1959年東京都生まれ。1985年秋田大学医学部卒。在学中YMCAキャンプリーダーで初めて自閉症児に出会う。同年東京医科歯科大学小児科入局。 1987〜88年、瀬川小児神経学クリニックで自閉症と神経学を学び、栃木県県南健康福祉センターの発達相談で数々の発達障がい児と出会う。2011年、茨城県つくば市に筑波こどものこころクリニック開院。
『発達障害に生まれて』(松永正訓著/中央公論新社)ノンフィクションのモデルとなった立石美津子です。 ある朝、息子が顔を石鹸で洗った後、上手に流せていませんでした。そこで、私が泡が残ったところを指差して、「ここ残っているよ」と注意しました。すると、息子が「僕のこと重度だと思ってるの!?」と言い返したのです。息子はちょっとでも否定されることに敏感なので、切れてしまいました。 私が「そんな言葉は、決して口に出してはいけないよ!」と更に叱ると、その言葉を無視して「僕のこと重度だと思っているの!」と繰り返し反撃されました。息子は「あなたのこと重度だとは、思っていないよ」と言ってほしかったのだと思います。でも、私は咄嗟に「差別意識は良くない」と思い、叱りました。
特別支援教室の先生との面談で、新年度のことを聞きました。来年度からは、特別支援教室に在籍できるのは基本的に1年になり、面談などを経て1回延長ができ、最長2年間は通えるという制度に変わったそう。ミミは長くても小学校の4年生まで。6歳のころ通っていたクリニックの先生には「特別支援教室は通えるだけずっと行ったほうが良い」と言われていたので今回の制度変更で私はちょっと不安になりました。 ガイドライン変更のチラシをよく読んでも分からないので、東京都に電話をしました。すると、最大2年通えたとして、その次はゼロベースで見直し、通常学級で支援員をつけてもらう、福祉につなげる(放課後等デイサービス)、特別支援学級なのかなど、総合的に判断するとのこと。 せめて最長2年は特別支援教室にミミを通わせたいなと思ったので、ミミのASDの診断書を書いてくれた小児科医の先生の診察を予約をしました。予約は半年後。そこで特別
1959年東京都生まれ。1985年秋田大学医学部卒。在学中YMCAキャンプリーダーで初めて自閉症児に出会う。同年東京医科歯科大学小児科入局。 1987〜88年、瀬川小児神経学クリニックで自閉症と神経学を学び、栃木県県南健康福祉センターの発達相談で数々の発達障がい児と出会う。2011年、茨城県つくば市に筑波こどものこころクリニック開院。 自閉症の息子は現在21歳。特別支援学校高等部卒業後は就労移行支援事業所に通い、職業訓練を受けています。新型コロナ感染拡大の中、求人も少ないため就労移行支援事業所は2年限定の通所施設ですが、すでに3年目となります。 そんな中でしたが、息子は某有名企業の特例子会社で3日間の実習させていただきました。ですが結局、内定には至りませんでした。 息子はせっかちな性格です。また、障害特性のため落ち着きがありません。家の中では時間さえあれば常に何かをしていたり、動いたりして
息子が特別支援学校高等部の学生だったときの話です。血が滲むくらい手足の爪をむしっていたので、「ばい菌が入るから、止めなさい!」と注意しました。この私の言葉でスイッチが入ってしまい、家の中で暴れました。 パニックを起こしつつも、自閉症のある子の特性なのか、決まった時刻19時46分になったら、マンション地下にあるゴミ捨て場に、ゴミを捨てに玄関から出て行きました。(うちのマンションはゴミ捨て場にはいつ持って行ってもよいことになっています) いつもなら1分くらいで戻ってくるのに、いつまで経っても帰ってきません。 5分くらい経過したでしょうか?管理人室から、 「息子さんがパニックを起こしています」と連絡がありました。さらに、共用部でパニックを起こしているときに、マンション他の住人の方が通りがかり、苦情も出てしまったとのことでした。 息子には、知的障害のある自閉症があることを管理会社に伝えています。苦
Pはわが家の末っ子の次男として生まれました。私は2人目の育児ということもあり、乳幼児期のPに対しては成長や発達の違和感などは全く感じておらず、むしろ育てやすい方だと思っていました。 Pは笑顔も見せるし、目も合う、こちらの言うことにも反応し、簡単な模倣もしていました。離乳食が始まってからも偏食は全くなく、何でも食べるような子でした。 私はこのころ既に、発達障害に対する知識も少しはあったのですが、乳幼児期のPを育てていても定型発達だと思っていましたし、少し言葉の遅れがあるくらいで焦らずとも2歳になったら流石に自然に話すようになるだろうし、全然大丈夫だろうと気楽に考えていました。 しかし、それから何ヶ月経っても言葉は全く出て来ず、それどころか今までできていたことも少しずつできなくなって行き、定型発達の子に追い付くどころか差は広がる一方でした。
素行障害(素行症)とは、その年齢における社会規範に反する行為のいずれかが半年以上あり、かつ1年の間にそうした行為が複数みられる状態です。 社会規範に反する行為の例として、いじめ・喧嘩など人や動物に対して危害を加える行為、放火や他人の所有物の破壊行為、詐欺や不法侵入及び万引きなどの窃盗行為、13歳未満での夜間外出や家出・学校をさぼりる行為などが挙げられます。 診断にあたっては、こうした行為が、社会生活において障害を起こしているかが確認されます。 なお、10歳になるまでに特徴があらわれている場合を児童期発症型、10歳以降に症状があらわれた場合を青年期発症型と分類します。18歳以上の場合は反社会性パーソナリティ障害(反社会性パーソナリティ症)の基準を満たさない場合に限り診断されます。 ※素行障害は現在、「素行症」という診断名となっていますが、最新版『DSM-5-TR』以前の診断名である「素行障害
発達障害のある子どもとの日々をコミックエッセイとして描いた草分け的な存在である、かなしろにゃんこ。さんにこれまでの作品や子育てを振り返っていただきました。 編集部(以下――)かなしろにゃんこ。さんの最初の代表作といえば、2009年の『漫画家ママの うちのこはADHD」。もう12年も前になりますが、今も発達障害、特にADHDのある子どもを育てる参考書として人気です。当時はまだ、発達障害のある子との日々をコミックエッセイにする、という発想自体が少なかったですよね。どのようにスタートしたのでしょうか。 かなしろにゃんこ。さん(以下、かなしろ):当時は少女マンガ誌で連載をしていましたが、子どもの心と体の発達をテーマとした専門書を、同じ出版社の別の部署が制作していて、その書籍のマンガ部分を担当したんです。ちょうど「発達障害」という言葉が教育現場に浸透し始めたころだったと思います。わが家の話も本にした
…………最近、荒れてる? 秋になってから睡眠が乱れたり、突然泣き出したりと不安定な部分が増え、癇癪の質が変わったような気がする…と思っていた矢先、事件は起きました。 焼き芋パーティーで焼き芋を一本ぺろりと食べたと連絡帳に書いてあったことに嬉しくなった私は、「いっちゃん、焼き芋食べられたんだね!すごいね!」と声をかけました。 その瞬間... ギギギギギ!スパーン!ぐいーーー!! 顔を引っ掻かれ、頭を叩いてから髪の毛を引っ張られ、私は呆然としました。 幼稚園でもやっているかもしれない、やっていたらどうしよう。 不安になり先生に報告したところ…数日前から先生を噛んだり、お友達の髪を引っ張ったりしていたことが判明したのです。
――綾屋さんは、発達障害のある人を中心に当事者研究を行う会「おとえもじて」の発起人で、ご自身も大人になってからASDの診断を受けていますよね。幼少期はどのように過ごされていましたか? 綾屋紗月さん(以下、綾屋):3〜4歳の頃、家では、「なんでこんなに自分の思っていることが両親に伝わらないのだろう」「どうしてわたし、いつも泣いているのかな」と感じていました。 父に怒られたわたしは悔しくて泣くのですが、後から「あのとき、あなたはこういうつもりだったんだよね」と通訳のように言葉にしてきて。「わかってるんだったら、なんでさっきあんな風に怒ったんだよ」と腹が立って、余計に泣いてしまうようなこともありました(笑)。母はわたしが何を考えているのかが本当にわからなかったようで、「この子も大きくなれば、自分のことを自分で説明できるようになって、生きやすくなるだろう」と思いながら育てていたらしいです。 それで
一人で行かせるかどうか、悩ましい登下校問題。我が家は、むっくんの交通ルールに対する理解と友達へのかかわり方への不安が拭えず、当分の間登下校に付き添うことに決めました。父、母、祖母で協力して送迎しているものの少し大変です。ただ、思わぬメリットもありました。送迎することで先生に毎日会え、諸々相談がしやすいことや、登下校中に親子並んで歩くおかげで、むっくんと良いコミュニケーションが取れているように感じています。学校に慣れる段階にいる今は、送迎の大変さよりもメリットの方が大きいように感じています。 また、登下校中に親がいることで友達付き合いに影響がでるかも?と心配していましたが、家に迎えに来てくれる子や、登下校中に会ってそのまま一緒に登校する友達もいて、問題なさそうです。むっくんの小学校には同じ保育園出身の子が多く、私たち親とも顔見知り。そのためか、お友達は親がいても気に留めず過ごしてくれています
今年の3月下旬から新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために、多くの全国の小中学校が休校となりました。でこぼこ兄妹の兄、タケルの大学は急遽リモートのみの授業となり、妹いっちゃんの中学はなんと無期限休校というロングバケーション。 これまでは不登校気味とはいえ、週に1~2度は学校に行って総合学習室で支援スタッフの先生と勉強したり、授業で使ったプリントなどをやったりしていたいっちゃんですが、休校期間は出された宿題を家でやり進めることに。 提出日の遠い宿題を毎日少しずつ家でこなすのは難しく、次第にお絵かきやMMDなどの"自主学習"に熱を入れるようになりました。 元々、夏休みの宿題はカンタンなところは最初にやって、残りはギリギリまでやらないタイプです。必然的に学校での勉強の方は積み残しが多くなってきました。
『発達障害に生まれて』(松永正訓著/中央公論新社)ノンフィクションのモデルの立石美津子です。 息子は特別支援学校高等部を卒業後、就労移行支援事業所に通所しています。先日、息子が事業所で使っているテキストを見る機会がありました。そして、息子が書いた解答が目に留まりました。 【問題】 ゴミを集めてくれる人がいなかったら、どうなるでしょう。 【息子の解答】 道路にゴミがたくさん出てしまって、集積所の看板が出るからです。 【問題】 道路工事をしてくれる人がいなかったら、どうなるでしょう。 【息子の解答】 工事中の場合は、通行止の看板が出たり、道路工事中の看板が出たりします。 おそらく、求められている答えは次のようなものなのでしょう。 「ゴミを収集してくれる人がいなかったら、ゴミが溜まり私達の生活が成り立たなくなります」 「道路工事をする人がいなかったら、(通行できる道路がないために)車で移動できな
いつも元気で勝気なADHDと広汎性発達障害がある息子リュウ太ですが、実は保育園から小学校6年生まで母の私にべったり♡でした。 保育園に通っていた5歳くらいから徐々に甘えん坊になってきたのです。 リュウ太はいわゆる「悪魔の2、3歳児」とよばれる時期がなかった子でした。遊びがうまくいかなくてカンシャクをおこすことはあっても、着替えをイヤがったり、遊びを途中で終わらせたりすることに反発することはなく、幼児期はとても育てやすい子でした。だからこの頃には発達障害だと気がつかなかったのかもしれません。 しかし、5歳くらいから徐々に強い自己主張が始まり、育てにくい子になってきました。 発達障害がある子は成長がゆっくりといいますから、今考えると悪魔のイヤイヤ期が遅れてやってきたのかもしれません。笑 自己主張が強くなるのと同時に私が恥ずかしくなるぐらいに甘えるようにもなりました。 機嫌よく遊んでいる最中に私
小6の5月に急遽中学受験が決まった発達凸凹の長男。 ドタバタながらも無事に第1希望と第2希望の私立中学校が決まりましたが、私立に合格できなかった時のことも考えて、公立進学についても検討しておかなくてはいけません。 わが家の住む地域は、学区域外の中学校でも選択することができるので、通える範囲の公立中学の中から、進学を希望する学校を決める必要がありました。 今回は、公立中学校はどのように決めたのかについてご紹介します。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く