた「青梅電気鉄道会社線」の終点御岳から、氷川(現:奥多摩駅)まで延伸が完了。そして開業と同時に国有化となって(→国鉄青梅線)、社名も現社名「奥多摩工業」に改称される。しかし結局、同社は戦前戦中において石灰石の採

  • 【山さ行がねが】道路レポート 都道201号 十里木御嶽停車場線

    【位置】 一般都道201号十里木御嶽停車場線(じゅうりぎみたけていしゃばせん)は、あきる野市十里木から養沢(ようざわ)へ入り、日の出山山頂付近、御岳山山頂付近を経て青梅市滝へ下り、さらにJR御嶽駅前に達する全長15kmあまりの都道である。 この道には都道としては珍しい自動車交通不能区間が約3kmという長距離(あきる野市養沢~青梅市御岳山)にわたって存在するばかりでなく、一部で2路線の都道が交通不能区間のまま重複するという、日唯一の区間がある。(これは県道でも珍しい) 正直、3kmという交通不能区間をチャリで踏破する事への不安は小さくなかったが、都内ということでそれなりに踏まれているだろうと考えてチャレンジしてみることにした。 またこの道には、私にとって前述の交通不能都道同士の重複区間ということ以上に興味深い“エリア”があった。 それはあきる野側(図中右下)から行って自動車交通不能区間の

  • 【山さ行がねが】道路レポート 旧東京府道242号 日原氷川線 (日原5期道) 

    これまで4編の都道204号日原鍾乳洞線の旧道に関するレポートを公開してきた。 そして、“とぼう岩”付近には現在の都道に至るまで、実に7世代もの道が存在していたことを突き止めた。 このうち、私が主な探索の対象としたのは、「3期:江戸道」「4期:大正道」「5期:昭和道」である。 緑:3期「江戸道」 江戸中期に日原の原島家が中心になって、とぼう岩に初めて横断する道が付けられた。 なお、探索の結果最も困難な岩盤に一の隧道を発見しているが、これが江戸道であるかは未だ不明である(レポ) 橙:4期「大正道」 大正4年に改修された道で、氷川から樽沢まで荷車の通行が可能になった。府道242号日原氷川線と呼ばれた。(レポ) 赤:5期「昭和道」 昭和6年に、従来の「大正道」を惣岳吊橋から日原まで延伸し、遂に全線荷車の通行が可能となった。引き続き府道242号と呼ばれた。今回攻略目標! 青:6期「旧都道」 昭和1

  • 【山さ行がねが】道路レポート 第三次 日原古道探索計画 江戸道編

    中世に秩父地方から進入し、この日原の地を拓いた原島家。 彼とその眷属の子孫が連綿と利用し続けた外界との連路、それが「日原みち」の始まりであった。 はじめ、外界側からこの道へ人が踏み込むことは稀であったが、やがて日原の奥地に一石山(日原鍾乳洞)なる信仰の地が現れ、近世には「日原みち」の改良が行われた。 右の図は、『日原風土記』や『新編武蔵風土記稿』などを元にして作成した、歴代の「日原みち」の概要である。 風土記における道の分類(第1期~5期)に、現道の直接の元となった道を6期として加えている。 このなかで、最も各代の道が輻輳しているのは「とぼう岩」の近辺であり、最も険しい河崖部分を大きく山上に迂回してきた第1期2期の道に対し、初めて谷中に道を開いたと考えられる第3期道は、その後の日原みちの方向性を決定づけたと言える。 この第三期道のとぼう岩開削については、風土記にはこう書かれてある。 第三期

    yamaiga
    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-88>2007年度 山行がレポート大賞第1位
  • 【山さ行がねが】道路レポート 都道194号 成木河辺線 

    都内にある自動車交通の出来ない都道は西部の多摩地区に集まっている。その多くは山間部ないし郊外にある。今回紹介する一般都道194号成木河辺線もまた、そのような路線の一つである。 そしてこの道は、ある“特異な事情”により通行不能となっている。 その事情ゆえ、従来この通行不能区間の南半分については踏査が難しく、ネット上にもこれといったレポートが存在しないようである。今回、私は意を決して挑戦してきた。 結論から言えば、道はある。 だが、この道を通ろうとするものは皆、心臓にふさふさの毛を生やす必要がある。もの凄く図太くなる必要がある。 レポートに入る前に、右の地図を使って路線を概説したい。 線(都道194号成木河辺線)は、東京都青梅市の東部を南北に縦貫する路線である。資料によれば全長は6697mあるが、このうちちょうど中央部に位置する小曽木3丁目(都道28号交差点)から塩船までの約2.2kmが自動

  • 【山さ行がねが】道路レポート 第二次 日原古道探索計画 

    あの日、私は勝者ではなかったのか? 「都内最狂廃道」などと喧伝されてきた都道204号日原鍾乳洞線の旧道を危なげなく踏破した私は、有頂天だった。 旧道の終点で「あの道」を見るまでは。 私は急遽計画を変更し、「あの道」へ行くため対岸の作業道に入った。 決定的に時間が足りなかった。 それでも私は荒れ果てた作業道をチャリで疾駆し、巨大な吊り橋の残骸が残る廃鉱山へ行った。 そのまま、「あの道」目指し、危険きわまりない斜面にも進み出た。 全てが命がけだった。 しかし、孤軍奮闘もそこまでだった… (写真右) 結局私は日原古道の核心部。「あの道」へ辿り着くことは出来ず、迫り来る夕暮れに追い立てられるように撤退した。 再訪ではなく、再攻略を誓って。 …以上が私と日原のファーストコンタクトの要約である。レポートはこちら。 撤退の翌日、私は近くの図書館へ行き日原や奥多摩町に関する郷土資料を読みあさった。 その成

    yamaiga
    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-79>2007年度 山行がレポート大賞第2位
  • 【山さ行がねが】道路レポート 日原古道探索計画 

    新たなる目的地は定まった。 苦難の果てに辿り着いた都道204号日原鍾乳洞線の旧道最奥部から、千尋の谷を成す日原川の対岸に目撃された複数の道らしき痕跡。 旧都道突破の美酒に酔うはずだった私を一瞬で素面に戻してしまった、「伝説」を超える……道。 後日、図書館に行って「奥多摩町史」を調たところ、この道らしき影は確かに道であった。 氷川から日原へ向かう古来“日原みち”と呼ばれたそれの険しさは、町史としても特筆すべきところがあったらしく、かなり詳しい記載があったのだ。 それによれば、私がいままで辿った旧都道でさえ、日原みちとしては6代目の道であるらしい。 日原に人が住み始めたのは遅くとも室町時代に遡るそうで、以来、道中で最も険しいこの岩場…“とぼう岩”(日原の戸口という意味だそうだ)の“越え方”を中心にして、何度も道が変遷してきている。 断崖の中腹をほぼ水平に通る姿が、かなり鮮明に見えるそれは、大正

    yamaiga
    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-78>2007年度 山行がレポート大賞第3位
  • 【山さ行がねが】道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線 旧道 

    後にも先にも、山行が史上最悪の路面崩壊といえば、松の木峠の旧道を置いて他にない。 そう信じてきた私だが、レポート公開以来、読者から「もっと凄い場所がある!」 そんな挑戦状のようなメールが、年に数回以上も届けられるようになった。 中でも、複数の人から繰り返し紹介された場所がある。 東京都奥多摩町の日原川流域に、おそらく松の木峠を越える絶望的な崩落地点が、存在するのだという。 促されるようにして、WEB上で見ることが出来た幾つかの現地レポートを見たが… 皆 撤退していた。 だが。 私は、この崩壊地をモニタ越しに何度か見るうち、 「突破できるのではないか」 「言うほど難しいのだろうか?」 そんな疑問を感じるようになっていた。 確かにその崩壊地の幅は、松の木の比ではないように見えた。 だが… 松の木の時のように、チャリ同伴を強制される訳ではないのだ。 極端な話し、山頂まで高巻することだって、谷底ま

    yamaiga
    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-77>2007年度 山行がレポート大賞第6位
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