ブックマーク / honcierge.jp (3)

  • 幸福とは呼べない幸せに、胸がギュッとなる【結城洋平】

    たけのこと豚肉を細切りにして甘辛の餡で炒め、チャーハンの上にかけた肉絲炒飯(ルースーチャーハン)。渋谷のバスケットボールストリートの宇田川交番のすぐ後ろにある兆楽という中華料理屋の絶品チャーハン。爪 切男(つめ きりお)さんの“死にたい夜にかぎって”にも出てくる名店で、渋谷で仕事終わりが多い最近は必ずこのルースーチャーハンをべる。書いてるそばからべたくなってきた。 「爪 切男(つめ きりお)さんと同じ回で、アフタートークの出演依頼が来ているけど、どうかな?」 マネージャーK氏(以降、K氏。)から話が来たのは夏の日差しがまだ強いカンカン照りの日だったと思う。役者の先輩である善雄善雄(よしおぜんゆう)氏が主宰のザ・プレイボーイズという演劇ユニットが4年ぶりに下北沢で復活公演をやる。そのアフタートークへの出演依頼という、とても光栄なお誘いを頂いた。 しかし最初は「やだ!断ってほしい!」とK氏

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  • 幻想のなかの日本人――ハーフの表象

    私は、日で生まれ、日で育ち、国籍は日、母国語は日語。日人である。しかし、「純粋な日人」とは見なされなかった。 私は、「ハーフ」であった。 日では、1985年まで、国籍法では父系主義を採用していた。母親だけが日人である場合には日国籍は付与されないのだ。私は父親が外国人である。もし、私がそれ以前に生まれていたら、日で、日人の母親から産まれたとしても、父の国の、外国籍の申請をしなければ、自動的に無国籍になってしまう。この法改正が、私の産まれるたった6年前と知ったのは、中学生のときだった。日人である、とむしろ「純粋な日人」より強く意識し、誇りを持っていた私は、アイデンティティ・クライシスに陥った。 私が化粧をしてごく普通の格好で東京の街を歩いていても、目立つことはない。幼少期、ジロジロ見られていた「西洋人」らしい特徴は薄まった。瞳は黒色だし、髪は栗色。ありのままの色合いは

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  • ブルマーを語ることは「抑圧と解放のパラドックス」を語ることだ

    オリンピックも終わり、新学期が始まるこの時期。スポーツと学校、どちらも合わさった「ブルマー」が、今回のテーマ。このタイトルを見て、少しにやりとしたあなた。苦々しい記憶に、眉をひそめたあなた。 私にとって、「ブルマー」とは、上の世代を苦しめた魔のアイテムである。小学時代、中学時代、「今の時代はいいねえ」と聞かされ続けてきた。私は91年生まれ。小学校では、ちょうど、我々の入学年に男女共通のハーフパンツが体操着として導入された。というわけで、私は一切、指定体操着として、ブルマーを履いたことはない。 熊県出身。1991年10月20日生まれ。オーディション「ミスiD2013」で準グランプリを受賞しデビュー。アイドル書評家として、タレント活動や執筆活動を行う。雑誌『SFマガジン』 と『ダ・ヴィンチ』にて書評コラムを連載中。NHK Eテレの『ニッポン戦後サブカルチャー史』シリーズに出演。また、北海道

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