ブックマーク / sivad.hatenablog.com (4)

  • 女王の顔は知覚か感覚か? - 赤の女王とお茶を

    ヘレナ・ボナム・カーターを観すぎてなんだか大竹しのぶに見えてきました。目の表情が似ているのでしょうか。 映画のほうは3Dのせいか意外と内容はアッサリしていて(構図的にはマッチョですが)、90分で二立てとかやっていた時代をなんとなく思い出しました。3Dで二時間以上見続けるのはつらいので、長大化の流れが逆転するかもしれませんね。 で、図書館で真っ赤に異彩を放っていたニコラス・ハンフリーの「赤を見る」を読んでみました。 ハンフリーの主張のポイントは以前から一貫しています。 1.知覚と感覚は別のものである 2.意識は感覚から生まれた 大きくいってこの2点。 このではどちらかというと1番目に関する傍証に力点が置かれているようです。 特に興味深かったのが、「盲視」に関する記述。 「盲視」とは、脳のある部分に損傷を受け、学術的には視力が「ない」にも関わらず、「視えている」かのような行動が可能なケース

    女王の顔は知覚か感覚か? - 赤の女王とお茶を
  • 内集団だらけのアメリカ、寡占状態の日本 - 赤の女王とお茶を

    http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20100522/1274544444 こちらのブックマークでid:crowserpentさんにご質問いただいたので素人なりに少々。 山岸俊男さんのは今手元にないのでうろおぼえですみませんが、アメリカ人のオープンネスの根拠となってる実験ってどこかの大学の学生を対象にやっておられませんでしたっけ。 実験そのものはとても面白いと思うのですが、やっぱりその解釈って難しいですよね。 はたして、ある大学の学生を集めて実験することで、アメリカ人の異質に対するオープンネスを測れるのでしょうか? アメリカの大学では、OBによる寄付が大きな財源になっているといいます。それだけ、帰属意識もしっかりしていると考えられますね。各大学も日よりはるかに多様であり、ある大学に集まる学生には、共通の目的や文化があるとみることも可能でしょう。 つまり、ある

    内集団だらけのアメリカ、寡占状態の日本 - 赤の女王とお茶を
  • これぞ大学院生必携、『研究室の人間関係学』 - 赤の女王とお茶を

    ちまたで大学院問題が再興しているみたいなので、二度目になりますが書を紹介しておこうと思います。ちなみにタイトルは「ラボ・ダイナミクス」ですが、『研究室の人間関係学』ような邦題にしたほうがずっとわかりやすいと思います。 まず前提認識ですが、大学・大学院といった高等教育はその定義からして、多様性を持つものです。 国民があまねく受けるべき教育、というのはすなわち「義務教育」なんであって、それにプラスアルファして個々人の状況に合わせて学ぶための知識や技術や思考こそ高等教育機関が受け持つべき領域なのです。 有識者の皆さんが大好きな米国の大学だって、ものすごく多様です。 ハーバードやスタンフォードといった私立研究系大学ばかり取りざたされますが、米国社会を支えているのはそれだけではなく、地域の教育や産業をになう州立大学、社会で活躍するための来的な「教養」を身につけるリベラルアーツ・カレッジなどなど、

    これぞ大学院生必携、『研究室の人間関係学』 - 赤の女王とお茶を
  • たぶん科学リテラシー以前に生活リテラシーが必要なんだと思う - 赤の女王とお茶を

    当に一般人に科学常識は必要なのか。 科学知識や科学リテラシーがあったほうがいいか、というと、もちろんあったほうがいいですよ。 政治や経済や歴史や心理や法律やITや語学や芸術なんかの知識やリテラシーがあったほうがいいのと同じく。 ただし、現代は複雑で巨大で、すべての分野で専門知識をマスターするのは不可能。 当の科学者であってすら、自分の専門以外で十分なリテラシーがあるとは限りません。 だから教育において「まず」教えるべきは、もっとヒューリスティックな「生活リテラシー」とも言うべきものではないでしょうか。 たとえば正確な科学知識がなくとも、また多少は怪しいものを買ってしまったとしても、当に危ないところまではいかないようなセンス。 世の中見わたしてみると、正確で厳密な知識がなくても、危ないものはうまく察知してするりと回避してしまう人がいますよね。 世間知とか呼ばれることもあるのかもしれません

    たぶん科学リテラシー以前に生活リテラシーが必要なんだと思う - 赤の女王とお茶を
  • 1