もし、たとえば気持ちが落ち込んで瞑想する必要を感じるときだけやるのは、意味がないの。それだとやっばり気分の言いなりになっていることになるからなんですって。気分というのがいちばんの暴君で、そもそも坐禅の理念はその暴君から自由になることなのだと先生は言うの。 ― ローレンス・シャインバーグ 『矛盾だらけの禅―悟りを求めるアメリカ人作家の冒険』(清流出版、2010年、太字は引用者による) 情動(emotion)とか気分(mood)とかのお勉強をしていたせいか、太字の部分にハッとしました。われわれはいつもなにがしかの気分でいるわけですが、ある瞬間にどういう気分でいるか、明確な理由があるわけではありません。 そんな「気分」がわれわれの思考に意外と強い影響を及ぼすことを考えると、「暴君」とは言い得て妙だと思いました。 上記の引用文の前には『私の先生は、その気になってもならなくても、毎日同じ時間に(引用
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