2018年6月12日に「文系教科研究会」というところで、私立の中学高校の英語の先生たちをお相手に英語教育についてお話した。その一部をここに掲載する。 ここで論じたのは英語だけれど、言語教育一般について適用できる議論だと思う。 ここ数日、「論理国語」と「文学国語」というカテゴライズをするという話がTLを飛び交っているけれど、それがほんとうだとしたら、それはたぶん言語というものについて一度も真剣に思量したことのない人間の脳裏に去来したアイディアだろうと思う。それはまさに「植民地における現地人への宗主国言語教育」とまったく同型的なものだからだ。 国語教育においても「植民地現地人」に求められる言語能力は同じである。 それは宗主国アメリカに仕え、アメリカに朝貢することで「代官」「買弁」としての地位を保全している日本の支配層たちが、同国人の知性の発達を阻害し、日本人を愚民化することで、属国日本をアメリ
光嶋裕介君の新著『ぼくらの家。』(世界文化社)の即売会と短いトークセッションが凱風館で昨夜、寺子屋ゼミのあとに行われた。ミシマ社も出店して、ゼミ生を中心に20人近くの聴衆が集まってくれた。 光嶋君が著作の意図を説明してくれた後に、僕が短いコメントをした。 その時に、以前、山本浩二画伯から展覧会用の解説を頼まれたことがあったので、その話をした。 僕は美術については門外漢だから、山本君の画業について専門的な見地から批評をすることはできない。彼の美術史的な系譜も知らないし、同時代の画家たちの中のどこに位置して、美術批評家たちからどういう評価を受けているかも何も知らなかった。僕にできるのは、山本君の絵を何点か所有していて、その絵を壁にかけて暮らしている僕にとって、山本君の絵が具体的にどういうふうに身体的な影響をもたらすものであるかを報告することだけだった。それについて書いた。少し長いけれど、再録し
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く