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ブックマーク / arisan-2.hatenadiary.org (5)

  • 『「性愛」格差論』を読んで - Arisanのノート

    「性愛」格差論―萌えとモテの間で (中公新書ラクレ) 作者: 斎藤環,酒井順子出版社/メーカー: 中央公論新社発売日: 2006/05/01メディア: 新書購入: 2人 クリック: 44回この商品を含むブログ (117件) を見る 『社会的ひきこもり』などの著書で知られる精神科医の斎藤環と、『負け犬の遠吠え』がベストセラーになったエッセイスト酒井順子による対談。 「負け犬」、「おたく」、「ヤンキー」、「腐女子」というふうに生き方の趣味に関して人々が小集団に分化し、それぞれ隔たって生きるようになった現代の社会の姿について語り合う。 こので語られていることは、大きく分けて次の二点である。 ひとつは、上記のような小集団、このでは「トライブ(部族)」と呼ばれているが、それらがおたがいにあまり関心をもたず、「島宇宙化」と呼ばれるように、平面上に互いに隔絶して存在しているという、今のわれわれの社会

    『「性愛」格差論』を読んで - Arisanのノート
  • 『ゆれる』 - Arisanのノート

    この映画は、今年の日映画のベスト1になるのではないかと思うが、ストーリーの面でちょっと得心できない部分が残った。 地味な題材に見えるが、非常にアクチュアルな問題を意識して作られたことはたしかだ。 重すぎず、軽すぎず、ちょうどいい感じの作風で、すごく水準の高い心理劇に仕上がってると思う。 あらすじ オダギリジョーが演じる主人公の猛(たける)は、都会に住むフリーカメラマンだが、法事で田舎の実家に帰ってくる。香川照之が演じる35歳で独身の兄、稔は家業を継いでガソリンスタンドを経営しているが、そこで働いている智恵子という女性(真木よう子が演じている)に好意を抱いている。じつは、この智恵子と猛とは学生の頃、一緒に東京に出て行きかけたような仲だった。猛は、もともとすごくセクシーな感じの男性で、兄とは対照的に女にモテるタイプなのだが、兄と智恵子のやりとりを見て嫉妬し、智恵子の部屋にあがりこんでセックス

    『ゆれる』 - Arisanのノート
  • われわれと北朝鮮 - Arisanのノート

    きのうのエントリーの内容について、ブックマークでいくつかご意見をいただいたので、それに関連して少し書いておきたい。 文の最後に、朝鮮民主主義人民共和国について、『そして「彼ら」は、まだ「他国」に軍隊を送ったことはない。』と書いたことへの反論、疑問が、いくつかあった。 ぼくもこの最後の一行を書くとき、朝鮮戦争や拉致事件のことが頭に当然あったので、こう書くことを迷ったのだが、文に書いた「われわれの側」の危険さへの自覚を喚起したいという意図から、あえてあのような断言的な言い方をした。 このうち拉致事件については、たしかに国家的な「犯罪」ではあるだろうが、他国に出向いて戦闘を行い占領や駐留にいたるという、正式な形での軍隊の派遣とは、やはり別物ではないかと思う。これは、「どちらがよりひどいか」ということではなく、政治的なあるいは法的な概念として異なるのではないか、というのがぼくの認識である。もちろん

    われわれと北朝鮮 - Arisanのノート
  • テポドン・何が同列か? - Arisanのノート

    最近のテポドンをめぐる騒動のなかで、ずっと気になっていることがある。 それは、戦争や日米の軍事同盟の強化に反対したり、自民党の政策に反対するような勢力の人たちのなかで、今回の出来事に関し、「アメリカによる軍事行動と北朝鮮によるミサイル発射を同様に批判する」というふうな言い方を、よく目にすることである。 これは、これまで自分たちが批判してきた大国の行動と、今回の朝鮮の行動とを、いわば同列に並べて非難しているわけで、どちらも国家が行なう危険な軍事行動には違いないから、「平和勢力」の態度としては一見筋が通っているようにも見えるのだが、自分のなかではちょっと引っ掛かっていた。 今日考えていて、何が引っ掛かっていたのか、少し分かったように思った。 上記のような言い方は、米軍がイラクに侵攻する直前に、共産党などが掲げて議論を呼んだ「テロにも戦争にも反対」という言い方に、ちょっと似ている。「テロ」と言っ

    テポドン・何が同列か? - Arisanのノート
  • 『ナイロビの蜂』 - Arisanのノート

    大きな映画館には滅多に行かないので、指定席制というのに馴染みがない。自分のチケットを見たら「R-15」と書いてあったので、「15歳以下は見ちゃいけません」という意味かと思ったら、自分の座席の番号だった。 そんな大きな劇場で、しかも平日の昼間に行ったのだが、満席に近い盛況だった。 もうこのことだけで、困難に直面しながらこの映画を作り上げた人たちの仕事は、高く評価されるべきだろう。 そういう性質のテーマを扱っている。大資である映画産業のなかで、大資の悪を告発し、多くの人たちに関心を持ってもらうということの難しさと意義。 この映画の監督、フェルナンド・メイレレスという人は、ぼくは前作を見ていないのだが、ブラジルの人だそうである。その人が、アフリカに乗り込み、現地の人たちに大勢出演してもらってこの作品を撮った。 この監督は、非常に変わった映像の作り方をする人だが、筋や内容ではなく、むしろその表

    『ナイロビの蜂』 - Arisanのノート
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