ブックマーク / ashizu.hatenablog.com (12)

  • 歌うことと闘うこと――『マクロスF』に見出される女性的な立場と男性的な立場 - metamorphosis

    現在『マクロスF』の劇場版が公開されているわけだが、僕も今度この作品を見に行く予定なので、その予習を兼ねる形で、この作品についてちょっと書いてみたい。いったいこの作品でどのようなことが問題になっていたのかということを自分なりの視点で少しまとめてみたいと思ったのだ。 『マクロスF』を物語的な観点から見ていったときに注目されるべきなのは、メインとなる三人の登場人物、つまり、アルト、シェリル、ランカという三人の登場人物の関係性である。これら三人の登場人物の関係を恋愛における三角関係として提示するのがオーソドックスな見方であるだろうが、そのようなありきたりの見方を踏襲しても面白くないので、ここでは、あえて別の観点を提出してみたいと思っている。それは、すなわち、これら三人の登場人物を男性と女性とで分けて、男性と女性を対立させるという観点、つまり、アルトをシェリルやランカと対立させるという観点である。

    歌うことと闘うこと――『マクロスF』に見出される女性的な立場と男性的な立場 - metamorphosis
  • 偽者として生きるということ――『魔法少女リリカルなのは』に見る現代的な不安 - metamorphosis

    フロイトは「精神現象の二原則に関する定式」という論文の中で次のような奇妙な夢を報告している。 ある男が父が長いあいだ苦しんだ不治の病気を看病したが、父の死んだ翌月に何回も次のような夢を見たという。父がまた生きかえって、昔のように彼に話をしている。ところが彼は、父がもう死んでしまっているのに、それを知らないでいるのを非常に心苦しく感じていた。 (『フロイト著作集6』、井村恒郎訳、人文書院、1970年、41頁) 自分がもうすでに死んでいるのにそのことを知らないということ。ここにひとつ現代的なモチーフを見出すことができるような気がする。 こういうことを僕が思ったのは、『魔法少女リリカルなのは』のアニメ(第1期)を改めて見たからなのだが(劇場版『なのは』も見た)、この作品に登場するフェイトというキャラクターが抱えている問題というのも、まさに、この「自分がすでに死んでいるのを知らない」という状態では

    偽者として生きるということ――『魔法少女リリカルなのは』に見る現代的な不安 - metamorphosis
  • 『けいおん!』と現在時の肯定――京都アニメーションにとってのチョココロネ - metamorphosis

    毎度のことだが、新作アニメの消化がスムーズに進まない。前クールのアニメもまだかなり残っている。 そんな中でも、話題の『けいおん!』は見ているのだが、すでにネット上でかなりの人がこの作品について語っているので、別に今この作品をあえて問題にしなくてもいいかなあ、と漠然と思っていたのだが、昨日、たまたまYouTubeにアップされていたオープニングの曲を歌詞を見ながら何度も聞いてしまって、その歌詞があまりにも良かったので、それに引きずられるような形で、『けいおん』のアニメについて、現在思っていることをちょっと書いておきたい。 今のところ、三話まで『けいおん』を見たが、僕は、この三話だけで、この作品を完全肯定していいと思っている。それは、アニメの出来不出来という問題の他に、個人的な思い入れももちろんあるのだが、そこら辺のことをちょっと書いてみたいと思う。 以前に書いたことであるが、僕は、『らき☆すた

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  • アニメ『とらドラ!』における家族の問題――『CLANNAD』とも比較して

    アニメの『とらドラ!』の最終回を見た。今クールは、『CLANNAD AFTER STORY』という、『とらドラ!』とテーマ設定のところでいろいろと重なる作品があったので、『とらドラ!』を見ているときでも、『CLANNAD』とどう違うのかといったことをいろいろと考えながら見ていることが多かった。その点について少し書いてみたい。 『とらドラ!』も『CLANNAD』も家族を問題にしている作品であると、ひとまず、言うことはできる。しかしながら、ここで問題となっている家族というのは、家族というものの自明性が失われた後の家族だろう。つまり、家族という言葉がいったい何を意味するのかよく分からなくなった、そのような地点から、これらの作品が、再び家族というものを捉え直そうとしているように思えるのである。 『とらドラ!』と『CLANNAD』との共通点は、恋愛関係が家族を作ることと密接に結びついているところであ

    アニメ『とらドラ!』における家族の問題――『CLANNAD』とも比較して
  • アニメ『かんなぎ』に対する不満――2008年秋アニメについての雑感 - metamorphosis

    今年の10月から始まって現在放送されているアニメ『かんなぎ』は、『涼宮ハルヒの憂』や『らき☆すた』の制作に関わった山寛が監督をしているという点で、現在最も注目を浴びている作品だろうし、僕自身もそのような文脈で期待していたのだが、放送が2ヶ月経った時点での感想を述べてみると、この作品は、いったいどこへ向かっていこうとしているのかという方向性のよく分からない作品だと言える。 もちろん、この作品が、他の無数のTVアニメと比べてみたときに、比較的上質の作品であることは間違いない。オープニングのアニメーションは実に素晴らしい。ナギが歌っているアニメーションのクオリティが高いというだけでなく、間に挟まれる似非アイドル物語の演出も素晴らしい。加えて、オープンングの曲もエンディングの曲も非常にいいと思う。同様に、編の演出でも、注目に値する場面がいくつもあった。 だが、それにも関わらず、この作品を全体

    アニメ『かんなぎ』に対する不満――2008年秋アニメについての雑感 - metamorphosis
  • 『人魚姫』の持つ今日のリアリティ――『崖の上のポニョ』と『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』について - metamorphosis

    最近、偶然にも、アンデルセンの『人魚姫』を現代風にアレンジした二つの作品を見たり読んだりした。ひとつは、宮崎駿の最新作『崖の上のポニョ』であり、もうひとつは、桜庭一樹の小説『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』をマンガ化した作品である(漫画:杉基イラク)。言ってみれば、これらの作品の作者は、『人魚姫』という古典的な作品から現代的なリアリティを読み取ったわけだが、いったい、この『人魚姫』という作品のどこに現代的なリアリティがあるのだろうか? アンデルセンの『人魚姫』のストーリーに忠実なのは『砂糖菓子の弾丸』のほうである。この作品では、最後、海野藻屑という名の少女が、その名の通り、海の泡になってしまう。これに対して、『ポニョ』のほうでは、ポニョが泡になることはない(つまり原作の物語の展開とは異なる)。この差異はいったい何を意味しているのだろうか? 『ポニョ』において、ポニョが海の泡になることはないが

    『人魚姫』の持つ今日のリアリティ――『崖の上のポニョ』と『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』について - metamorphosis
    yu_i
    yu_i 2008/09/02
  • 日常の脆弱な関係性から非日常の強固な関係性へ――アニメ『セキレイ』について - metamorphosis

    現在放送中のアニメ『セキレイ』では、関係性(所属関係)の移行が問題になっている。浪人生である佐橋皆人は、突然、セキレイ計画と呼ばれるバトルロワイアルに巻き込まれることになる。結(むすび)という名のセキレイとの出会いが、彼の日常生活、彼の人生を大きく変える。日常生活に対するこの暴力的な介入こそが、物語の始まりを印づける。佐橋皆人のそれまでの人生はそこで切断され、新しい人生がそこから始まる。言ってみれば、彼は、何も書かれていない白紙の人物として、その生を再出発することになるのである。 もちろん、あらゆる関係性が白紙になるわけではない。この物語においては、妹との関係が重要な意味を持っている。しかし、家族関係を始めとした多くの社会的関係が、この作品においては、極めて希薄である。佐橋皆人がどのような人物であるのかということは、まったく明らかではない。彼は浪人生であり、受験のために上京して、一人暮らし

    日常の脆弱な関係性から非日常の強固な関係性へ――アニメ『セキレイ』について - metamorphosis
  • 近年のアニメ作品における同居と調和のテーマについて――家族的関係がはらむ暴力に関して - metamorphosis

    極めて今日的なテーマとして暴力というものがあるだろう。いったいなぜ暴力が問題になるかと言えば、暴力を問題にする観点はいくつもあるだろうが、まずひとつ言えることは、われわれが他者と関わるときに、その他者が極めて暴力的な存在として浮かび上がってくるということがある。その他者自身には、周囲の人間を不快にさせようという悪意を持っていなくても、周囲の人間にとっては、その他者の行なうことが、さらには、その他者の存在自体が、不愉快な侵犯として感じられるということがありうる。結果、この他者を排除しようとするときに暴力が生じることになるだろうが、そこで暴力を行使する者は、往々にして、自分を被害者の場所に位置づけていることだろう。つまり、自分は先に他者から暴力を受けており、そうした暴力に対する正当防衛として暴力を行使するのである、と。 今日のサブカルチャー作品で同居をテーマとして描いた作品はいくつもあるが、そ

    近年のアニメ作品における同居と調和のテーマについて――家族的関係がはらむ暴力に関して - metamorphosis
  • metamorphosis:日常と非日常とを分ける節目の時――『うる星やつら』と『涼宮ハルヒの憂鬱』を巡って

    前回は、アニメを見ることに関わる実存的な問題を少しだけ提起した。そこで問題になっていることは、生活のリズムを刻むこと、平板な世界にいかに起伏をもたらすか、ということである。これは、つまるところ、世界をいかに意味づけるか、ということである。あるいは、日常生活というものをいかにして再構成するか、ということである。 この日常生活の分節化の問題が、今日の非常に多くのサブカルチャー作品に見出されるということが、現在の僕の関心事である。何度も繰り返すことになるが、日常生活そのものを描くことはできないので、こうした作品において問題になっていることは、言ってみれば、日常生活における節目を発見することであるだろう。つまり、何かの終わりであると同時に何かの始まりでもあるような、そうした節目を様々なところに発見することが問題になっているのである。 現在は卒業式のシーズンであるが、卒業式というのもまた、ひとつの節

    metamorphosis:日常と非日常とを分ける節目の時――『うる星やつら』と『涼宮ハルヒの憂鬱』を巡って
  • metamorphosis - 寄る辺なき透明な存在の叫び――『機動戦士ガンダムSEED』の開いた地平

    『コードギアス 反逆のルルーシュ』を第二話まで見た。この作品の第一話を見たときにまず思ったのは、このアニメが『機動戦士ガンダムSEED』に非常によく似ている、というものだった。この既視感は、プロデューサーの竹田菁滋の力によるところが大きいのではないかと思われるが、それは、ともかくとして、いったい『ガンダムSEED』が開いた地平とはどのようなものだったのか、ということを改めて考えてみるべきだという思いに強く駆られた。今後、『コードギアス』がどのような物語を展開していくのか分からないが、そのことについて考える前に、『ガンダムSEED』のことをもう一度よく考えてみるべきだと思ったわけである。 僕は、このブログで、『ガンダムSEED』の重要性を何度も強調しているが、その重要性を適切に位置づけるのは、なかなか困難な作業だと思う。『ガンダムSEED』は、何かを終わらせて何かを開始したのであり、『ガンダ

    metamorphosis - 寄る辺なき透明な存在の叫び――『機動戦士ガンダムSEED』の開いた地平
  • metamorphosis -可能世界の可能性――タイムリープと時間の不可逆性について

    ツガノガクのマンガ版『時をかける少女』を読んだので、この作品のモチーフから連想したことをいくつか書いてみたい。 僕は、原作の小説を読んだことがないので、このマンガがどれくらい原作に忠実なのかよく分からなかった。しかしながら、この作品のモチーフが現代的であるということには異論がない。従って、この作品が今年アニメ化されたのも非常に納得のいくことである。つまり、過去に戻るというモチーフが極めて現代的だと思うわけである。 よく、ファミコンなどのゲーム機に関連して、リセットということが問題になるが、そこで問題になっていることとは何なのだろうか? それは、もちろん、可逆性/不可逆性の問題である。時間は逆流しない。これは、死の絶対性の問題と関わっているが、しかし、厳密に言えば、やはり性質の異なる問題であるだろう。もし、人間が不死になったとしたら、時間の不可逆性の問題も同時に解決されるだろうか? これは、

    metamorphosis -可能世界の可能性――タイムリープと時間の不可逆性について
    yu_i
    yu_i 2006/10/07
    「人間にとって重要なのは現実であるよりも可能性である、ということが言えるかも知れない」
  • 終わる予感と終わらない物語 - metamorphosis

    劇場版『うる星やつら』の第5作目である『完結編』を見た。この作品は、何でも、原作のマンガの最終巻をアニメ化したものらしい。従って、この『完結編』は、『うる星やつら』の公式的な最終話だと言っていいのだろう。 物語は、そこで、原点回帰をしている。つまり、『うる星やつら』の第1話で行なわれたラムとあたるの鬼ごっこが最終話でも繰り返されているのである。こうした一種の円環構造を持つ作品は、決して珍しくはないだろう。物語の始まりが同時に終わりにもなる、というような構造である。 僕は、『うる星やつら』の熱心な読者でも視聴者でもないので、断定的に述べることができないが、この『完結編』を見ると、作品の後期ぐらいには、作品の世界がすっかりと熟成してしまっていたのだろうと思われる。言い換えると、その世界においては、もはや新しいことは何も起こらない、ということである。それゆえ、『完結編』で行なわれていることは、言

    終わる予感と終わらない物語 - metamorphosis
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