天文21年(1552年)、島津貴久(しまづたかひさ)は任官がなり、幕府からも正式に守護と認められた。だが、領内はまだまだ安定しない。一度は帰順した西大隅の国人たちが、再び叛旗をひるがえすのである。 rekishikomugae.net 島津実久の死 加治木の動乱、再び 島津貴久の4人の息子たち 岩剣城の戦い(岩剣合戦) 蒲生北村の戦い 溝辺の戦い 帖佐を制圧する 蒲生城陥落 なお、日付については旧暦で記す。 rekishikomugae.net 島津実久の死 16世紀前半の島津氏の内訌は、相州家(そうしゅうけ)と薩州家(さっしゅうけ)が覇権を争ったものである。一時は薩州家の島津実久(さねひさ)が強勢で、守護についたともされる。天文8年(1539年)に島津貴久(相州家)にその座を追われたあとも、本拠地の薩摩国出水(いずみ、鹿児島県出水市)に勢力を保っていた。 島津実久が降伏したという記録はな