伊勢市立二見小学校3年時に友達の影響で地元の軟式野球チーム「二見スポーツ少年団」に入団し、野球を始める[1]。小学6年のころは外野手の補欠だった。伊勢市立二見中学校では軟式野球部に入り、8番一塁手[1]。三重県大会で春夏連覇、東海大会で準優勝した。 三重県立明野高等学校に進学し、はじめは三塁手だったが、強肩を見出されて1年夏から投手に転向[1]。2年秋からエースを任された。3年夏、三重大会決勝戦で海星高校に敗退し甲子園への出場はならなかった[2]。 球速140 km/hを超す速球がスカウト陣の目にとまり、1996年のドラフト会議で中日ドラゴンズから1位指名を受けて入団[1]。それまで郭源治が着用していた背番号「33」をもらうなど期待された。中日の同期には森野将彦などがいる。入団当時、球速160 km/hを出すことを目標に掲げていた[3]。 1997年と1998年は一軍登板はなく、二軍(ウエ