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  • 和語の「ミコト」から「天寿国繍帳銘」を考えてみる:新川登亀男「「ミコト」と「尊」「命」字称の成り立ち」 - 聖徳太子研究の最前線

    2023年2月に亡くなった早稲田大学名誉教授、新川登亀男氏は、古代の天皇制に関するを出す予定で準備していたものの、体調の悪さなどもあって実現しないまま終わった由。 ただ、出版社である吉川弘文館に渡していた原稿がかなりあったため、大学の同僚である川尻秋生氏を中心として友人や教え子たちが協力し、未定稿や書きかけのものについて形式面の統一や典故の確認その他、最低限の加筆・訂正をおこなった結果、刊行されたのが、 新川登亀男『創られた「天皇」号―君主称号の古代史』 (吉川弘文館、2024年6月) です。こののうち、冒頭の「Ⅰ 二度創られた「天皇」号」については、このブログでも以前、紹介したことがあります(こちら)。今回、いくつかの論考を紹介しますが、最初は、「Ⅳ 「ミコト」と「尊」「命」字称の成り立ち」です。 「刊行にあたって」で秋尻氏も述べているように、「文章のつながりの悪いところや、不完全な

    和語の「ミコト」から「天寿国繍帳銘」を考えてみる:新川登亀男「「ミコト」と「尊」「命」字称の成り立ち」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2024/10/24
  • 王号・国王号を東アジアの視点で再考する:金子修一「唐以前の東アジア諸国に授与される称号の特質について」 - 聖徳太子研究の最前線

    推古朝の天皇号について考えるには、当時の諸国の王の号について検討する必要があります。それをおこなったのが、 金子修一『古代東アジア世界史論考―改訂増補 隋唐の国際秩序と東アジア』「第四章 唐以前の東アジア諸国に授与される称号の特質について」 (八木書店、2019年) です。 「東アジア」というのは、戦後になって使われるようになった概念であり、中国・朝鮮・日を東アジアとみなし、冊封体制という観点からその特徴を論じたのが西嶋定生でした。この主張は一時期は通説となっていたものの、近年になっていろいろ批判されるようになり。現在では北方や西方の遊牧民族を重視した東ユーラシア世界といった枠組みも用いられるようになっています。 金子氏は、恩師である西嶋氏の説の問題点も考慮したうえで、中国・朝鮮・日という領域はやはり特殊な性格を共有していると見ます。その検討の手がかりとなったのは、中国が諸国に与える称

    王号・国王号を東アジアの視点で再考する:金子修一「唐以前の東アジア諸国に授与される称号の特質について」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2024/10/24
  • 「偽作の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連」のブログ記事一覧-聖徳太子研究の最前線

    この四月から東北大学のオリオン・クラウタウさんと曽根原理さん、そして駒大を退職した私の3人で「憲法作者としての聖徳太子」という科研費が始まってます。 研究代表のクラウタウさんは、前にこのブログで紹介したように(こちら)、近代から現代までが専門ですので、この時期における憲法作者としての聖徳太子のイメージの研究が中心となりますが、関連しますので、古代以来の「憲法十七条」の注釈や、近世における『先代旧事紀大成経』などにも目をくばっています。 『大成経』が発禁とされた後も、『大成経』、特に『五憲法』がかなり読まれて影響を与えたことが知られていますが、流行ぶりを示す事例の一つとして、一枚刷りの「釈氏憲法」を入手しましたので、紹介しておきます。 読みやすい薄い冊子にせず、一枚刷りで出版されるということは、これを表装して軸にして飾って拝んだりした人たちがいたか、そうしてほしいと願っていた人が出版した、

    「偽作の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連」のブログ記事一覧-聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2024/05/02
  • 中華意識を持ったアジア諸国の一つとしての倭国:川本芳昭「《日本側》七世紀の東アジア国際秩序の創成」 - 聖徳太子研究の最前線

    中国中華意識は有名ですが、実は、中国北地の北方遊牧民族国家や中国周辺の国家の中にも、中華意識を持っていた国はいくつもあります。そうした国々と比較しつつ、倭国について検討したのが、 川芳昭「《日側》七世紀の東アジア国際秩序の創成」 (北岡伸一・歩 平編『「日中歴史共同研究」報告書 第1巻 古代・中近世史篇』、勉誠出版、2014年) です。日中国韓国は、歴史観の違いによってこれまでいろいろな問題が起きてきましたが、このは書名が示すように、日中国の学者が協議してそれぞれの視点を示し、ともに認めることができる事実を明らかにしようとした試みの一つです。川氏は、外交面などに注意している東洋史学者です。 川氏のこの論文の次には、王小甫「《中国側》七世紀の東アジアの国際秩序の創成」が掲載されています。このように、諸国の研究者がそれぞれの視点で意見を出し合い、協議していくことが大事です

    中華意識を持ったアジア諸国の一つとしての倭国:川本芳昭「《日本側》七世紀の東アジア国際秩序の創成」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2024/05/01
    “聖徳太子関係を含め、トンデモ説や闇雲な日本礼賛主張者は、様々な史料をきちんと読まず、自説に有利な箇所だけを切り貼りして妄想をくりひろげるタイプばかりですので、文献派の海外の研究者からは相手にされませ
  • 古代日本は家族が未成立、中国と違って直系相続の意識無し:官文娜「日本古代社会における王位継承と血縁集団の構造」 - 聖徳太子研究の最前線

    前回、日中を比較して「朝政」の検討をした馬豪さんの論文を紹介しましたので、同様に中国人研究者による日中比較の論文を紹介しておきます。 官文娜「日古代社会における王位継承と血縁集団の構造-中国との比較において-」 (『国際日文化研究センター紀要』28号、2004年1月) です。20年前の論文ですが、この方面の論文は以後、あまり見かけないため、取り上げることにしました。 官氏は、冒頭で「日古代社会には有力豪族による大王推戴の伝統がある」と断言し、大伴氏・物部氏・蘇我氏・藤原氏らは次々に王位継承の争いに巻き込まれ、その勢力は関係深い王の交代によって増大したり衰えたりしたことに注意します。 そして、6~8世紀には、王位継承をめぐる豪族同士の争いにおいて非業の死をとげた皇族が10数人以上におよぶのに対し、古代の中国では、王位をめぐる争いは常に統治集団内部の権力闘争だったと官氏は述べます。 中国

    古代日本は家族が未成立、中国と違って直系相続の意識無し:官文娜「日本古代社会における王位継承と血縁集団の構造」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2024/04/26
  • 『日本書紀』の守屋合戦に続く敵将と忠犬の記述こそ語りものの元祖、編者は元資料を貼り込んだだけ:石井公成「お説教でない仏教説話」 - 聖徳太子研究の最前線

    葛西太一さん、瀬間正之さん、森博達さんと、『日書紀』の語法に関する論文が続きましたが、今回は私の番で、 石井公成「お説教でない仏教説話」 (『日文学研究ジャーナル』第29号、2024年3月) です。「仏教説話」特集の冒頭のエッセイを依頼されたため、「ですます調」の気楽な感じで書いておきました。 仏教説話というと、仏教関連の興味深い話を紹介し、最後に教訓となるよううな言葉を述べるというのが通例です。ただ、仏教的な題材であっても、興味深いだけで最後に教訓が述べていない場合は、仏教説話と呼べるのか。 こうした点についていくつか例をあげて検討した後、取り上げたのが『日書紀』の守屋合戦の記事です。この記事では、厩戸皇子と馬子が造寺を誓って誓願すると、敵を打ち破ることができたとし、合戦がおさまった後、「摂津の国に四天王寺を造る。大連の奴の半ばと宅とを分け、大寺の奴・田荘とす」と記し、馬子は飛鳥寺

    『日本書紀』の守屋合戦に続く敵将と忠犬の記述こそ語りものの元祖、編者は元資料を貼り込んだだけ:石井公成「お説教でない仏教説話」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2024/04/04
  • 守屋合戦と「憲法十七条」に見える「自敗」は巻13以前の用例とは性格が異なる:葛西太一「自敗自服する賊虜と日本書紀β群の編修」 - 聖徳太子研究の最前線

    このところ、聖徳太子に関わる論文を含めた古代史のが続いて刊行されていますが、面白いのは、以下の2冊が偶然ながらともに2月26日に出版され、同じ日に献が届いたことです。 一つは、山下洋平さんの『日古代国家の喪礼受容と王権』(汲古書院、2024年)です。山下さん、有難うございます。「憲法十七条」における『管子』の影響を論じた山下さんのすぐれた論文は、このブログでも紹介しましたが(こちら)、その論文も収録されています。最近、考古学の発見が続いているだけに、古墳や墓の変化と中国から受容した喪礼がどう関わるかは重要な問題ですね。 もう一冊は、『日書紀』の編纂について語法の面で論じた論文集であって、このブログで取り上げた上智大学国文学科の瀬間正之さん(こちら)と葛西太一さん(こちら)の論文が収録された、小林真由美・鈴木正信編『日書紀の成立と伝来』(雄山閣、2024年)です。瀬間さん、葛西さん

    守屋合戦と「憲法十七条」に見える「自敗」は巻13以前の用例とは性格が異なる:葛西太一「自敗自服する賊虜と日本書紀β群の編修」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2024/03/13
  • 過去の共生思想運動において国家主義に利用された「憲法十七条」 - 聖徳太子研究の最前線

    アメリカの大富豪であるニコラス・バーグルエンの財団は、美術コレクションや文化財保護その他の多彩な活動をしていますが、そのうちのバーグルエン研究所は、政治・社会面の対立が続く21世紀の状況の改善に役立つような新たな哲学を摸索しており、哲学におけるノーベル賞となるべくバーグルエン哲学・文化賞を創設し、毎年、「人間の自己理解の形成と進歩」に貢献した思想家に授賞しています。 評論家の柄谷行人がアジア人初の受賞者に選ばれ、2023年4月に表彰されて賞金100万ドルを得たことで話題になりましたね。 このバーグルエン研究所は、東西交流による思想の発展をめざしているため、中国の大学などに拠点を置いて大がかりなシンポジウムを開催し、論文集を刊行しています。このところ力を入れているテーマが「共生」の問題です。 その研究活動の一環として、昨年12月に中国の北京大学で「共生」シンポジウムを開催する予定でしたが、い

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    zu2 2024/03/02
  • 『日本書紀』は和語の伝承を漢文化したものとされ、古訓では復元のつもりで和語を創作:福田武史「『日本書紀』の訓読がもたらしたもの」 - 聖徳太子研究の最前線

    現在、「憲法十七条」のを執筆中ですが、悩むのは訓読をどうするかです。平安時代の古訓を載せるのか、国語学者の協力を得てさらに考察し、より古い形を復元するよう努めるのか、太子当時の訓み方を示すのは諦め、現代の普通の形の訓読にするのか。 その点、参考になるのが、2021年に刊行された神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日書紀』上巻(講談社)です。このは原文と現代語訳はのせていますが、工夫された訓読は付されていません。そうなった理由を述べたのが、共著者の一人による、 福田武史「『日書紀』の訓読がもたらしたもの」 (『和漢比較文学』第71号、2023年8月) です。 福田氏は、『新釈全訳日書紀』の解説では、では、中国人のように読むことを主張した吉川幸次郎が、『尚書正義』では従来の漢文訓読法に執着する必要はないとし、原文と現代語訳だけにしたことにならったと、と記してある

    『日本書紀』は和語の伝承を漢文化したものとされ、古訓では復元のつもりで和語を創作:福田武史「『日本書紀』の訓読がもたらしたもの」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2024/03/02
    “いずれにしても、『日本書紀』は中国の史書を切り貼りして人名のところだけ変えたようか箇所もかなりありますので、古代の日本語で書かれていたように復元するというのは「虚構」なのです”
  • 「嘘を積み重ねても学問にならないのですよ」と言いつつ嘘を語った講演CD:大山誠一『創作された聖徳太子像と蘇我馬子の王権』(1) - 聖徳太子研究の最前線

    「<聖徳太子>はいなかった」という大山説が学界でまったく相手にされなくなって10年以上たちますが、面白いものを入手しました。 大山誠一『創作された聖徳太子像と蘇我馬子の王権』 (CD2枚組:アートデイズ、2011年) こんな講演CDが出ていたとは知りませんでした。聞いてみたら、聖徳太子に関する資料は後代に捏造されたものばかりだが、学問というのは「真実を追求するもの」であるため、「嘘を積み重ねてもですね、学問にはならないのですよ」と言いながら、嘘をいくつも語っていました。 ある文献を610年頃と見るか、630年頃と見るか、650年頃と見るかというのは意見の違いであって、いろいろな説がありえます。ただ、一人だけ720年頃と主張する人がいたら、かなり強引な説ということになりますが、まったくあり得ないわけではありません。 しかし、文献に書いてないこと、それも学界の常識と異なることを「この文献は~と

    「嘘を積み重ねても学問にならないのですよ」と言いつつ嘘を語った講演CD:大山誠一『創作された聖徳太子像と蘇我馬子の王権』(1) - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2024/01/24
  • スメラミコトは天皇の訓であって須弥(スメール)山に基づくとする学問的な主張:森田悌「天皇号と須弥山」 - 聖徳太子研究の最前線

    このブログは、「聖徳太子研究の最前線」という名ですので、この10年以内、できればこの数年内の論文や研究書を紹介するようにしてきましたが、それらについてコメントしていると、かなり前の研究が問題になることもあります。その一例が、 森田悌『天皇号と須弥山』「一 天皇号と須弥山」 (高科書店、1999年) ですね。森田氏のこの説については、これまで何度か言及したことがあるものの、20数年前の論文であるため、詳しく紹介してませんでしたが、前々回の記事で須弥山と天皇の関係に触れましたし、天皇号の問題は以後も未確定のままですので、ここで紹介しておきます。 森田氏は、天皇以前の倭王の称号としては「大王」とされることが多いが、大王は皇族中の有力な人に対しても用いられているため、「治天下」という語と結びつけられることによって倭王の立場を示すとします。そして、前後の文脈からそれが分かる場合は、「治天下」の語が省

    スメラミコトは天皇の訓であって須弥(スメール)山に基づくとする学問的な主張:森田悌「天皇号と須弥山」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2023/12/18
  • クラスター分析で『日本書紀』区分論を見直し、巻でなく天皇ごとの検討を提唱:松田信彦「日本書紀「区分論」の新たな展開」 - 聖徳太子研究の最前線

    森博達さんの区分論と加筆の指摘は、『日書紀』研究に圧倒的な影響を与えました。私が三経義疏の変格漢文研究などを始めたのもその影響です。 ただ、同じ巻の中でも天皇によって記述の形が違う場合があるのが気になっており、基づいた史料の違いかと思っていたのですが、この点についてクラスター分析を用いて検討した研究が出ています。 松田信彦『『日書紀』編纂の研究』「第四部第二章 日書紀「区分論」の新たな展開-多変量解析(クラスター分析)を用いて-」 (おうふう、2017年) です。 松田氏は、「序 研究史と問題点の整理」において、これまでの区分論は、別伝注記の用語、分注の偏在、歌謡表記に用いられた仮名、様々な用語、多義性のある漢字の用法、漢籍の出典、助動詞的な用字、などに注目して区分分けしてきたと述べます。 その結果、ほとんどの研究結果が、巻13(允恭・安康)と巻14(雄略)の間で区分の線を引くことで

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    zu2 2023/12/18
  • 『日本書紀』同様に作為のある『隋書』、意外に史実を伝えた面もある『日本書紀』:石井正敏「『日本書紀』隋使裴世清の朝見記事について」 - 聖徳太子研究の最前線

    私が長らくやめていた聖徳太子研究に復帰し、大山説批判に乗り出してまだ数年の頃、2011年に藝林会の第5回学術研究大会としておこなわれたシンポジウム「聖徳太子をめぐる諸問題」に参加しました。 このシンポジウムでは、所功氏の司会のもとで、武田佐知子、石井正敏、北康宏の諸氏と私が発表して相互討議をおこない、翌年、他の研究者が書いた聖徳太子関連論文とともに『藝林』第61巻2号に掲載されました(諸氏の論文の一覧は、こちら。私の論文は、こちら)。 その石井正敏氏は、温和な様子で文献を着実に検討しておられましたが、残念なことに2015年に亡くなってしまっため、知友が編纂して著作集を出しており、その中にこの時の発表に基づく論文が収録されています。 石井正敏『石井正敏著作集第一巻 古代の日列島と東アジア』「『日書紀』隋使裴世清の朝見記事について」 (勉誠出版、2017年) です。 『日書紀』は編纂時の

    『日本書紀』同様に作為のある『隋書』、意外に史実を伝えた面もある『日本書紀』:石井正敏「『日本書紀』隋使裴世清の朝見記事について」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2023/12/18
  • 物部守屋はマヘツキミ層から孤立していた?:篠川賢『物部氏の研究』 - 聖徳太子研究の最前線

    蘇我氏が勃興する以前、最も強大であった豪族、物部氏については研究が進んできており、その代表例の一つが、 篠川賢『物部氏の研究【第二版】』 (吉川弘文館、2009年) です。この研究書は広範な時代を扱ってますが、ここでは「第三章 物部氏の盛衰」のうち、「第二節 物部氏の衰退」を紹介します。 まず、「1 物部守屋と蘇我馬子」では、敏達紀に見られる記事から検討を始めます。敏達元年四月是月条では、「物部弓削守屋大連」を元の通りに大連に任じたとあります。 その前の欽明朝では、当初の大連は物部尾輿でしたが、尾輿の名は崇仏論争の後、見えなくなります。このため、それ以後のどこかの時点で、守屋が大連を受け継いだことになります。尾輿と守屋については、後の文献では父子としますが、篠川氏は確定はできないと述べ、物部氏の長がこの家系に固定されていたと見ることもできないと説きます。 これは妥当な見解ですね。天皇にして

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    zu2 2023/10/05
  • 阿毎多利思比孤という名を検討する:新川登亀男「倭の入隋使(第一回遣隋使)と倭王の呼称」 - 聖徳太子研究の最前線

    古代史家であって聖徳太子研究に力を入れていた新川登亀男氏が、今年の2月に亡くなりました。新川さんは、『上宮聖徳太子伝補闕記』の着実な文献研究でスタートしておりながら、福永光司先生が巻き起こした強引な道教ブーム(こちら)に飛びつき、「あれも道教、これも道教」と論じる軽率な日史研究者の一人となるなったことが示すように、時々困ったこと書く場合があったものの(たとえば、こちら)、聖徳太子の受容を跡づけた『聖徳太子の歴史学』のような好著も出していました。 また、若い頃、大分大学など九州で勤務していたこともあってか、韓国との関係など、古代日海外交流についても取り組み、韓国の学者たちを招いた共同研究のプロジェクトを組織するなどしていたことも、功績の一つでしょう。 その新川さんが、開皇20年(600)の第一回目の遣隋使について検討し、特に倭王の名について論じたのが、 新川登亀男「倭の入隋使(第一回遣

    阿毎多利思比孤という名を検討する:新川登亀男「倭の入隋使(第一回遣隋使)と倭王の呼称」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2023/10/05
  • いま時、道慈が『日本書紀』の聖徳太子関連記事を書いたとする時代遅れの概説:水口幹記「道慈」 - 聖徳太子研究の最前線

    『人物で学ぶ日古代史1 古墳・飛鳥時代』の次に出た『人物で学ぶ日古代史2 奈良時代篇』(吉川弘文館、2022年)では、『日書紀』編纂および「聖徳太子はいなかった」説がらみで言うと、藤原不比等、舎人親王、道慈、長屋王その他が取り上げられています。 その中で見逃すことができないのが、 水口幹記「道慈ー奈良仏教の礎を築いた僧侶ー」 です。 水口氏は、天文・陰陽の術や日中交渉を初めとして幅広い分野を研究されているものの、古代日の仏教に関する論文はおそらく書いていないと思います。つまり、この「道慈」という項目は、専門でない分野の人物を担当させられているのであって、気の毒なのですが、このブログとしては聖徳太子に関する記述としては無視できないため、問題点を指摘させてもらいます。 まず、道慈が滞在していた可能性が高い長安の西明寺について、空海・円載・円珍・真如などの日僧が続々と訪れているため、日

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    zu2 2023/01/12
  • 『日本書紀』編者が用いた便利な文例ネタ本である類書:池田昌広「『日本書紀』の出典」 - 聖徳太子研究の最前線

    このところ、『日書紀』の記事に関する論文の紹介が続きました。問題は、『日書紀』のそうした記事が、元の資料をどの程度反映しているか、完成近い頃の編者の潤色がどの程度入っているかです。 そのどちらの場合であっても、『日書紀』は多様な漢籍の表現を利用して書かれているのですから、その利用は元の漢籍に基づくのか、他の文献、特に広範な用例を集めた類書などからの孫引きか、という点が重要となります。類書というのは、多くの書物から引いた文例を項目ごとに整理してならべた分厚い百科事典のようなものです。 この問題を検討したのが、 池田昌広「『日書紀』の出典ー類書問題再考ー」 (瀬間正之編『「記紀」の可能性』<古代文学と隣接諸学 10>、竹林舎、2018年) です。 池田さんのこの論文は、類書利用の研究史をふりかえったうえで、池田さんの最新の見解を示したものです。先に紹介した笹川論文については、文章が硬く

    『日本書紀』編者が用いた便利な文例ネタ本である類書:池田昌広「『日本書紀』の出典」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/11/26
  • 聖徳太子という呼称を最初に用いたのは誰か、「厩戸王」と呼ぶのはなぜまずいのか - 聖徳太子研究の最前線

    「聖徳太子 最近の説」と入力してあれこれ検索していたら、ヒットしたうちの一つが、 宮﨑健司「″和国の教主″としての聖徳太子」 (真宗大谷派教学研究所編『ともしび』第817号、2020年11月) でした。PDFで読めます(こちら)。 宮﨑氏は真宗大谷派の大学である大谷大学の教授であって、古代の写経について綿密な研究をされている研究者です。この文章は、2020年1月の東願寺日曜講演をまとめたものである由。ですから、最近の聖徳太子論の一つですね。 宮﨑氏の所属と講演の性格上、当然のことながら、熱烈な聖徳太子信者であった親鸞が読んで影響を受けた聖徳太子伝、つまりは『聖徳太子伝暦』と盛んに作られたその注釈の話を中心としつつ、聖徳太子研究の現状について簡単に紹介しています。 宮﨑氏は、聖徳太子という呼称については、751年の『懐風藻』に見えるため、「八世紀なかばを上限として成立したといえるかと思いま

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    zu2 2022/11/26
  • 明治期は「憲法十七条」より江戸時代の偽作である「聖徳太子五憲法」の方が人気だった - 聖徳太子研究の最前線

    先日、真宗大谷派の九州教学研究所で「近代の聖徳太子信仰と国家主義」と題する連続講義をしてきました。その際、強調したのは、明治初期には物の「憲法十七条」よりも、江戸時代の偽作である『聖徳太子五憲法』の方が人気があったという点です。この講義録が活字になるのは来年でしょう。 明治5年(1872)に政府は「敬神愛国・天理人道・皇上奉戴」を柱とする「三条教則」に基づいて布教するよう命じたため、仏教諸宗はその説法の資料として、神道・儒教・仏教の三教融合を説く「五憲法」に頼ったのです。何しろ、物の「憲法十七条」は「篤く三宝を敬え」と命じただけであって、「神」に一言も触れず、儒教の「孝」も説きませんので。 偽書である『先代旧事紀大成経』に含まれるこの偽作の憲法については、これまで何度か触れてきました(こちらや、こちら)。偽憲法の信奉者は現代でもかなりおり、かの三波春夫などは解説まで書いていることも

    明治期は「憲法十七条」より江戸時代の偽作である「聖徳太子五憲法」の方が人気だった - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/10/28
  • 1400年遠忌前後に盛んに出された最新でない太子研究の一例:本郷真紹「『日本書紀』厩戸皇子像の再検討」 - 聖徳太子研究の最前線

    前回は古い論文を紹介しました。ただ、最近刊行された論文でも、内容が新しいとは限りません。 聖徳太子1400年遠忌ということで、太子関連の展覧会やシンポジウムが多くもよおされ、関連論文もたくさん出されました。ただ、そうした論文の多くは、10年以上前の研究状況をまとめ、少しだけ自分の考えを加えた程度のものが少なくありませんでした。抜刷を頂いておりながら申し訳ないのですが、以下の論文は、まさにその一つです。 郷真紹「『日書紀』厩戸皇子像の再検討」 (『立命館文学』第677号、2022年3月) 郷氏は、『和国の教主 聖徳太子』(吉川弘文館、2004年)を出されており、専門家ではあるものの、最近は 学校法人立命館の副総長という激職を務めておられていますので多忙でしょうし、論文末尾には、科研費(19K00966:研究課題「平安期仏教説話の社会史思想史的考察-日霊異記・三宝絵を中心に-」)による

    1400年遠忌前後に盛んに出された最新でない太子研究の一例:本郷真紹「『日本書紀』厩戸皇子像の再検討」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/10/03