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ブックマーク / fujipon.hatenadiary.com (6)

  • 【読書感想】書く仕事がしたい ☆☆☆☆ - 琥珀色の戯言

    書く仕事がしたい 作者:佐藤 友美CCCメディアハウスAmazon Kindle版もあります。 書く仕事がしたい 作者:佐藤 友美CCCメディアハウスAmazon 【書いて生きるには、文章力“以外"の技術が8割】 「仕事の取り方から、お金の話まで、すべてシェアします」 あるようでなかった「物書きとして、稼ぎ、生きていく」ための教科書――書く仕事を20年以上続けてきた著者が、「書くこと以上に大切な、書く仕事のリアル」について1冊にまとめました。文章を教えてくれるや講座はすでにたくさんあります。しかし、書く仕事をしたいと思ったときに知りたいはずの、「書くという仕事」そのものについて教えてくれるがなかったからです。書く仕事とはどんな仕事で、どんな生活を送ることになるのか? 書く仕事がしたければ、どのような準備をして、どんなふうにデビューするのか? 書く仕事は選ばれし者しかできないのか? “必

    【読書感想】書く仕事がしたい ☆☆☆☆ - 琥珀色の戯言
    FeZn
    FeZn 2021/12/11
  • 【読書感想】江戸しぐさの正体 ☆☆☆☆ - 琥珀色の戯言

    江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統 (星海社新書) 作者: 原田実出版社/メーカー: 講談社発売日: 2014/08/26メディア: 新書この商品を含むブログ (47件) を見る 内容紹介 「江戸しぐさ」とは、現実逃避から生まれた架空の伝統である書は、「江戸しぐさ」を徹底的に検証したものだ。 「江戸しぐさ」は、そのネーミングとは裏腹に、一九八〇年代に芝三光という反骨の知識人によって生み出されたものである。そのため、そこで述べられるマナーは、実際の江戸時代の風俗からかけ離れたものとなっている。芝の没後に繰り広げられた越川禮子を中心とする普及活動、桐山勝の助力による「NPO法人設立」を経て、現在では教育現場で道徳教育の教材として用いられるまでになってしまった。 しかし、「江戸しぐさ」は偽史であり、オカルトであり、現実逃避の産物として生み出されたものである。我々は、偽りを子供たちに教え

    【読書感想】江戸しぐさの正体 ☆☆☆☆ - 琥珀色の戯言
    FeZn
    FeZn 2014/09/17
  • なぜ、Amazonで本を買わないの? - 琥珀色の戯言

    参考リンク:消える書店:ネットに負け相次ぎ閉店 地域中核店も− 毎日jp(毎日新聞) この記事を読んで、ずっと考えていたんですよね、「リアル書店は、どうすれば生き残れるんだろうか?」って。 なんのかんの言っても、僕は「屋さん」が大好きなので。 でも、「値段も同じで、配達してくれて、品揃えもよければ、Amazonで買うよね」と言われると「まあそうですよね」としか言いようがないのも事実ではあります。 都会には巨大な新刊書店がたくさんあるけれど、人口数万人レベルの地方都市では、TSUTAYAが最大の新刊書店、なんていうことも少なくありません。 リアル書店も時代とともに変遷しつづけているのです。 村上春樹の『ノルウェイの森』は1970年くらいの話なのですが、その時代、僕が生まれたくらいの時点で、すでに「商店街の小規模家族経営書店」の経営が厳しくなっていることが描かれています(ミドリの実家のこと)

    なぜ、Amazonで本を買わないの? - 琥珀色の戯言
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    FeZn 2013/12/18
  • 「わからない」人たちへ - 琥珀色の戯言

    最近の震災・原発関連の報道、とくに「専門家たちの意見」をtwitterなどで見るたびに、僕はどんどん混乱していくのです。 これは、どれが正しいのだろうか?って。 以下は、以前別の場所で書いたものを一部改変しています。 『「科学的」って何だ!』(松井孝典・南伸坊共著/ちくまプリマー新書)より。 (「科学」についての松井孝典さん(惑星科学者・東京大学大学院新領域創成科学研究科教授)と南伸坊さん(イラストレーター)の対談をまとめた新書の一部です) 南伸坊:「科学にも限界がある」ということが、昔から言われていますよね。「限界がある」というアナウンスのほうが大きくなって、「現代の科学では解明できない」ってオカルト派得意のフレーズがあります。「そうだよ、科学では解明できない不思議なことってあるんだ」っていう。だからスピリチュアルとかがはやるのは、人々の科学者への対抗心みたいな心理があって、「科学ではわ

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    FeZn 2011/03/29
  • 「インターネット文学」の可能性について - 琥珀色の戯言

    昨日のエントリを書きながら考えたことをとりとめもなく書いてみます。 僕はこうして7年くらいネット上で書いているのですが(でもあまり上手くならない、悲しいことに)、ネット上に「小説」めいたものを書くたびに、なんというかこう、「せっかくパソコンやネットというツールを使うのだから、もっと新しいことができないかなあ」なんてことを考えるのです。「紙で書いているものをディスプレイの上に表示して、上手いとか面白いとかやっているだけなのって、ちょっともったいないのではないか、と。 そう思いながらも、僕自身はの呪縛から逃れられない人間なので、「パソコンやネットでしかできないこと」をなかなか発見できないんですよね。 まあ、長い間考えていると、いくつ「インターネット文学」の可能性に関して思いついたことがあるので、それらについて書いてみようと思います。 このエントリは、基的に与太話として読み流してくださいね。

    「インターネット文学」の可能性について - 琥珀色の戯言
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    FeZn 2009/02/16
  • 「活字離れ」は「読書家」の責任なのか? - 琥珀色の戯言

    活字離れを進めてるのは読書家なんじゃないの? (by『Good_Hopeの日記』(2007/9/1)) この↑のエントリーで紹介されている記事の しかし私は今の自分を「多読家」とはそれほど思っていない。プロはこんなものではないことを知っているからだ。日垣隆は一冊のを書くのにだいたい300冊程度読まなければならないと複数のエッセイで書いているが、彼は年間3000冊以上を読んでいる。それも私のような「安物」ばかりではなく、一冊何万円もする専門書もびしばし読んでいる。その一端は「使えるレファ 150選」で確認することが出来るが、読書にたいして蘊蓄を垂れるには、このレベルが基準点なのではないだろうか。 こんな文章を読んでいると、僕も正直なところ、そのあまりの敷居の高さに唖然としてしまいます。 たぶん、速読法とかをマスターしているんでしょうけど、1日8冊強もを読むなんていうのは、物理的にも経

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