いろんな はなしを します。 多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー いろいろと反響を いただきました。 さて。わたしが気になるのは、民族的少数派が どのように主張しようとも、「民族的なもの」として色づけられる。それにたいして、社会の多数派による議論は、「民族的に色づけられる」ことなく、「正論か、だめな議論か」という点で評価されるということでした。この非対称な関係が、気になるわけです。 「ヤマト人」「和人」と いわれて、ぱっとくる ひとは、ほとんど いないと おもいます。わたしも そうです。なにが なんだかです。けれども、それは そのように名づけられてこなかったからではないでしょうか。もし、日常的に「ヤマト人」や「和人」と よばれつづけていれば、自覚を もってみたり、あるいは違和感を もってみたりする。そして、そのようなカテ