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芸術に関するBanzのブックマーク (5)

  • 擬装からの撤退 -アーティストをやめること- - ohnosakiko’s blog

    20年余り現代アート作品を発表しアーティストと名乗ってきたのを、今年以降やめることにした。 作品のネタが尽きてしまったから、あるいは継続できない物理的要因が生じたからではない。もうアートでやれることはない、アートはお終いだと思ったからだ。 そんなことを今頃気づくなんて、遅いだろうと思う。アートは既に70年代に「死んだ」と言われていたのだから。 私は80年代前半に芸術大学を卒業し、そのまま当然のようにアーティスト活動を始めた。アートが消費文化へと変化していった80年代を通じて、モダニズムとしてのアートは確実に後退した。個人性や日常性の表出が楽観的に謳われる一方で、すべての物事は均質な情報にフラットに還元されているかのように語られた。 そうした拡散には違和感を覚えながらも、教条的なモダニズムを真に受けることも不可能という立場で、 私は制作をしてきた。 マス・ビジュアルが圧倒的な優位にある視覚文

    擬装からの撤退 -アーティストをやめること- - ohnosakiko’s blog
  • 高橋氏とのブコメ議論まとめ - ohnosakiko’s blog

    例の首都大の学生のやった件で、この数日、id:NaokiTakahashi氏(以下、高橋氏と表記)とのブコメ議論があちこちで長引いた。 個人的には、被害者の受けた苦痛と屈辱の前には、こんなアート論議などどうでもいいものだと思っているし、この事件についてアートや芸術方面から語ること自体が(アートや芸術に対してではなく)被害者の女性達に対して失礼なものになりかねないと思っている。このことはブコメに書けなかったのでここではっきり言っておきたい。 私の基的態度は「これをアートとして語る意味はない」。高橋氏の態度は「アートの俎上に上げてその質を論じよ」。バカ長いばかりで読む人も少ないだろうが、なにがしかあぶり出されている面もあると思うのでここにまとめておく。 それぞれの元記事。私が最初のブコメを書き込んだ順。議論の日時はかなり重なっていて同時進行的にやっていた。 Togetter - まとめ「ドブ

    高橋氏とのブコメ議論まとめ - ohnosakiko’s blog
    Banz
    Banz 2010/06/23
    勉強になりました。
  • 学校で教えてくれない、芸術を評価するための6つの視点 - 技術教師ブログ

    僕はどちらかというと産業技術の評価を教える立場なので技術の視点からしか芸術を語れないのだが、ダンスの経験や芸術教育科の教授に教えてもらったこともあるので少し整理するために書き出してみたい。 まず「芸術」は何を含むか。もとのとしては主として絵画、音楽、文学、演劇、舞踏、映画を指している。しかし一定の精度を超えた技術も芸術と呼ばれるにはふさわしいし、現に呼ばれる場面もしばしば見受けるだろう。いったい何が芸術なのか、その評価方法を考えてみたいし、共有しておいて損はないはずだ。 まず踏まえておきたいことは芸術の価値を数値で表すと市場価値とモノ自体の価値がある。その芸術というモノの価値について考え直してみたい。 1.芸術とは文化の継承である これは学校で教わることができるだろう。いわゆる表現手法というのは古代から現代に至るまで基礎は同じである(と多くの場合解釈されている)。絵画表現に於いてまっすぐの

    学校で教えてくれない、芸術を評価するための6つの視点 - 技術教師ブログ
  • ~明和電機 社長ブログ~:愛情のないツマミが多いのは、「デジタル楽器」と「和民」

  • ~明和電機 社長ブログ~:技術と芸術とツイッター

    芸術家には二種類いる。自分の表現に疑問を持たない者と、自分の表現に疑問を持つ者、である。前者はピカソタイプ。 後者はデュシャンタイプ。 である。疑問を持つタイプは、ときに自分の表現のメカニズムについて考える。マシンエイジ以前は、そういうタイプがいたとしても、それを言語化、図式化するための数学、映像ツール、設計方が発達していなかったので、圧倒的に絵画を描くのがうまい、という、一種のフリークス的才野に、飲み込まれてしまった。しかしマシンエイジ以後の写真からCGにつながる、人間の表現の盗賊的テクノロジーは、見事にフリークスたちのお株を奪い、機械で表現できない表現、という、泥臭い世界に芸術家を追いやった。この状況、表現に疑問をもつタイプの芸術家には好都合。なんとなれば、キュビズムのように、まったく絵なんて描けない絵描きに、ウンチクという絵の具を与えたし、ときには疑問を検証する、実験機器を与えた

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