*本稿で扱う向坂達矢『FINAL FUNTASY 僕と犬と厭離穢土』については、以下のページも参照。同ページで頒布のPDFファイルで戯曲が読める。 1.笑えるために劇的な出来事、例えば、笑いどころや泣きどころを考える。20世紀後半のアメリカの哲学者はこんな小噺を書きつけていた。「人生を耐えがたいものだと思っている男が、30階建てのビルから飛び降りたとしよう。落下する途中で、パラシュートをつけた別の男の側を通り過ぎる。「意気地なし」と先の男はつぶやく」(*1)。これは泣けるし笑える。笑い泣きにも至りうる。出来事の切り取りであるが、たとえ話にもなっている。劇評そして戯曲評は概ねこのようなものとして書かれるだろう。この文章は、向坂達矢『FINAL FUNTASY 僕と犬と厭離穢土』(以下『FF』)の論評ないし批評になることを試みている。『FF』の引用は2020年サハ発行版に拠る。 戯曲『FF』に
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