存在と本質(esse-essentia) トマスは存在を無条件に認める。つまり、現実がもつ信実性を承認する。存在はただそれ自体として自立的に存在する。これが存在の根本性格であり、質や量といった偶有性は二次的に見出されるに過ぎない。トマスは当時のアリストテレス解釈から新プラトン主義やアラブ的な混入要素を取り除き、純粋なアリストテレスの存在論を求め、そしてその上で彼を乗り越えようとした。つまり、アリストテレスにおいては存在論的基本概念は「形相−質料(forma-materia)」と「現実態−可能態」であったが、それにトマスは「存在−本質(esse-essentia)」を加えた。 トマスによると「形相−質料」は主に自然世界の存在者(質量的事物res materialis)に限られるが、「現実態−可能態」は自然世界のみならず、質量を持たない形相のみの存在者(天使(知性的実体)や神(純粋現実
次は、「トマス・アクイナスの善の哲学」です。ラテン語と日本語の、論文になるでしょう。 これから、自分自身との、斗いです。眠っていても、その内容が、うかぶのですよ。そうして、できた論文が、「トマス・アクイナスの知の哲学」だったのですよ。それ以上の、内容に、なるとおもいます。わたくしの、本を買ってくださったかたがた。二冊めは、もっとすごいです。そうならなければならないとおもうような構想なのです。期待していてください。ただし、わたくしも、歳ですので、体力的に、書けない場合も、あります。でも、ライフ・ワークとして、どんなに短編になろうとも善と、幸福論について書かなければ.という、使命感があります。・・・二冊目。・・・人間は、なんのために、生きているのだろうか.という、高校生のときに、私自身が、悩んでいたことに、答える内容です。・・・人生はすばらしい。人間は他人のために、努力しよう。友愛こそが、すべ
長倉久子『トマス・アクィナスのエッセ研究』(知泉書館、2009)を読み始める。まだ半分ほど。著者の長倉氏は2008年1月に逝去されていて、これは古いものから近年のものまで、トマスに関する論文を編纂した一冊のようだけれど、まさに著者が後の世代に贈った遺書という感じでもある。いやいや単なる遺書という生やさしいものではないかも。これはむしろ挑戦状か。収録論文でおそらく最重要のものは、4章目の「<だ>そのものなる神」。一見するとちょっと変なタイトルに見えてしまうけれど、なんとこれ、西田哲学とトマス思想との対比を試みたもの。著者はトマスにとっての神、あるいは本源としてのesseが、西田幾多郎のいう「絶対無」と同じく、現実を支えながらそれ事態はある絶対的な断絶の向こう側にあるものを、なんとか言葉で捉えようとする思想的な試みであるとし、あえて西田哲学はそこに「無」「場所」のような概念を持ち込んでいるせい
さて、最近もとい、少し前まではてな村では“宗教を語るやつが少ないよね”という話題が注目浴びていたようなのですが・・・私もやはり反応すべきでしょうか、ブクマでid:polynityさんに呼び出されていたようなのですが。 以前のエントリーで神学は三名の読者を想定しなければならないとしましたが、そのカテゴリー分けをあらためて取り上げておきたいと思います。 教導職につくであろう人々(聖務者、教役者志望) 兄弟姉妹の皆様(信徒)つまるところ、信徒使徒職にあたっての教導 その他の人々(未信者)つまるところ、信仰に招くための教導 上記三名の読者を想定しなければならないと規定した上で、私は当然ながら聖務者に必用な神学教育を施すという義務を果すだけの能力を意味するSTLを現時点では持たない以上、私がどのように(それが稚拙であろうとなかろうと)神学的な思弁をするとしても読者1について私は考慮する必要が“現時点
記者会見で来年度以降の学生募集を停止すると発表した聖トマス大の小田武彦学長(中央)=6日午後、兵庫県尼崎市 兵庫県尼崎市の聖トマス大学は6日、入学志願者の減少を受け、来年度以降の学生募集を停止すると発表した。経済不況や外部環境の変化によって「健全な学校運営を維持することが困難な状況となった」としている。聖トマス大学は家族などを亡くした「グリーフ(悲嘆)」を学ぶ公開講座を開設していることで知られ、尼崎JR脱線事故の遺族やJR西日本の社員らが受講している。 大学は同日午後、学生と保護者向けに説明会を開き、在校生が卒業するまでは運営する一方、合併や譲渡についても「検討中」と説明した。出席者によると、大学側は「学生が減っていく中で対応できなかった。経営が成り立たなくなった」と謝罪したという。 大学のホームページなどによると、平成20年度入試では、定員250人に対し合格者は95人にとどまっている。カ
人間学について小論考をしたいと思う。特にパスカル『パンセ』に関連してである。神学はともかくとして諸々の所謂自然科学でない学問は皆その学問の究極的な関心を人間存在の探究としている。個人的には笑止千万な自称にすぎないと思うのであるがお題目と言うのは大事である。 所謂文学、哲学を好む人たち、つまり感傷的に“自分自身”を省察の対象にする人たちのことがこの論考の考察対象である。 人文学の存在意義を問われる場合に半ば開き直りの伴った回答としてなされるのが、人文学の存在価値とは人間存在の探究であり、それは大学、学問それ自体の根幹を成し、かつその基礎づけである。そして、人文学を学ぶ学生はその“課程”で(過程ではない)教養を身につけ、人格形成を行なう・・・云々。 まぁ、腹を抱えて笑えるほどの大言壮語である。まずもって教授に当たる教授の人格が以下rya、そもそも教養がこれまた以下ryaである。なおこのように笑
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く