私の前歯は一本折れている。折れた理由はここでは説明しない。とにかく折れている。差し歯で十数年以上の歳月を過ごしてきた。いつまでも終わらぬ地獄のような残業中も、恋人と過ごした甘く切ないひとときにも、賞に落ちて泣いたあの日にも、息子かられんげの花束を受け取った日にも、いつも私の口内には差し歯がいた。寺地with差し歯だった。 そんな夫よりも長いつきあいの差し歯を、新しくつくりかえることになった。いくら歯医者さんにそうすすめられたからと言ってそんな売れないバンドの人が有名になった途端に長年連れ添った糠糟の妻を捨てて若い女と結婚するみたいなことしていいのかなと思ったが「歯茎のかたちが変化しているので新しい歯が必要」らしいので了承した。仕方ない。人も街も変わっていくものだ。歯茎とて例外ではない。 というわけで新しい差し歯ができるまでのつなぎとして、現在私の前歯には仮歯が入っている。あくまで仮の歯であ