ブックマーク / www.asiapress.org (55)

  • <裏金1500万超の杉田水脈議員>の収支報告書を検証 会合費にスナックやバーがずらり キックバック入金は「日付不明」と記載 「説明できないなら辞職すべき」と専門家 これが報告書の写真だ

    <裏金1500万超の杉田水脈議員>の収支報告書を検証 会合費にスナックやバーがずらり キックバック入金は「日付不明」と記載 「説明できないなら辞職すべき」と専門家 これが報告書の写真だ ◆杉田議員は質問への回答を拒否 安倍派(清和政策研究会)に所属する杉田水脈衆議院議員(中国比例ブロック選出)が代表を務める政治団体「杉田水脈なでしこの会」(以下、「なでしこの会」)は、1月末に政治資金収支報告書を訂正し、派閥からの「キックバック」が裏金として、2018年以降の5年間だけで1564万円もあったことを自ら明らかにした。しかし不可解な訂正はそれだけではないことが、その後の調査で分かった。(フリージャーナリスト・鈴木祐太) ◆安倍派からのキックバック「日付は不明です」と記載 杉田議員の「なでしこの会」は過去5年分の収支報告書を1月31日に訂正した。今になって安倍派からの寄付が18年に340万円、19

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  • <北朝鮮内部>「コロナ勝利」はウソかまことか (1) 発熱者は継続発生…「PCR検査なんて知らない」 集団免疫獲得の認識広がる

    北朝鮮内部>「コロナ勝利」はウソかまことか (1) 発熱者は継続発生…「PCR検査なんて知らない」 集団免疫獲得の認識広がる 5月に新型コロナウイルス感染者の発生を公式に認めた金正恩政権は8月10日に「勝利宣言」を出した。以降、感染者も発熱者も出ておらず、行動規制も大幅に緩和されたというが、実態はどうなのか? 8月後半、北部地域に住む取材協力者たちに現状を聞いた。その1回目は両江道(リャンガンド)の二人の証言を紹介する。(カン・ジウォン/石丸次郎) ◆両江道の二人の証言 10日に開かれた全国非常防疫総括会議で「勝利宣言」して以降、北朝鮮当局は毎日発表してきた「悪性伝染病による発熱者数」を出さなくなった。25日には両江道でコロナ関連が疑わしい発熱者が4人発生したと報じたが、翌日にはインフルエンザによるものだったと説明している。 「勝利宣言」以降の実態について恵山(ヘサン)市に住む二人の報告

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  • <北朝鮮内部>「コロナ勝利」はウソかまことか (2) 「幹部たちは今ごろになって感染している」 

    堤防を補修・強化工事に動員された住民たち。屋外だがマスクを着用している。2021年7月中旬、平安北道を中国側から撮影アジアプレス fa-arrow-circle-right<北朝鮮内部>「コロナ勝利」はウソかまことか (1) 発熱者は継続発生…「PCR検査なんて知らない」 集団免疫獲得の認識広がる ◆咸鏡北道からの報告1 8月10日に新型コロナウイルス感染症の終息と勝利を宣言した金正恩政権。以降、死亡者も発熱者も公表されていない。実態はどうなのか? 連載の2回目は咸鏡北道(ハムギョンプクド)のある都市に住む取材協力者の報告。(カン・ジウォン/石丸次郎) 8月後半に状況を伝えてきたC氏は咸鏡北道のD市に住む労働者で労働党員。5月に北朝鮮当局がコロナの発生を認めた後、D市でも発熱者が急増して市全体が封鎖され外出禁止措置が長く続いた。C氏も感染したという。 これまでのアジアプレスの調査では、多く

    <北朝鮮内部>「コロナ勝利」はウソかまことか (2) 「幹部たちは今ごろになって感染している」 
  • <不逞鮮人>とは誰か~関東大震災下の朝鮮人虐殺を読む(2) 「官」から「民」へ通達された流言蜚語

    震災当時の浅草寺仁王門前。中央に積み上げられているのは自警団が「朝鮮人狩り」に使用した金棒や竹槍。(『関東大震災写真帖』日聯合通信社・1923年) 作家・江馬修はルポルタージュ小説『羊の怒る時』に自身の惑乱を綴った。それは「不逞鮮人」の襲撃を否定できない心理の吐露であった。かたや物理学者で随筆家の寺田寅彦は流言をデマと断定する。情報が錯綜する混乱の下、決定的だったのは「官」から「民」へと通達された流言蜚語の肯定だった。(劉永昇) ◆現実となった「新しい恐ろしい災厄」 江馬修(1889~1975、えましゅう)のルポルタージュ小説『羊の怒る時』は、震災の翌年1924年12月から台湾の新聞『台湾日日新報』に連載され、1925年10月に単行が刊行された。関東大震災を題材にした文学作品として最も早い時期に出版されたものと言えるだろう。 小説『受難者』がベストセラーとなり人道主義作家として注目され

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  • <不逞鮮人>とは誰か~関東大震災下の朝鮮人虐殺を読む(1) 引き継がれてきたデマ

    東京を焼き尽くす火炎を表紙にした『大正大震災大火災』(大日雄弁会講談社)は、震災から1カ月月あまりで刊行され40万部のベストセラーとなった。表紙画は横山大観。 大正12年(1923年)に起きた関東大震災から今年で99年。1世紀という時の経過にもかかわらず、いまだ封印されたままの過去がある。震災下に行われた朝鮮人虐殺事件の真相は、これまで一度として公式に調査されず、その原因の究明も責任の所在も犠牲者の数さえも曖昧なまま忘れられようとしている。連載は、震災下に広く流されたデマゴーグである〈不逞鮮人〉という言葉をキーワードに、当時の文学作品や体験者の証言などを追いながら、抑圧された負の記憶を呼び起こそうするものである。震災100年を前に、今この事件と改めて向き合わなt6ければ、真実を知り和解へとつながる道が永遠に見失われるかもしれないからだ。(劉永昇・編集者) ◆届かなかった「追悼文」 東京

    <不逞鮮人>とは誰か~関東大震災下の朝鮮人虐殺を読む(1) 引き継がれてきたデマ
  • <不逞鮮人>とは誰か~関東大震災下の朝鮮人虐殺を読む(3) 「十五円五十銭」の闇その1…「貴様、朝鮮人だろう?」 作家・壺井繁治の経験

    政府は朝鮮人迫害を制止する告諭を発し、言論人もまた「不逞鮮人の襲撃は風説に過ぎない」と認めた。にもかかわらず朝鮮人の殺戮はなぜ続いたのか。壺井繁治の小説『十五円五十銭』の記述から、緊迫する情況の深奥を覗く。(劉永昇) ◆流言は「デマ」、……にもかかわらず 山権兵衛内閣は9月5日に告諭を発し、 「民衆自ら濫(みだり)に鮮人に迫害を加うるがごときことは固(もと)より日鮮同化の根主義に背戻(はいれい)するのみならず、諸外国に報ぜられて決して好ましきことにあらず」 と一転して自警団に自重を求める。 司法省資料「震災後に於ける刑事事犯及び之に関連する事項調査」を山田昭二氏が分析したところによれば、関東大震災時に犯罪を行ったとされる朝鮮人容疑者は約140名。関東一帯を襲撃するにはおよそ足りない人数であるが、そのうち氏名不明、所在不明、逃亡・死亡した者が約120名にものぼる。つまり、容疑者のほとんど

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  • <不逞鮮人>とは誰か~関東大震災下の朝鮮人虐殺を読む(4) 「十五円五十銭」の闇その2…難波大助の見た朝鮮人労働者

    社会主義者と朝鮮人労働者の結びつきに当局が警戒を強めるなか、関東大震災が起きた。帝都には戒厳令が布かれ、軍の出動が民心の惑乱に拍車をかけた。(劉永昇) ◆朝鮮人労働者へのメーデー大弾圧 震災4ヶ月前の5月1日、東京市芝区芝公園で第4回メーデーが開かれた。「植民地解放」をスローガンに掲げたこのメーデーには朝鮮人労働者が多数参加し、会衆の総勢は約1万人にのぼった。これに対し警視庁は2000人余の警官を投入して大弾圧を加えた。 日人社会主義者が一様に驚いたのは、朝鮮人労働者の闘争力の強さだったという。この日から半年あまりのちに摂政・裕仁親王(後の昭和天皇)をステッキ銃で狙撃(「虎ノ門事件」)した難波大助は、このメーデーに参加していた。彼はその印象を記している。 メーデーにおける/サーベルの朝鮮人に対して行なった/あの暴圧と圧制ぶりはどうであったか。/東京の真中で、白昼衆目環視のうちで──/……

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  • <不逞鮮人>とは誰か~関東大震災下の朝鮮人虐殺を読む(5)「十五円五十銭」の闇その3…デマを拡散した新聞報道

    壺井繁治を載せた汽車が群馬県の磯部駅で停車中、隠れていた3人の朝鮮人が捕縛される。彼らの運命はどうなったのか――。東京から遠く離れるほど流言蜚語の内容はエスカレートしていた。そこには新聞メディアの力が大きく働いていた。(劉永昇) ◆捕えられた朝鮮人の運命 回想の中、壺井の乗る汽車は大宮から信越線に入った。 途中停車場に着くたびに兵士が乗り込んできて、車内はもちろん列車の底まで調べ上げた。そして上州・磯部駅(群馬県)で3人の朝鮮人が客車の底に隠れているのが見つかった。 ……暫くしてワッとときの声が上がった。そして哀れな三人の鮮人労働者はこの土地の青年団の手に依って捕えられたのだ。ときの声に交って、やっつけちまえ、だとか、殺しちまえ、と云うような声が私の耳に微かに聞き取られた。……車内の人々は今の出来事をとりどりに話し合った。鮮人が列車の底に隠れていたのは、この列車を顚覆さすためだったのだと

    <不逞鮮人>とは誰か~関東大震災下の朝鮮人虐殺を読む(5)「十五円五十銭」の闇その3…デマを拡散した新聞報道
  • <関東大震災95年>なぜ朝鮮人虐殺の事実を直視しないのか デマとトリックに騙されないために(加藤直樹)

    2009年に墨田区に建てられた「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」は、地域の人の協力も得て、きれいに護られている(2013年 撮影:yekava roboto) ◆「私の祖父はあの時、刺されました」 今日は9月1日。1923年の関東大震災から95年が経ったことになる。 私が関東大震災時の朝鮮人虐殺を描いた『九月、東京の路上で』を刊行したのは、2014年3月のことだが、その翌年、横浜で講演する機会があった。話し終えて片付けをしていると、小柄なおばあさんが近づいてきて、穏やかな表情のままで、こう語った。 写真特集:関東大震災の虐殺事件現場を行く(写真9枚) 「私の祖父はあのとき、トビ口でここを刺されました」 「あのとき」とはもちろん、関東大震災時のことだ。そして、「ここ」とは後頭部のこと。彼女はそのとき、人差し指で自分の後頭部をトントンとたたきながら「ここ」と示したのである。 「奇跡的

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  • 関東大震災の「朝鮮人虐殺はなかった」という人びと 「歴史修正主義」本を検証してみた(加藤直樹)

    ◆「朝鮮人暴動」を伝える流言記事が「証拠」 前回の記事(1月19日「日版『否定と肯定』裁判で問われた南京事件」)で、歴史学者がホロコースト(ナチスドイツのユダヤ人虐殺)否定論者に訴えられたという実話に基づく法廷劇を描いたイギリス映画『否定と肯定』を紹介し、それを地で行くような裁判が、日でも南京事件の生存者の証言をめぐって起きていたという話を書いた。 まともな歴史学の見地からは否定しようがない史実を史料の歪曲や曲解、果ては捏造によって否定しようとする試みを「歴史修正主義」と呼ぶ。歴史修正主義の内実がいかにデタラメでなものであるかを、私が身にしみて痛感したのは、自分の関心領域である関東大震災時の朝鮮人虐殺についての否定論について検証してみたときだった。 「朝鮮人虐殺などなかった」という主張は、2009年に出版された工藤美代子『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版)に始まる。14年

    関東大震災の「朝鮮人虐殺はなかった」という人びと 「歴史修正主義」本を検証してみた(加藤直樹)
  • 90年前の誤報復活させた「トリック」本を拡散した産経の責任「朝鮮人虐殺否定論」を書籍化し紹介(加藤直樹)

    産経新聞2009年12月に掲載された工藤美代子氏へのインタビュー記事と13年11月掲載の「虐殺否定論」紹介記事。 ◆「朝鮮人虐殺否定」は歴史学では荒唐無稽 前回の記事(「日版「否定と肯定」裁判で問われた南京事件」1月19日アジアプレスネットワーク)で、私は、工藤美代子『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版、2009年)とその新装版である加藤康男(工藤氏の夫)『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(ワック、14年)で展開する「朝鮮人虐殺否定論」について紹介し、その主張がどのようなトリックに基づいているかを説明した。 1923年9月1日に起きた関東大震災直後、「朝鮮人が暴動を起こした」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という流言を信じた自警団や軍の一部が多くの朝鮮人を虐殺した。ところが工藤夫は、こうした認識は誤りであるという。これまで流言とされてきた朝鮮人の暴動や放火などは事実であり

    90年前の誤報復活させた「トリック」本を拡散した産経の責任「朝鮮人虐殺否定論」を書籍化し紹介(加藤直樹)
  • 他国罵倒と自画自賛―戦時中の世相を見つめた清沢洌「暗黒日記」から今を見る(加藤直樹)

    『暗黒日記』(岩波書店)は、戦前に活躍した外交評論家、清沢洌(きよさわ・きよし)が太平洋戦争中に書き残した日記。彼の分析は、戦時中の日にあふれた誤った思考傾向を、鋭くえぐっている。 清沢洌(きよさわ・きよし)は、戦前に活躍した外交評論家である。日米関係を中心に、外交問題を自由主義的な立場から批評し続けた。その清沢の著作の中で、今も広く読まれているのが、死後に刊行された『暗黒日記』だ。清沢が太平洋戦争中に書き残した日記である。(加藤直樹) 日米開戦の1年後、1942年12月から始まり、急性肺炎で50年の生涯を終えた45年5月まで書き続けられた。戦時下の政府やメディアの論調、社会の雰囲気などを観察、批評したもので、彼はこれを、戦争が終わった後に日の外交政策を検証するための資料としてまとめていた。 『暗黒日記』が今も読まれているのは、当時の人々の認識や思考を鮮明に切り取っているからだ。清沢は

    他国罵倒と自画自賛―戦時中の世相を見つめた清沢洌「暗黒日記」から今を見る(加藤直樹)
  • <現地報告>アフリカ最後の植民地・西サハラを行く(3)砂に囲まれた最大都市エルアイウンに入る

    <現地報告>アフリカ最後の植民地・西サハラを行く(1)プロローグ 15年ぶりに訪れた現地は大変化 一面の砂景色からは想像しにくいが、西サハラには現在、約50万の人々がいる。1975年の「緑の行進」と呼ばれるモロッコ人の入植開始以降、西サハラの民サハラーウィとモロッコ人が、同じ町の中で暮らしてきた。それぞれの町に、それぞれに異なる町の特徴がある。連載前半では、西サハラを構成する主要な町の様子を報告する。 ◆通勤客で混み合う砂上のビジネス街 真っ直ぐに伸びるアスファルトの路面は、ところどころ、押し寄せた砂に埋もれている。 「ようこそ。サハラの滞在を楽しんで。ノープロブレム」 砂漠に囲まれた検問所のモロッコ憲兵は、陽気な声でこう話し、こちらにパスポートを戻した。検問所の先にある巨大なアーチをくぐると、水の匂いが濃厚に香ってくる。 信号のある交差点をいくつも通り過ぎながら、住宅街を抜けて中心部へ

    <現地報告>アフリカ最後の植民地・西サハラを行く(3)砂に囲まれた最大都市エルアイウンに入る
  • <現地報告>アフリカ最後の植民地・西サハラを行く(2) モロッコ侵攻に始まった西サハラ問題 岩崎有一

    <現地報告>アフリカ最後の植民地・西サハラを行く(1)プロローグ 15年ぶりに訪れた現地は大変化 そもそも、西サハラ問題はどのようにしてはじまり、どんな経緯を経て今日にいたっているのか。なぜ、アフリカ大陸のなかで唯一、地図上では空白のままなのか。西サハラの歴史をふりかえっておきたい。 西サハラでは、サハラ砂漠が海に接する。海側がモロッコ占領地で、内陸部がサハラ・アラブ民主共和国解放地だ(ダーフラ近郊・西サハラ/Dakhla, Western Sahara 2018 撮影:岩崎有一) ◆遊牧の民、サハラーウィ 西サハラとされる地域に暮らしてきた人々は、「サハラーウィ」と呼ばれている。 サハラーウィは、アフリカ北部に広く暮らすベルベル人と、11世紀ころにイエメンから移動してきたアラブ人のベニー・ハサーン族、サハラ砂漠以南のサブサハラ系アフリカ人とが混ざり合って構成される人々だ。現在でも、西サハ

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  • <現地報告>アフリカ最後の植民地・西サハラを行く(1)プロローグ 15年ぶりに訪れた現地は大変化 岩崎有一

    西サハラ問題は、「忘れられた紛争」とも呼ばれることがある。 アフリカ北西部の「西サハラ」と呼ばれる地域では、1975年にモロッコが入植を開始して以来、帰属の定まらないまま、今日にいたっている。 西サハラは、よそ行きの顔をした紛争地とも言えよう。 モロッコにおいて西サハラ問題に触れることは最大のタブーであり、その実情を知ろうとするものの入域は拒まれてきた。また、西サハラの民が声を上げれば、当局による弾圧が待っている。現地を訪ねても、見えてくるのは「モロッコの一部として繁栄する西サハラ」ばかりだ。西サハラの内実を知ることは、難しい。 実は、日との繋がりもある。日に流通するタコの2割強が、西サハラの海でとれたものだ。タコを介して、私たちは西サハラと繋がっている。 2018年、西サハラのモロッコ占領地を訪ねた。15年ぶり、4度目となる。そこには、モロッコ化されつつある姿と、モロッコ化されること

    <現地報告>アフリカ最後の植民地・西サハラを行く(1)プロローグ 15年ぶりに訪れた現地は大変化 岩崎有一
  • <現地報告>アフリカ最後の植民地・西サハラを行く(4) 監視される町 エルアイウン 岩崎有一

    <現地報告>アフリカ最後の植民地・西サハラを行く(1) >> 商機を求めてやってくる人々で賑わうエルアイウンは、一見すると穏やかなサハラの町だ。しかし、この穏やかさは、強い力で統制された静けさでもあった。西サハラ最大の都市エルアイウンに、3つの特徴を見た。 ◆モロッコにはない、エルアイウンの3つの特徴 西サハラ最大の都市エルアイウンには、モロッコの町と比べると明らかに異なる特徴が、三つある。 町に、外国人がいない。 モーリタニアやセネガルなど、アフリカ近隣諸国からの来訪者は見かけることはある。しかし、欧州やアジアなど、アフリカ以外の地域から来た来訪者を見かけることは、極めて少ない。今回一度だけ、中国の方から声をかけられたことがあった。彼は、アジア人である私を見かけたことがあまりにも珍しく、ついこちらに声をかけたと話していた。アフリカの隅々に進出する中国人が驚くほど、他地域からの来訪者は少な

    <現地報告>アフリカ最後の植民地・西サハラを行く(4) 監視される町 エルアイウン 岩崎有一
  • 大阪・守口市旧庁舎のアスベスト建材こっそり撤去  府条例や契約違反の可能性も

    大阪府守口市の旧市役所庁舎解体にともなうアスベスト(石綿)除去をめぐり新たな問題が持ち上がった。約2カ月間かけて丁寧に除去するはずだったアスベストを含有する成形板約6600平方メートルのほとんどがわずか2日間でこっそり撤去されていたのだ。(井部正之/アジアプレス) ◆こっそりレベル3建材を撤去 守口市の旧庁舎解体をめぐっては、2018年12月10日に調査ミスなどが指摘されて以後、市は工事を停止させていた。 2月上旬、住民からアスベストを含有する可能性のある仕上塗材(壁などの表面に施工する塗材)が使用された外壁をぶち抜いたがれきが散乱する写真を見せられた。また、アスベスト含有建材の除去は始まっていないはずなのに「石綿保管場所」と書かれたコンテナが置かれていることを不安に感じる声も上がっていた。 大阪府環境管理室事業所指導課によれば、12月14日に市と業者から話を聞き、作業はしていないと説明し

    大阪・守口市旧庁舎のアスベスト建材こっそり撤去  府条例や契約違反の可能性も
  • 知られざる関東大震災「中国人」虐殺と「戦後日本のヒーロー」加藤直樹

    1923年に起きた関東大震災。一部の地域では中国人労働者も襲撃対象となっていたことはあまり知られていない。その中国人虐殺現場近くで(東京都江東区大島で2013年9月撮影・yekava roboto) 1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災は死者10万5000人という惨事となった。その直後、混乱の中で、「自警団」と呼ばれる一般の人々や軍の一部によって数千人ともいわれる朝鮮人が虐殺された事実は、中学の教科書にも記載されている。ネットで読める資料としては、内閣府中央防災会議のHPで閲覧できる報告書「1923関東大震災第2編」の第4章が正確でコンパクトだ。 虐殺の引き金となったのは、「朝鮮人が井戸に毒を投げた」「朝鮮人が暴動を起こした」といった流言蜚語だった。それを信じた人々が、朝鮮人を襲ったのである。流言蜚語も虐殺も、もともとあった民族差別の産物だった。 ところでこのとき、一部の地域

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  • <北朝鮮内部>文大統領が金正恩氏と白頭山登頂計画か 現地は厳戒 道路整備に住民大挙動員

    北朝鮮の両江道と中国吉林省にまたがってそびえる白頭山を中国側から撮影。カルデラ湖の天池の向う側が北朝鮮だ。2015年5月に撮影パク・ヨンミン(アジアプレス) 韓国の文在寅大統領が18日から2泊3日の予定で北朝鮮・平壌を訪問するが、北端の白頭山を訪れる可能性があり、現地で住民を大規模動員して、道路整備に当たらせていることが分かった。(カン・ジウォン) 関連写真を見る:秘密カメラが捉えた動員される民衆の姿 土木工事に農村運動員まで(10枚) 白頭山のある両江道に住む取材協力者は、18日朝に現地の様子を次のように伝えてきた。 「文大統領の白頭山訪問準備のため、13日からふもとの恵山(ヘサン)から三池淵(サムジヨン)までの道路の保守作業を、工場や政府機関、人民班の住民を多数動員して大々的に行っている。中央や道の高級幹部も三池淵に続々集結している」 また、両江道一帯では、公安機関と国境警備隊が総動員

    <北朝鮮内部>文大統領が金正恩氏と白頭山登頂計画か 現地は厳戒 道路整備に住民大挙動員
  • アグスの死~東ティモールの記憶 (3) 野中章弘

    アグスはバリ島で雑貨商を営む中国系の家庭で生まれている。インドネシアでは、田舎町の小売商人から独裁政権の金庫番となった政商まで、中国系は国家経済の動脈を牛耳ってきた。 だが彼らは圧倒的な少数者であり、イスラム社会と交わらぬ異教徒だったため、政府や国軍は事あるごとに中国系をスケープ・ゴートに仕立て上げていた。政治に対する庶民の不満や反感をそらすための「ガス抜き」である。暴動などが起こるたび、中国系は迫害の対象となり、暴徒の犠牲となった人びとは数知れない。 アジア有数のリゾートとなったバリ島でも、血なまぐさい記憶はまだ歴史の断面にべったりとこびりついている。40年前、いわゆる9月30日事件共産党によるクーデター未遂事件と言われるが、原因には諸説ある)勃発後、全土で10万人とも30万人ともいわれる人びとが虐殺、処刑されたが、親共・容共と目された華僑たちは徹底的に追い詰められ、惨死していった。

    アグスの死~東ティモールの記憶 (3) 野中章弘