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ブックマーク / blog.szk.cc (5)

  • 『君の名は。』と「蝶々結び」――結びの物語

    これまでも新海作品には触れてきたし、そこで描かれる作品構造についてもいろいろと考えてきた自分としては、『君の名は。』が事前評判通りに大ヒットしていると聞いては見ないわけにいかないだろうということで、公開二週目の週末に鑑賞してきた。梅田の映画館は満席で、上映後にはあちこちからすすり泣きの声が聴こえるという状態。数字という面だけでなく、質的にも大ヒットと言っていいだろう。 僕の中で新海誠の作品は、いつも「セカイ系」という名前でくくられていたように思う。あえて雑な見方を提示するなら、ここで「セカイ系」は、「きみとぼくの物語が世界の危機に直結されており、二人の関係が成就することで世界もまた救われる」という構造を持つ一連の作品を指す。また、そうしたミクロなセカイの幸せがマクロな世界を救うという楽観的な発想も、ときに批判の対象となる。そこで新海作品は、『ほしのこえ』がそうであったように「設定としてあり

    『君の名は。』と「蝶々結び」――結びの物語
  • 現実をポケモンが徘徊する〜電脳コイル化するポケモンGO

    ポケモンGO」ファーストインプレッション まだ2日くらいしかたっていないのだけど、各所で歩きスマホする人を見かけるようになったのは、「ポケモンGO」のリリースの影響なのだろう。他方で、既に述べていたように神社などではこのゲームのプレイを禁止するところも出てきて(記事)、それ自体は神社側も予想できていたことだとはいえ、非常に興味深い動きになっているなと思う。 勤め先の大学でも、試験期間中とはいえリリース直後は祭り状態だった。話を聞いてみると、学内を一周するとちょうどポケストップが回復するらしく、歩きスマホする学生が多数。数人のグループで「えっこれどうやるの」などと話しながら歩いていたり、サークルを作って座り込んで画面を見せ合ったり。この世代って約10年前のモンハンブーム(ポータブルの2nd〜2nd G)くらいに小学校高学年〜中学生くらいのはずなのだけど、塾の帰りとかに輪になってモンスター狩

    現実をポケモンが徘徊する〜電脳コイル化するポケモンGO
  • “let it go”のアイロニー

    映画評論ができるほど映画を見ているわけでもないし、その中でもディズニーなんてほぼ見たことがないわけだけれど、この2年はまったく映画なんて見る余裕もなかったわけだし、リハビリも兼ねて『アナと雪の女王』について書いてみようと思う。前評判だのYouTubeで展開されているプロモーション動画だので色々予習していったので、それほど意外ではなかったけれど、全体としてとにかくアイロニーに満ちた作品だなあというのが大枠の感想。 言われていたところだと、作で描かれているのは「王子様がお姫様を幸せにする」というテーマへのアンチテーゼということらしい。しかしながらこの解釈はあまりにも日的過ぎるという感じがする。例えば2007年の『魔法にかけられて』なんかの方が、明確にこうしたテーゼへのアンチになっているし(というより『魔法にかけられて』自体がディズニーの再帰的パロディなのだけど)、アメリカのメディア状況を考

    “let it go”のアイロニー
  • ABCからCCCへ

    最近Twitter上で思想地図周辺の人たちのつぶやきを見ていると「アーキテクチャ派」と「コンテンツ派」という用語が飛び交っている。その意味するところが僕にはまだ分からないのだけど、どうやら前者の代表が濱野君で後者の代表が宇野君らしい、と分かって、ああ、これは「派閥」というよりは「ヘーゲル右派」と「ヘーゲル左派」みたいなものね、と思った。で、略称として「A派」と「C派」なんて言葉も出てきて、じゃあ「B派」って何よ、というところまで考えて思い出したのが、Lifeでも何度か話題にした「ABCからCCCへ」というフレーズだった。 このフレーズは、言葉通りには「青山ブックセンターから、TSUTAYAの営業母体であるカルチュア・コンビニエンス・クラブへ」ということで、文化的なものの存在感の中心がシフトしていることを表現している。もちろんただの語呂合わせで、何か根拠がある話じゃないのだけど、悪乗りついで

  • 君の敵はそれです

    先週の土曜日は、勤務先の研究所主催のシンポジウム。明確なテーマは現場を持っている他のパネリストの方たちに囲まれて何を話したものか当日まで悩んでいたのだけど、結局話の流れ上、持ち出したのはだいたい二つのネタ。ひとつは「戦争」というキーワードについて。「見えない戦争」というときそこにはどうしても、ストリートにおける排除、体感治安の悪化に基づく取り締まりの強化といった出来事が想起されるし、それは結局「排除しているのは私たちだ(もっと反省しよう)」という帰結を導くのだけど、もう少し、構造問題で語れる部分があるんじゃないかということ。 具体的には、「戦争」が国家によって集約された「力」の間の争いだとするならば、19世紀から20世紀の前半は「軍事戦争」が主体の時代であり、20世紀の後半、とくに最後の30年で「経済戦争」のレイヤーがそこに加わり、21世紀には「文化戦争」、すなわちコンテンツや都市の魅力が

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