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  • 民主主義が破壊されるのか。それともそんなもん、存在しないのか。 - 地喰草子

    SONG | 16:38 | なんたる回帰。名護を離れて三年目になる。家族を養う飯の種である仕事を危険に晒し(というより投げ打ち)、火の粉を振り払っているうちに火達磨になり、気がついたらポイントオブノーリターンを超えていた。組織や集団が苦手なのに、よくぞがんばりましたと、自分をほめてあげる。やるだけはやった。もう向こうには私の仕事はない。離婚再婚し、名護を離れ新たな生活を始めた。しばらくは、ずっと名護の状況が気になり関心を持って見つめていたが、今年の初めに市長選挙で基地建設反対を(いつのまにか)明言する市長が誕生したこともあり、あまり名護に関する批判的考察および辛辣な物言いはやめにしようと思っていた(いる)。日の新聞に、辺野古区が条件付容認というニュースが出ている。やっぱり名護は名護でしかない。市長選で勝利したからと浮かれ騒がず、状況のコンティニュイティをしっかりと把握し現状を分析し、と

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    F1977 2010/05/21
    解放当時200万人いた内地の朝鮮人の140万人が帰国して60万人が「在日」になったことにつき「在日」は選んだんやて、残ったんやて。選ばざるを得ない人々が選ばざるを得なかった「生」をどのように生きてきたか涙します
  • 1948年 - パラム、ドル、ヨジャ〜済州島に多いものみっつ〜

    あっと言う間の一日でした。  まずは「ルート181」から。  270分という上映時間は、少しも長くありませんでした。長いのは、今もパレスチナで起こり続けている現実の方で、私はフィルムが終了し映画館を出れば、「オモニに会わなくちゃ!」と慌てて電車に乗り、ほんの数十分でオモニたちの笑顔に接することができる、そんな幸福な星の下に生きているのだから。故郷から離れていても、理不尽な殺され方をするわけではない、そんな平和な日社会に生きているのだから。「ルート181」を見終えて、私は「う〜ん」と伸びをしてこわばった自分の体をほぐしながら、自分の条件的幸福性と現実の理不尽性を思い、映画館を出て見上げた曇天の空模様と、映画で見た地平線をみはるかすパレスチナの空の青さと、でもカメラを引けば、常に有刺鉄線や分断壁越しに見上げなければいけないパレスチナの空と、ただ高速道路の騒音と共に目に映る、自分の憂を反映し

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    F1977 2010/04/16
    あらためて、すべての「分断」に抵抗していこう。みんなで知恵を出し合って。
  • その帯紐を探し手繰る努力をしているのはだれ - 地喰草子

    SONG | 02:21 | 気分転換、少し諸々をいじる。ジーグイということばがある。文句たれみたいな意。最近の私は「ジーグイ派宣言」をしたい気分。ブログのタイトルを、ジーグイで考えた。いくつか候補を出したが、「おもろそうし」に対抗して「じぃぐいそうし」なるタイトルを考えた。ひらがなはなんかあまりにも不遜な気がして、生来のヘタレさが発揮され漢字をあてた。デザインは、はてなの公開デザインからインポートして、コメント欄などCSSを少しいじった。サイドバーのタイトル行間が気に入らないが、なおす余裕がないので放っている。ジーグイ乱射私のジーグイは多岐にわたるが、極私的なものを除けば、ほとんどがやはり政治社会的な問題である。なんで十年余も反対に遭い続けたプランを見直して、拡大し沖縄に押し付けることができるのか。この国の「政治」は陳腐で醜い。民主主義など、西洋で生まれた制度概念でしかないだろうが、少な

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    F1977 2010/04/09
    nagonaguさんの沖縄の言葉からは、その地で生まれ、その地で暮らし、その地で眠る人々の固有の存在と歴史があることを教わります。そんな固有の人々の存在と歴史をつないで行く言葉"ジークイ"を聞き学んでいきたいです
  • http://d.hatena.ne.jp/nagonagu/20100401

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    F1977 2010/04/02
    昔の済州島ではトイレに豚さんがいて人間のウンコ食べて育ってその豚さんを人間が食べてまたウンコしてそれを豚さんが食べて。なんでかって貧しすぎて豚さんにあげる餌がなかったから。ウンコ豚、めちゃウマとか^^
  • 子どもたちに在留を!キャンペーン - にがにが日記

    さて、1週間前となってきましたので、こちら「にがにが日記」でも告知させていただきますよ。(おおきな画像はこちら)弁護士の山口元一氏とそのクライアントの子どもたち、そしてコリアNGOセンター事務局長の金光敏氏から、(現在、子どもたちが求めている)「在留特別許可」の問題をはじめとして、日において外国人がおかれている状況についてお話いただきます。そして、いま、強制送還の瀬戸際にある子どもたちの声をきいて、私たちができることは何かを考えていきたいと思います。「まず子どもたちの声に耳を傾けること」「実際に何が起こっているのか知ること」という、私たちができることの第一歩を踏みだせるシンポになればいいなと思っています。*1☆ちょっと個人的な関係の話ですが。シンポジストがどんな方か力説したいのでご紹介します。にがにが読者のみなさまはすでにご存知かと思いますが、山口さんは「ものすごくコロンビア音楽に詳しい

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    F1977 2010/02/19
    奥さんの前でダンナさんのことを「ルックスがよくて権力があったら、そら学生はほっとかんでしょう」と言ったら「余計なこと言わんでええ」と周りからたしなめられました。(明日こっそりいくかもです、他3名程)
  • 沖縄は東アジアにおける平和と安全の象徴の島となる - 地喰草子

    SONG | 13:54 | 沖縄にも冷たい風吹く冬が来た。「年内決着」などと騒がれ、緊張する日々が続いたが、とりあえず最悪は回避できた。この間、いろんなことを考えた。少し整理するために時間が必要かもしれない。幸い、「年内」は消えたので時間はある。態勢を立て直すこともできる。あまりイデオロギーめいた主張や、賛否が分かれそうな事柄については言及するのを控えてきたが、それも議員だったりなにかの代表だったりしたときからの慣習でしかない。臆病だから間違うことを恐れているが、個人的意見など、できるだけ明確に断言したほうがいいのだろう。在日米軍はすべて国に撤退させるべきである。米国の核の傘など断るべきである。おそろしくてかなわないというなら、憲法改正の国民投票をすべきである。まっ、これぐらいはいつも言っているみたいなもんだが、あらためて断言しておく。1は、この間の県外移設云々のゴチャゴチャをみていて

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    F1977 2009/12/20
    nagonaguさんが、沖縄の平和と統一の理念を結びつけてくださったおかげで、私たちも日本のために、何かできることがあるかも知れないという希望をいただきました。センイル チュッカハムニダー。
  • http://d.hatena.ne.jp/nagonagu/20090911

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    F1977 2009/09/13
    いまのnagonaguさんやったら、ハブに勝てそう(笑)。あ、すみません!
  • http://d.hatena.ne.jp/nagonagu/20090725

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    F1977 2009/07/27
    記事のタイトルが「タテカン」っぽく見えて、かっこいーと思います!
  • 0717 街でみかけたダジャレ看板の紹介 - nagonaguの日記

    SONG | 14:35 | はてなハイクで「街でみた素敵なもの」を紹介してる。子どもを預けている保育所近くの交差点でみた看板が最初だった。桜田淳子のヒット曲にかけているダジャレだなどとわかる人は、あるいっていの年齢以上の人だろう。そんなこと気にもかけずに、“クッククック クッククック♪”とシャレているその能天気さが、まぎれもなく同時代を生きた人間だろうとおもわれ、私はかなしいやらほほえましいやらなさけないやらで愛しくなったものだった。第二段は、車で市立図書館へ行っての帰りだった。その看板を目にとめつつも50メートルは行き過ぎ、ブレーキを踏み急停車しバックし、看板のそばのコンビニに車を駐車し携帯電話で撮影した。「空手は板割ろう」…こいつは確信犯だ。おそろしい。宜野湾市真栄原区自治会にはなにかある。まさかシリーズ化するとは思ってなかったが、私はこの発見をだれかに伝えたくて、数時間後にはハイク

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    F1977 2009/07/18
    街角にたたずんでいるひとつの言葉が、だれかを立ち止まらせ、笑わせ、子どもたちを引き寄せ、その言葉の意味や、その言葉を考えた人や、その町の人々のことに思いをはせていく。とてもすてきです。めっちゃいーです
  • http://d.hatena.ne.jp/nagonagu/20090714

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    F1977 2009/07/15
    戦後(だけでは、ないと思いますが)、ずっと悔しい思いや、悲しい思いをしてきた沖縄のたくさんの人々のこころが、もどってこれるような沖縄を取りもどせるといいですね。政治的には無力ですが、そう願っています。
  • まあ、いつかは。 - パラム、ドル、ヨジャ〜済州島に多いものみっつ〜

    いがいと、そうさできるのが、はてなの、いいところです。  そろそろ、ブログやめようと、おもいます。 もう、じゅうぶんな気がしてきました。  実践としてのハッキョをやめるワケでは、ないですので、あんまり、何も変わらないと思います。 というよりは、ブログを書いていても、何も変わらないということがよくわかりました。いまごろ!かもしれないですね。

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    F1977 2009/06/22
    じぶんを かえて みたら どうやろう?という ふうに おもいつき ました。まいにち かくなかで、だいたい かんがえが かたまって きたので、もうすこし じっせんの ほうを やってみようかな、なんて。
  • 「等しさ」について - パラム、ドル、ヨジャ〜済州島に多いものみっつ〜

    わたしは、少しだけ、日人の気持ちがわかると思ったことがありました。それは、わたしが「加害者」であったかも知れない、ということを知ったときでした。  わたしは、ずっと自分を「被害者」だと思っていました。朝鮮半島は日に侵略され、植民地にされ、言葉を奪われ、名前を奪われました。そして、日戦争に負け、朝鮮半島が、日の植民地から解放された後も、日に残り続けた「在日」は、様々な権利を与えられないまま、差別され抑圧されながら生きてきました。わたしは、「在日」は、過去においても、現在においても、圧倒的な「被害者」であり、日社会や日人は、わたしたちに対して、絶対的な「加害者」でありながらも、でも、その「加害」性を認めることなく開き直り続け、また、日人は、自分たちの「加害」性を知ることなく、わたしたちのそばで平気で生き続けている。わたしは、この許しがたい不公平さのようなものを、かなり幼い頃か

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    F1977 2009/06/20
    id:munyuuさん。あんにょんはせよー。うそつきな ひとに、うそつきと いって いただけたと いうことは、わたしは うそつきでは ないと いうこと ですよね。やったー。ちょったー。こまっすむにだー。
  • http://d.hatena.ne.jp/inapic/20090613

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    F1977 2009/06/19
    あわれな にほんご。
  • タルルン タルルン - パラム、ドル、ヨジャ〜済州島に多いものみっつ〜

    最近、なぜか、あたまのなかでグルグルまわっている歌が「ウリエソウォヌン トンイル」という「私たちの願いは統一」という歌です。  わたしは、朝鮮の歌をあまりしらないのですが、あまりにも有名な歌だけは、すこしだけ知っています。もちろん、「コヒャンエ ポム(故郷の春)」は、おさない頃におぼえた歌なので、わたしが「『在日』否定期間」をへた後でも、その歌詞もメロディーも、わすれずにずっと、わたしのなかに残っています。  「故郷の春」を初めて聞いたのは、小学校二年生くらいだったと思います。 わたしは、おさない頃から両親が共働きだったので、学校が終わって家に帰ると、家には誰もいませんでした。いわゆるカギっ子というもので、そんなわたしを心配した母親が、わたしの兄に、放課後はわたしの面倒を見るようにと言いつけていました。だから、わたしは、小学校低学年くらいまでは、学校が終わった後は、いつも兄の後にくっついて

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    F1977 2009/05/20
    id:mujigeさん、そういえば、サントッキ トッキヤには、ふりつけがありましたねー!こころが、トッキぐみ時代にもどりました。ありがとうございます(笑)
  • http://d.hatena.ne.jp/nagonagu/20090517

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    F1977 2009/05/18
    オモニが「テレビで沖縄みましたけど、済州島によーにてましたわあ」って、なつかしそうにおっしゃっていました。済州島にも海軍港建設の話が上がっています。島には抵抗の文化があると思います。闘っていきたいです
  • 「さしすせそ」 - パラム、ドル、ヨジャ〜済州島に多いものみっつ〜

    わたしは、自分のことをモノシリだと思っていました。  20代初めの頃から、読書会などを通じて、自分よりもひと回りから、ふた回りくらい年上の方々とお付き合いをすることが多かったせいか、わりと昔のこととか、わたしの世代では知ってるほうが珍しいような言葉を、聞いたり知ったりする機会が多かったように思います。だから、会社などでもよく、上司や先輩たちから「なんで、アンタの年でそんなん知ってるんや。年、ゴマかしてんのんちゃうか?」などと言われてきたので、わたしは、わたしってモノシリや、わーい、わーい、などと心の中でひそかに、モノシリな自分を自負していたりしました。けれども、最近、わたしは、自分がかなりなモノシラズであることに気がつきました。ええ!そんなことも知らんかったん!と驚きアキれかえられることが、とても多くなってきたのです。まさに、井の中のカワズ飛び込むみぴょこぴょこです。きのうも、そのように、

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    F1977 2009/05/10
    id:pakinaさま。とんでもないです(笑)おかげで、わたしもお勉強になりました。ハッキョににぎやかさがもどってきて、うれしいです。ってか、H(河)オモニ、しばらくおやすみされてて、うちのクラスはさみしいです。
  • 2009-04-18 - lmnopqrstuの日記

    メモ | 14:08 梶村秀樹「解放後の在日朝鮮人運動」194‐5頁(梶村秀樹著作集第6巻)。 1953年までの総力をあげての闘争があり、それが成果をあげる事もなく、犠牲者だけを残して終っていったのですが、その中で重ねてきた様々の無理に対する収拾策、そして出直し策が、この朝鮮戦争終了後のしんどい課題としてたちあらわれざるをえなかった。実際53年以降はその課題が取り組まれていく事になるわけですが、その場合、1953年は、朝鮮国における南北の分断の固定化であったと同時に、もうひとつ、在日朝鮮人運動と国との関係の実際的な意味での分断が固定化した時でもあった、という事に注意しておくべきかと思います。 非合法もふくめての国のとくに南の運動との連絡体制がまったく困難になる。また、一方、かえりみれば、解放直後には国の人々と在日の人々の生活、感覚上の違いがそんなに大きくはなかったのが、この時期から

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    F1977 2009/04/19
    平日にしなければならない旧正や旧盆の祭祀に、母はよく文句を言っていました。「本国と同じようにするなんて、ここは日本なんだから日本に合わせればいいのに」って。でも、切実に守る気持ちも分かってたと思います
  • おねがいします。 - パラム、ドル、ヨジャ〜済州島に多いものみっつ〜

    もし、誠実なサヨクメンタルな方がいらっしゃいましたら、わたしの下の問いに答えてください。わたしたちには、サヨクの方々しか味方がいません。だから、問うています。あなたがたが、どう思っているのか、正直に教えてください。そしたら、わたしのたたかい方もかわってきますから。日のサヨクとは、なにか、サヨクである、あなたがたは何か、わたしも、わたしの「在日」性を語りましたから、わたしたちに対する寛容の限度を教えてください。

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    F1977 2009/04/18
    じぶんで書いてて、読み直したらはずかしくなって消そうと思ったのですけど、id:tari-Gさんがハイクで応じてくださって、トラバもいただいたので、そのままにします。ありがとうございました。
  • http://d.hatena.ne.jp/nagonagu/20090407

    F1977
    F1977 2009/04/07
    ありがとうございます。オモニの言葉をきいてくださって、本当にありがとうございます。
  • 「であい」 - パラム、ドル、ヨジャ〜済州島に多いものみっつ〜

    ハッキョの始業式の後、年末に発行された、在日韓国朝鮮人問題活動センターの機関紙「であい」を一部いただきました。 今回の「であい」には、K野さんと私の文章が掲載されています。私の文章を載せていただくことになったのは、社会館の館長さんでいらっしゃるKさんが、K野さんがハッキョの30周年のパーティーで話されたお話に感銘され、その内容を掲載したいとK野さんにご依頼をされたことがきっかけでした。その時K野さんが、K野さんの文章を載せる条件として、私の文章も載せることをKさんにお願いをしたそうです。12月のある日、私はKさんにそのことを告げられとても驚き、ハッキョに関しては私はまだまだ新参者なので、大先輩方を差し置いて、ハッキョについて語ることなど大変おこがましいと思ったのですが、Kさんじきじきにお頼みされては断ることもできず、どうしたもんかと迷いながらも引き受けることにしました。もし私がハッキョにつ

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    F1977 2009/04/07
    わたしの原点です。ここから、あるきだせるようになりました。