第13代藩主・蜂須賀斉裕(第11代将軍・徳川家斉の二十二男)の次男。母は山本氏の娘、たま。幼名は氏太郎。 従兄弟で第14代将軍の徳川家茂より偏諱を授かり茂韶と名乗る。慶応4年(1868年)1月6日の父の急死により家督を継ぐ。斉裕の危篤から死去が鳥羽・伏見の戦いの最中であったことから、藩内は大混乱をきたした。その後の戊辰戦争では新政府側に与して奥羽にも兵を送ったが、相次ぐ藩内の混乱のため、新式のイギリス軍備を導入していたにもかかわらず少数の藩兵しか送れず、諸藩からの冷評を受けたと言われている。 明治維新後はオックスフォード大学に留学した。明治15年(1882年)から同19年(1886年)まで駐フランス公使(スペイン・ベルギー・スイス・ポルトガル公使も兼務)。 1884年(明治17年)、侯爵となる[3]。 第11代東京府知事(1890年 - 1891年)、文部大臣などを務め、麝香間祗候の待遇を