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ブックマーク / blog.tatsuru.com (5)

  • 文字の書けない子どもたち - 内田樹の研究室

    高校の国語の先生から衝撃的な話を聴いた。生徒たちが文字を書けなくなっているというのである。教科書をただノートに筆写するだけの宿題を毎回課すが、やってくるのは半数以下。授業中に書いた板書をノートに写すようにという指示にも生徒たちは従わない。初めはただ「怠けているのか」と思っていたが、ある時期からどうもそうではないらしいことに気がついた。 『鼻』の作者名を問うテストに「ニコライ・ゴーゴリ」と答えを書いた生徒がいた。ゴーゴリもその名の短編を書いているが、教科書で読んだのは芥川龍之介である。どうしてわざわざゴーゴリと書いたのか生徒に訊ねたら「漢字を書くのが面倒だったから」と答えたそうである。 生徒たちの提出物の文字が判読不能のものが増えて来たという話は大学の教員たちからも聴く。学籍番号までは読めるが、名前が読むのが困難で、コメントの文字に至ってはまったく解読不能のものが少なくないという。何を書いた

  • 『福田村事件』 - 内田樹の研究室

    ある媒体から『福田村事件』についてのコメントを求められたので、こんなことを話した。 関東大震災時に起きた虐殺事件を描いた映画『福田村事件』が公開中である。私は、この映画のクラウドファンディングに参加しており、作を応援する者として、この映画を1人でも多くの人に観てもらいたいという思う。 作はオウム真理教を描いた『A』『A2』、『FAKE』など良質なドキュメンタリー作品を数多く手掛けてきた森達也監督の初の商業劇映画である。私がクラウドファンディングに出資しようと思ったのは、扱いの難しい題材をエンターテイメント作品として撮ろうという森監督の野心を多としたからである。 福田村事件とは、1923年9月1日に発生した関東大地震の5日後、千葉県東葛飾郡福田村に住む自警団を含む100人以上の村人たちにより、利根川沿いで香川から訪れた被差別部落出身の行商団のうち、幼児や妊婦を含む9人が殺された事件のこと

  • 日本学術会議の独立性を侵害する政府の法改正方針を直ち に撤回することを要望します。 - 内田樹の研究室

    内閣府は 12 月 6 日、日学術会議と協議を行わないまま「日学術会議の在り方に ついての方針」を公表しました。方針では「政府等と問題意識と時間軸を共有」し、会 員選考において「第三者の参画」を行い、「内閣総理大臣による任命が適正かつ円滑に 行われるよう必要な措置を講じる」と明記されています。この内閣府の方針は、梶田隆 章日学術会議会長談話や、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞の社説、および日学術会 議の「声明」( 12 月 21 日)で言及されたように、日学術会議の独立性と学問の自由 を著しく侵害するものです。 さらに 12 月 8 日および 12 月 2 1 日の日学術会議総会における内閣府笹川武総合政 策推進室長の説明では、現行の3部構成に加えて第4部を設置すること、直近1月の通 常国会に法案を提出すること、第 25 期の任期(9月末日満了)を 1 年半ほど延長し、 第 26

  • 自由論 - 内田樹の研究室

    アメリカにおける自由と統制 アメリカの話をしようと思う。自由を論じるときにどうしてアメリカの話をするのかと言うと、私たち日人には「自由は取り扱いのむずかしいものだ」という実感に乏しいように思われるからである。私たちは独立戦争や市民革命を経由して市民的自由を獲得したという歴史的経験を持っていない。自由を求めて戦い、多くの犠牲を払って自由を手に入れ、そのあとに、自由がきわめて扱いにくいものであること、うっかりすると得た以上に多くのものを失うかも知れないことに気づいて慄然とするという経験を私たちは集団的にはしたことがない。「自由」はfreedom/Liberté/Freiheitの訳語として、パッケージ済みの概念として近代日に輸入された。やまとことばのうちには「自由」に相当するものはない。ということは、自由は土着の観念ではないということである。 私たちはややもすると私たちは「自由というのはす

  • 憲法の話(長いです) - 内田樹の研究室

    もうすぐ出るSB新書の『戦後民主主義に僕から一票』には憲法について過去にブログに載せた文章がいくつか再録されている。これもその一つ。ただし、新書化に際して大幅に加筆したので、オリジナルの2倍くらいの量になっている。今日は11月3日。日国憲法公布から75年経った。改めて憲法について考えたい。 私が憲法に関して言いたいことはたいへんシンプルである。それは現代日において日国憲法というのは「空語」であるということだ。だから、この空語を充たさなければいけないということだ。 日国憲の掲げたさまざまな理想は単なる概念である。「絵に描いた」である。この空疎な概念を、日国民であるわれわれが「受肉」させ、生命を吹き込んでいく、そういう働きかけをしていかなければいけない。 憲法は書かれたらそれで完成するというものではない。憲法を完成させるのは、国民の長期にわたる集団的努力である。そして、その努力が十

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