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ラカンに関するyanozのブックマーク (10)

  • 神経症者の個人的神話——あるいは、神経症における詩と真実 - à la lettre

    Lacan, J., Le mythe individuel du névrosé: ou poésie et vérité dans la névrose. Seuil, 2007. 神経症者の個人的神話——あるいは、神経症における詩と真実 私はみなさんに、新しいと言わざるを得ない、それだけに難しい主題についてお話したいと思います。 この話が難しいのは、話自体が内在的に難しいということではありません。この難しさは、主題が、新しいものであるような何かを扱っているがゆえのものであり、私の分析経験と私の試みが——セミネールと呼ばれている教育活動の中で——分析の根源的な現実réalitéを深掘りしようとしていることから垣間見えることがらそのものに起因しているのです。 だからこそ私は、ここで扱っていることに接近していく際のほんのさわりの部分においても、なんらかの難しさが出てきたとしても、みなさんに

    神経症者の個人的神話——あるいは、神経症における詩と真実 - à la lettre
  • 享楽への道とは死への道(ラカン)

    享楽への道とは死への道でもある(ラカン、セミネールⅩⅦ) ――とは正確には、《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance》 (S.XVII)である。 人生は、自己流儀self-fashionedの死への廻り道であり、大抵の場合、人生は、急いで目標に到達するものではない。(同セミネールⅩⅦ) S・シュナイダーマン(『ラカンの《死》』)曰く、ラカンは精神分析理論の中心軸を、フロイトの「性」から、「死」へとずらしたい願望を密かに抱いていた。が、なんらかの事情があって(シュナイダーマン曰く、トラブルを回避すべく)、「死」ではなく「享楽jouissance」にすり替えるという妥協の道を選んだ、--とは、「ラカンの享楽の図とフロイトの三人の女

    享楽への道とは死への道(ラカン)
  • カントとサド - ラカン試訳

    この論文は『閨房哲学』の序文となるはずだった。それはCritique誌にて、サド著作集に向けて、その著作集刊行の報告として発表された。貴重サークル版、1963年、15巻。 サドの著作がフロイトを先取りしているということは、たとえ倒錯の目録という観点からであっても、愚かである。そうした愚かさは文学で繰り返し言われるが、その誤りはいつものように、専門家の責に帰される。 反対に我々は、サドの閨房は、古代哲学の学派がアカデミー、リセ、ストアといった名をそこから取っているような場所に等しいという見解を維持している。ここでは、古代哲学と同じように、人々は倫理の位置を修正しながら科学を準備するのである。その点において、確かに、フロイトの道が通れるほど深い味わいの中で百年に渡り続いた整地が行われたのである。それがなぜであるかが言われるためには、そこにもう60年を数え入れてもらいたい。 もしフロイトが、伝

    カントとサド - ラカン試訳
  • The Real Jouissance of Uncountable Numbers: The Philosophy of Science within ... - Raul Moncayo, Magdalena Romanowicz - Google ブックス

  • The Role of Chimney Sweepers in Sexual Identity | Žižek | International Journal of Žižek Studies

  • ラカニアン・レフト ラカン派精神分析と政治理論 書評|ヤニス・スタヴラカキス(岩波書店)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

    新奇にみえる精神分析と政治理論の交錯を試みる書は、様々に興味深い。だが僕は、書には無縁にみえる次の問いを立て、書を政治的に詮索ゴシップしてみる。 ポピュリズムに善し悪しはあるのか、と。それは前―出来事的な浮遊する人頭ポピュレスの政治に関わるのか、とも。 この設問こそ、書の隠された論点であり、バディウ、ランセラン、クーヴェラキスがヨーロッパ全体に及ぶギリシャ政治をめぐって鼎談した問題の核心(改良か、革命か)だった。 書の構成をやんちゃに整理すれば、否認概念を軸とする第1部では、著者が言うラカニアン・レフトを臨界的外部から炙り出すために登場させられた同胞カストリアディスが検討され、師ラクラウの検討を経て、主要敵ジジェクをディスり、その戦略的な対比・・・・・・・・―離接のもとで・・・・・・第2部への結節環とされたバディウに、軽く秋波が送られる。 第2部では、著者にとっては不可欠な無意味

    ラカニアン・レフト ラカン派精神分析と政治理論 書評|ヤニス・スタヴラカキス(岩波書店)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
  • ララビアータ:スタヴラカキス『ラカニアン・レフト』 - livedoor Blog(ブログ)

    スタヴラカキスはラカンの精神分析学を政治理論に適用して、新たなラディカル・デモクラシーの戦略を提案しようとしている。ここでは魅力あふれる『ラカニアン・レフト』の全体を論じることはできないが、そこで紹介されているアラン・バディウの主張が、以前からの私の立場と重なるところが多いので、それを中心に検討してみたい。 バディウの〈出来事〉はわたくしの「問題解決」という概念に当たるように思われる。それは創造的な行為で、状況から何の必然性もなく、突発的・偶発的に介入するものであり、象徴界の不完全性(亀裂)の中に、その不完全性ゆえに介入し得る。 バディウは出来事が生起する状況を「出来事的な場」と呼び(p−185)、それが一つの実定的秩序(「所与の言説的接合体」p−184)として先在し、それが破断するところに「真理」が出現すると見なした。これは、精神分析では、主体の言説の中に出現する言い間違いや失策行為とし

  • https://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/kiyou/pdf/kiyou18/kiyou18_06.pdf

  • バルトとマナ(浮遊するシニフィアン signifiant flottant)

    マナは神秘的であるのみならず、次元の異なったなにものかでもある。要するにマナは、まず第一にある種の作用、つまり共感的な存在の相互間に生み出される遠隔の霊的作用である。それはまた同時に、重さのない伝達可能な、そして自ら拡散する一種のエーテルである。(マルセル・モース『社会学と人類学 (1)』) われわれは、マナ型に属する諸概念は、たしかにそれらが存在しうる数ほどに多様であるけれども、それらをそのもっとも一般的な機能において考察するならば(すでに見たように、この機能は、われわれの精神状態のなかでもわれわれの社会形態のなかでも消滅してはいない)、まさしく一切の完結した思惟によって利用されるところの(しかしまた、すべての芸術、すべての詩、すべての神話的・美的創造の保証であるところの)かの「浮遊するシニフィアン(signifiant flottant)」を表象していると考えている。 (レヴィ=ストロ

  • atarusasaki.net/blog » Blog Archive » 『夜戦と永遠』第一〇節訂正。

    『夜戦と永遠』第一〇節に訂正があります。迂闊な見落としと誤解のために、第一〇節の叙述がラカンの意図に反するものになってしまっています。 例えば、第一〇節の叙述の通りならば、丁半ゲームの結果が +----++・・・だった場合、21122と変換され、次にδαβγと変換とされてしまいこれは論旨に反する。 また+------・・・ならば21111となりδαααと変換され二つ落ちることになる。もっと端的に言えば、+++++++・・・ならば11111→ααααとなる、等々(しかしそもそもラカンはαの四連続は可能だがβの四連続は可能ではないとはっきり『エクリ』のなかで明言している!)。 そこで、ラカンの『エクリ』に即して、第一〇節の論旨を次のように訂正します。以下、一から論じているとたいへんに長くなりますので、やむを得ず『夜戦と永遠』第一〇節をお読みになっていることを前提として書かせていただきます。ぜひ

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