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昨日、涼宮ハルヒの憂鬱「エンドレスエイト」第18話を視聴しながら、友人4人と話したことをメモ。「話した」と言っても、ずっと聞き手にまわっていたので、皆から聞いたことを。1、2年後のためのメモ。 今の所、どの回が良かったか? 「コンテ・演出・荒谷朋恵さん、作監・西屋太志さんの第13話が一番良かった」という意見が多かった(二人)。 あとは、「コンテ・演出・石原立也さん、作監・池田和美さんの第16話」と「コンテ・演出・石立太一さん、作監・秋竹斉一さんの第18話」が一人ずつ。僕は、高雄統子さんの回を挙げた。 「じゃあ、どの回があんま面白くなかったか?」という話しになったら、××××さんと×××××さんの名前が挙がった。××××さんの回は思ったより良くなかった。もっと面白いものかと思っていた。×××××さんの回はひたすら単調で観ていて辛かったという意見があった。 DVDは売れるのか? 普通なら売れな
友人宅で、涼宮ハルヒの憂鬱 第19話「エンドレスエイト」を視聴し終えて、友人2人(友人Yと友人S。先週集まった時にはいなかった二人)と話したことのメモ。どんな会話をしたか忘れないうちに。(一字一句は無理なので、要約したのを書いてます)。 終わってみて、各々が思ったこと。 友人Yの話 Yのイライラっぷりに圧倒された。 ・くそつまらない。ただそれだけ。俺は、徹底的に制作側を批判する。それと同時に一部分の視聴者も批判する。何が画期的だ。何がエンドレスエイトは素晴らしい演出だ。京アニを擁護する?。アホか。全然画期的でもなんでもないだろ。評論家気どりか。同じことを何回も繰り返しただけなんだから、面白くともなんともないだろ。こんなくだらないことを8回も繰り返すより、別のエピソードをやった方が何十倍も意味がある。早々に切り上げて、別のエピソードをやるべきだった。 ・ヤマカンが謝った意味がわかるよ。ヤマカ
コンテ・演出、武本康弘。 アバンタイトル ・キョンとハルヒが七夕について会話する場面。 お互いの会話を切り返しで見せていくのではなく、キョンのPOVショットを織り交ぜながら会話は進行していく。 キョンの「始まったな」という台詞と共に「涼宮ハルヒの憂鬱」のタイトルが出される。「始まったな」の意味通りに新シリーズが始まる。このように登場人物の台詞と映像がシンクロしていることが、このあと度々ある。 「笹の葉ラプソディ」を一話で納めようとしているせいか、全体的にかなりスピーディーに物語が展開していく。 Aパート キョンが部室を訪れる所では、新シリーズを意識しているのかどうか定かではないが*1、さりげなく人物紹介をしている。まず、部室の状況設定ショット、お茶を運んでくる朝比奈、チェスをやろうと誘う古泉、窓際で本を読む長門の順にSOS団のメンバーが取り上げられて、各々がどういう人物なのか短い間ながら明
「特集=ジル・ドゥルーズ」 ドゥルーズのどこが間違っているか? 強度=差異、および二重のセリーの理論の問題点 ドゥルーズの理論は、基本的に一元論的、スピノザ主義的なものであり、起源そのものに差異を措定することで、(自己同一的な本質‐起源とその写しからなる)プラトン的な伝統的二元論と対立している。この起源的‐本源的な差異とは、いわば即自的な差異であり、その内部では、常に自己自身からの離脱と移動、自己廃棄と自己産出がくり返される。この即自的差異は、潜在的、ないし質量的なものだが、そこでの絶えざる移動と置き換えにより、実在的‐象徴的な、現実世界内部での諸差異が構成され、つまりこの起源的な差異とは、単に産出する基体である以上に、それ自体、産出されるものと重なり合う、一つの分節的な場でもある。このカオス=コスモスとしての、一元論的な自己産出的力能は、七〇年代には器官なき身体という概念系に収斂され、そ
今回の酒井法子報道の一連を見ていて、TVの役割・ネットの役割がよくわかったような気がした。 とにかく今回の件でTV・新聞メディアはよく動いた。視聴者の足となり、「心配」が主だった捜索の頃、あらゆる可能性を想定して現地に赴き聞き込みを繰り返した。また、過去ののりPの映像をつなぎあわせ、芸能界での軌跡をつくっていった。 一方、ネットの方ではファンの人もファンでない人もいろんなつぶやきを書き込みはじめ、YouTubeでもTVに負けず過去の映像を編集し、CM集など見応えのあるものがアップされた。そしてYouTubeのコメント欄も次々に個人的な感想が書き込まれていった。 そしてTVの報道で新事実が発表される度、リアルタイムにその感想がネットに書き込まれていった。 ここまではなんだかある意味、健全だった。 ところが「心配」から「落胆」に変わった時、TVはいつものワイドショー的なノリになってくる。最近
絵文字の収録をめぐって、国際規格で大論争--「Google提案」を振り返る 皆さんこんにちは、面白くてタメになる(?)文字コード漫談の時間がやってまいりました。2月からとびとびで書いてきた絵文字の報告も、いよいよ今回が最終回。どうかよろしくお付き合いください。 さて、前回はどこまでお話ししたのでしたっけ。日本の絵文字をUnicodeに収録しようとするGoogleとAppleによる提案(以下、主導者の名をとりGoogle提案と略)ですが、去年の12月にパブリックレビューが開始されると、Unicode-MLで時ならぬ非難の嵐が吹き荒れたこと。そこでの反発を一言で言い表すなら、日本の文化に強く依存する絵文字を単純に国際規格に収録しようとした点にあったこと。 なぜなら国際規格の審議は参加各国の総意で成り立っており、特定の国しか便利に使えない文字を収録することは、当然強い反対をうけるからです。さらに
昨年末(08年12月10日)、藤沢駅前ビックカメラの7階と8階にオープンしたジュンク堂書店藤沢店の、7階下りエスカレーター前の柱まわりの平台にて、2月5日から「世界恐慌の中で生きる――ゼロ年代の思想」フェアが開催されています。3月中旬まで開催の予定。フェアのご担当者Kさんから店頭風景の写真をいただきましたので、掲載します。宇野常寛『ゼロ年代の想像力』をはじめ、若手の批評家、作家、アーティストの本を中心に、そうした若手ないし若い読者に影響を及ぼしたり再評価されているような本など(『蟹工船』とか『堕落論』とか)も集めておられます。陳列されている本の中には、宮崎誉子『日々の泡』、福満しげゆき『僕の小規模な失敗』、荒俣宏『プロレタリア文学はものすごい』、坂口恭平『0円ハウス』、そして弊社のアガンベン/メルヴィル『バートルビー』などもあります。同書は、09年2月13日発売の「週刊金曜日」738号で開
このあいだ知り合いに「キミのライバルは宇野常寛らしいよ」とか言われて(たぶんこのへんのブログを読んだんだろう)、一応今月の『SFマガジン』に載った宇野氏の評論を読んでみた。ざっと要約すれば、『エヴァンゲリオン』の碇シンジのような女々しい内面にこだわるのは止めて、『デスノート』の夜神月のように建設的で前進的なキャラクター像を大切にしようというのがその言い分である。そして、氏によれば、90年代以来の批評は、前者の引っ込み思案な内面性をひきずりすぎてダメになった。だから、「ゼロ年代」の「リアル」な「想像力」を回復するには、後者のような力強いキャラクター像が必要になるらしい。 だが、僕に言わせれば、あのキャラは内向的だからダメだの、このキャラはマッチョだから好ましいだの、そういう分類をやりがたるほうがよほど(もし宇野氏のレッテルを採用するならば)「90年代的」に見える。実際、90年代の批評という
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繰り返すが、はらぐろくんはこう書いた。 ● 文学は権力性と常に結びつく。 それは時代によって、 宗教や、政治という権力性だったりしますが、 「それをすべての人々に解放しようとしたのが 「近代文学」というデモクラティックな企て」だったとしたら、 現在はそれが反転して、 「意味」や「経済」や「情報」という専制的権力と 手を結ぶものに成り下がっている。 ● ここから文意ははらぐろくんの 東浩紀による舞城王太郎論への批判に結びついてゆくのだが、 東評論の商業性にとむ権威にたいし 「問題点の整理2」、その書き込み欄に僕が書いたことが 良い補助線になるとおもう。 もう一回、その論旨を書こう。 ただし矛先は往年の〈現在も?〉蓮実重彦だ。 ・「凡庸批判」が主題なのに、 彼は凡庸な読者を想定し物を書く。 ・結果的にその読者の自意識が過剰になる。 これは構造的な必然だ なぜ蓮実はこんなにわかりやすい矛盾律を
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