はじめに さる2007年6月5日に行われた東浩紀と伊藤剛の対談「『テヅカ・イズ・デッド』から『ゲーム的リアリズムの誕生へ』」のダイジェスト版と私的な感想をまとめた。すべてを網羅するのではなく、個人的に印象に残った部分のみを断片的に抜き出すようなかたちになっている。これは本エントリの目的が対談のレポートにあるのではなく、個人的な感想を述べることがメインになっているからである。 抜き出した部分にはこちらで勝手にタイトルをつけて、大まかな性格を与えた。まずは“1.『ゲーム的リアリズムの誕生』について”。ここでは、東浩紀自身が自著についての説明を行った箇所のみを引用している。本来は、対談の中での伊藤剛とのやり取りの一部分にすぎなかったものだ。しかし、『ゲーム的リアリズムの誕生』の読者にとってはある程度参考的な内容となるのではないかと思う。 “2.キャラクター文化にとっての美とは?”とその次の“3.
↑タコシエ・オンラインにて絶賛発売中!通販可能!在庫切れの際はご容赦ください。 【関連サイト】 ・純粋なココロ(旧サイト) ・世界のはて(はてなダイアリー別館) ・Twitter@Masao 【正直、むしろ古いと思った】 ・さて次の企画は - 95年エヴァンゲリオン文化圏の終わり--知的な塹壕としての「ゼロ年代の想像力」スタートと、よしながふみ「フラワー・オブ・ライフ」完結について ↑の記事で絶賛されていたので、産まれて始めてSFマガジンを買って、「ゼロ年代の想像力」を読んでみたんだけど…… ゴメン、これ書いてる宇野常寛氏の感性こそが、時代遅れだと感じてしまった。「セカイ系」が90年代的な時代遅れの感性だとしたら、「決断主義」は2000年代前半的な5年くらい時代遅れの感性だと思う。 この文章で宇野氏は、「バトルロワイヤル」「デスノート」「ドラゴン桜」「野ブタ。をプロデュース」と
デジタルメディアの台頭とともに「あらゆる映画が見られる」ようになったといわれる今日、映画批評はどう変わったのか。その本道はどこに求められるべきか。蓮實重彦氏に聞く。 (インタビュー/構成:三浦哲哉) 目次 1.データベース化の幻想 2.反復する顔、しない顔 3.70年代の映画批評 4.リアルタイム批評のすすめ──マイケル・マンか、ガス・ヴァン・サントか 1.データベース化の幻想 ──1994年に『シネティック』の関口良一さんがなされたインタビューの中で、蓮實先生は、あらゆるものが見られる状況になったことで、映画を巡る言説は多様化するのではなく、かえって単調なものになっている、と述べておられます[1]。それから約10年が過ぎましたが、大状況としてはこの発言を追認せざるをえないかと思います。今回のインタビューでは、まず先生が述べられたこの見解を念頭に置きつつ、映画批評における歴史性について、メ
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