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ブックマーク / sunakago.hateblo.jp (2)

  • 全体への道、個への道 ――TVアニメ『アイドルマスター』論 - 鳥籠ノ砂

    「961プロダクション」の社長である黒井崇男は、「765プロダクション」の社長である高木順一朗に「負けを認めたわけではない」と吐き捨てて去っていく。これが単なる遠吠えではないとすれば、いったい物語終盤のどこに彼の勝機があったのだろうか? TVアニメ『アイドルマスター』(原作:バンダイナムコゲームス)は、「765プロダクション」に所属する駆け出しのアイドルたちを描いた青春群像劇である。物語は、大きく二つのパートに分けられている。すなわち、アイドルたち全体の姿を描くエピソード群と、一人ひとりにスポットライトを当てるようなエピソードに。この構造は、作品に通底するひとつのテーマを示している。それは「全体」と「個」の葛藤、あるいは前者から後者への移行と言うべきものである。そして、そのテーマを最も引き受けているのが主人公のプロデューサーである。 第一話、主人公はカメラマンからプロデューサーへと転身する

    全体への道、個への道 ――TVアニメ『アイドルマスター』論 - 鳥籠ノ砂
  • 「ポスト・エヴァ」など存在しない。――『エヴァ』試論2―― - 鳥籠ノ砂

    したがって、『エヴァ』はレイとアスカの二項対立ではなく、レイとアスカとミサトとカヲルの四項対立で考えるべきである。「セカイ系」や「ポスト・エヴァ」といった枠組みさえ外せば、そうしない理由はどこにもない。 そもそも、レイとアスカが当に対立しているのかさえ怪しい。『エヴァ』を批評する者たちは、レイに「虚構」「母性」「アニメ的女性」といった属性を読み込み、アスカには「現実」「異性」「生身の女性」といった属性を読み込むと、シンジがアスカを選んだかのような結末から「現実に帰れ」「他者と向き合え」というメッセージを思い描く。これが間違っていることは、既に述べた。すなわち、シンジはアスカに「帰って」いるのではなく「逃げて」いるのであり、「生身の女性」を「他者」「現実」に結びつけることはできないのである。だいいち、「生身の女性」などといった言葉はほとんど語義矛盾と言っていい。「生身の女性」と言う時点で、

    「ポスト・エヴァ」など存在しない。――『エヴァ』試論2―― - 鳥籠ノ砂
    yogasa
    yogasa 2012/02/21
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