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内田樹に関するyoinakのブックマーク (10)

  • 幼児化する男たち - 内田樹の研究室

    『Ane Can』という雑誌の取材を受ける。 『Camcan』のお姉さんヴァージョンである。 このところ女性誌からの取材が多い。 どうしてだろう。 わからない。 インタビュイーの選考は先方のご事情なので、私の与り知らぬことである。 お題は「愛と自立」 う〜む。 「愛をとるか、自立をとるか」でお悩みの20代後半女性にアドバイスを、というご依頼である。 端的には「仕事をとるか、結婚をとるか」ということのようである。 つねづね申し上げているように、これは問題の立て方が間違っている。 仕事結婚も、どちらも人間が他者と取り結ぶさまざまな interdependent なかかわりの一つであり、どちらも人間が生き延びるためには「あったほうがよい」ものである。 「仕事もない、配偶者もいない」というのがワーストで、「おもしろい仕事もあるし、すてきな配偶者もいる」というのがベストであり、その間に無数のグラデ

    yoinak
    yoinak 2010/07/02
    幼児的な欲求が、幼児的に「だだ」をこねることで満たされた場合、人はその成功体験に固着するから、幼児性はさらに強化されることになる。
  • 人間はどうして労働するのか - 内田樹の研究室

    『日の論点2010』(文藝春秋)が届いた。 そこに「労働について」一文を寄せている。 こんなことを書いた。 「働くとはどういうことか」 編集部から「働くとはどういうことか」というお題を頂いた。この問いがトピックとなりうるという事実から私たちはさしあたり次の二つのことを推論することができる。 (1)「働くことはどういうことか」の定義について、現在のところ一義的な定義が存在しない(あるいは定義についての国民的合意が存在しない)。 (2)そのことが「うまく働けない」若い人たちが存在することの一因だと思われている。 だが、「働くとはどういうことか」についての一義的な定義や国民的合意が存在しないことを私は特に困ったことだと思っていない。その理路を述べたいと思う。 人間だけが労働する。動物は当面の生存に必要な以上のものをその環境から取り出して作り置きをしたり、それを交換したりしない。ライオンはお腹が

  • 格差社会論(再録) (内田樹の研究室)

    今回の秋葉原の事件に「格差社会下層」に自分を「格付け」するという「物語」が深く関与していることにはどなたも異論がないだろう。 私は以前そのような「物語」が瀰漫することに、とりわけそれが「政治的に正しい」説明原理として称揚されることについてその危険を指摘したことがある。 『神奈川大学評論』という大学紀要に寄稿したものであるので、大学関係者以外には読まれた方はほとんどおられないであろうから、ここに再録する。 2007年の9月に書かれたものである。 この論考のせいで私は「保守系リベラル」「中道右派」とカテゴライズされることになった(ウィキペディアにはそう書いてある)。 ここに書かれたことのどこが「中道」なのか、どこが「保守」なのか、私にはよくわからないが。 善意の格差論のもたらす害について 内田樹 「格差」という語はそれ自体では価値中立的なものであるが、現在のメディアではこの語は中立的なものとし

  • 言論の自由について - 内田樹の研究室

    言論の自由について思うことを述べる。 繰り返し書いていることだが、たいせつなことなので、もう一度書く。 言論の自由とは 私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言いたいことを言う。 その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする。 ただそれだけのことである。 だが、ほとんどの人は「言論の自由」を前段だけに限定してとらえており、後段の「その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする」という条件を言い落としている。 私は「言論の自由」が持続可能な社会的規範であり続けるためには、後段の条件が不可避であろうと思う。 「その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする」という条件のどこがそれほど重要なのか。 それはこの条件が「敬語で書かれていること」である。 それは擬制的に「理非の判断を下す方々」を論争の当事者よりも「上に置く」ということである。 「私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言い

  • 誰か教えて - 内田樹の研究室

    ドキュメンタリー映画『靖国 YASUKUNI』の上映が予定されていた映画館五館が、嫌がらせや営業妨害を懸念して、上映を取りやめた。 同じような事件は年初にもあった。 日教組の教研集会会場に予定されていたグランドプリンスホテル新高輪が同じ理由で使用を断ったのである。 右翼の街宣車が集まって、顧客や周辺住民に迷惑がかかるからという理由だった。 そのとき、グランドプリンスホテル新高輪関係者に訊きたかったことがあるので、忘れないうちに書いておく。 グランドプリンスホテル新高輪は日教組をこの場合「顧客」には算入しなかったと解釈してよろしいのか、ということである。 予定していた集会が中止になることによって日教組が蒙る損害は「顧客の迷惑」にはカウントされない、と。 つまり、利用者のうち誰が「顧客」であり、誰が「顧客」でないかは、グランドプリンスホテル新高輪が利害得失を勘定して決定する。ということでよろし

  • 「政治的に正しいこと」は正しいのか? - 内田樹の研究室

    バリ島海水浴でばりばりに日焼けした上にスキー焼けしたので、季節感のない色黒男になってしまった。 むかしはこういうのを「くろんぼ大会」と称したのであるが若い人はご存じないであろう。 1960年代までは夏休み明けに一番黒く日焼けした子どもを学校で表彰していた。 たいへんよい企図のものであったと思うのだが、「くろんぼ」がご案内のとおりポリティカリーにコレクトではないということで使用禁止用語となり、ついでに「よく遊んだこと」を肌の黒さを基準に考量し、これを讃えるという風儀もまた失われたのである。 ポリティカル・コレクトネスによる用語制限によって私たちが得たものと失ったものはどちらが多いのか、ときどき疑問になる。 自分の語法に伏流するイデオロギー性を自己検閲する習慣を定着させたという功績はむろん高く評価されねばならぬ。 だが、PC の難点は「自分の語法に伏流するイデオロギー性を自己検閲する習慣に伏流

  • 小学生に英語を必修させる必要があるのか? - 内田樹の研究室

    文科省は学習指導要領を改訂し、小学校五年六年から英語を必修化することを決めた。 愚かなことである。 日語がこれだけできなくなっている知的状況で二カ国語を学ばせる意味がどれほどあるのか。 特にオーラル中心の語学教育の子どものメンタリティへの影響については、もうすこし真剣に考えた方がよろしいのではないか。 英語運用能力を重視する教育機関で何が起きているか、みなさんはご存じであろうか。 論理的には当たり前のことであるが、それは「英語運用能力の高さにもとづく人間的価値のランキング」である。 「英語が他の教科に比較して際だってよくできる」という条件をクリアーしてその教育機関に入学した学生は、当然ながら、「英語ができることは、きわだってすぐれた人間的能力である」というイデオロギーのかたくなな信奉者になる。 これはごく自然なことであるから非とするには当たらない。 けれども、そのような学生たちの教場での

  • 老いの手柄 - 内田樹の研究室

    Happy birthday to me〜 57回目の誕生日である。 まさか自分が57回目の誕生日に Happy birthday to me〜というような気の抜けた「行き場のないギャグ」を口にする老人になろうとは少年の頃には思いもしなかった。 人生というのは予断を許さぬものである。 私は16歳の頃に自分が57歳の時にどんなことを考えている人間になるのか想像もつかなかった。 想像がつかなかったのは、「57歳というのは、すごい大人だ」と思っていたからである。 16歳はガキであるから、ガキの想像力をもってしては57歳の爺の頭の中に渦巻く妄念や諦観や洞見についてはそれを忖度することはできるはずがないと思っていたのである。 そこらへんの考えの浅さがやはり16歳のガキである。 なんのことはない。 40年経っても、「がわ」が爺になっただけで、16歳の私はそのまま手つかずで残っているのである。 そういう

  • テレビの仕事 - 内田樹の研究室

    福田康夫と麻生太郎が生出演する「報道ステーション」を見る。 私はもともとテレビをまるで見ない人間なのであるが、「選挙速報」を甲野先生たちとわいわいツッコミを入れながら見たときに癖がついて以来、政治番組だけは一人でも見ている。 古舘伊知郎のインタビューを聴きながら、なんだか違和感を覚える。 彼は何か有用な情報を聞き出したいのか、それとも「質問してもきちんと答えない」様子を生放送で全国に放送したいのか、そこのところが私にはよくわからなかった。 相手が答えにくいような質問をして、その絶句するさまや、答えをはぐらかすさまから、その人の人物識見度量などを判定するということはたしかに可能である。 劫を経たジャーナリストの中には「それだけ」しかテクニックがない人(T原S一朗とか)もいる。 セレブたちが思いがけない質問に対応に窮するさまをみて視聴者が溜飲を下げるとか、爽快感を覚えるということもたしかにある

  • 武道の必修化は必要なのか? - 内田樹の研究室

    学習指導要領の改定作業を進めている中央教育審議会の体育・保健部会は4日、中学校の体育で選択制の武道を必修化する方針を決めた。 礼儀や公正な態度など、日の伝統文化に触れる機会を広げるのが狙い。 2011年度から実施予定。男子の武道は92年度まで必修だった。女子について必修化するのは戦後初めて。 伝統文化の尊重は、昨年12月に改正された教育法にも盛り込まれていた。 同部会主査の浅見俊雄東大名誉教授は「必修化で一層、日の伝統に親しんでもらいたい」と話している。 武道とともにダンスも必修化される。 というニュースを見る。 不思議なことを考える人たちである。 武道とダンスを必修化・・・って、それって神戸女学院大学の「武術と舞踊で切り開く新しい教育の可能性」と「同じ流れ」なんですか?と訊かれそうであるが、私は(ぜんぜん)違うと思う。 どこが違うのか、その理路を述べたい。 日の武道は近代におい

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