1917年2月1日に三重県宇治山田市(現在の伊勢市)の青果商「小田屋」を営む沢村賢二・みち江夫婦の長男として生まれる[3]。父の賢二も生来の野球好きだったが、沢村も明倫小学校に入学するころから野球に興味を示すようになった。 4年生で小学校の野球チームの投手になるが、四年生にしてはずいぶん速い球を投げる、として地域では既に有名だったという[4]。5年生でチームのエースになると、明倫小学校は三重県大会で優勝する。京都の岡崎公園で行われた全国大会では3回戦で和歌山小学校に敗れるが、沢村は1試合平均15三振を奪って一躍注目された[5]。 京都先端科学大学付属高校敷地内に建立されている沢村の像の碑文 京都商業学校(現在の京都先端科学大学附属高校)に進学する。野球部は設立されたばかりであり、沢村一人に頼るワンマンチームであった。それでも1933年春の選抜でチームとして甲子園初出場を果たし、いきなり準々