釜石艦砲射撃など戦時中の歴史を知る講演会で釜石中の生徒は真剣な表情で聞き入った 太平洋戦争末期に釜石市が米英軍から受けた1度目の艦砲射撃から71年の14日、戦時中の歴史を学ぶ講演会が釜石中(川崎一弘校長、生徒347人)で開かれた。講師を務めたのは、三陸アーカイブ減災センター代表理事の岩切潤さん(81)。「かまいしの昭和20年」と題し、艦砲射撃を生き延びた自身の体験談や復興の歩み、未来につなぐ平和への思いを生徒らに伝えた。 1945(昭和20)年、釜石は7月14日と8月9日の2度にわたって米英軍から艦砲射撃を受け、市街地は焼け野原になり、市民ら750人以上が犠牲になるなど大きな被害を出した。 岩切さんは浜町生まれで、釜石国民学校(現釜石小)5年生の時に艦砲射撃を経験。防空訓練の様子や艦砲射撃を受けた釜石市内の風景などの写真、被弾図など資料を交えながら、”その時”の避難行動や疎開先での暮らしぶ
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文 岩切晃子 2019年開催のラグビーワールドカップ会場に近い、故郷釜石の根浜海岸。 こんにちは。翔泳社という出版社で働いている、岩切と申します。 春は別れと出会いの時期。そんなワクワクハラハラな3月・4月を終えて、5月になって少しお疲れモードになったかもしれないあなたに、私が30年ほど過ごしてきた社会人人生の紹介がお役に立てばと思い、手紙を書くような気持ちでコンピュータに向かっています。 昔から人付き合いが苦手で、自分のことを自分では決められなかった私が、新卒入社時に考えていたのは「自分の酒代や洋服代くらいは、自分で払いたい! そのためにはできるだけ長く働きたい! そうすれば、自分の欲しいものを気兼ねなく選べるはず!」でした。志が低いですね。 そんな私でも、「無茶ぶられたことに応え続ける」「コミュニティのつながりの中を生きる」の2つのおかげで、今まで働いてくることができています。そのこと
岩手県釜石市の避難所が東日本大震災の津波に飲み込まれ、避難していた50人以上が犠牲になった。震災直前に市側が行った津波避難訓練で避難先に設定されていた場所だ。安全を信じ、とっさに訓練通りに避難した市民の多くが命を落とした。肉親を失った遺族たちは「誰が責任を取るんだ」とおえつを漏らした。(高久清史、岡嶋大城) ■リュック背負い 地震2日後の13日。津波にのみ込まれた鵜住居地区防災センターの2階では、避難用のリュックサックを背負ったまま、多くのお年寄りたちが泥と瓦礫(がれき)の中で息絶えていた。 同市定内町の会社員、菊池通幸さん(63)は長男の嫁、琴美さん(34)と孫の涼斗(すずと)くん(6)を捜していた。 卓球台の脇に男の子の遺体があった。「ここさいた」と叫び、駆け寄った。卓球台の瓦礫を払いのけ、近くにあったマクラを置いて遺体を寝かせた。泥だらけの顔を拭き、耳の中の泥をかきだした。 別人だっ
岩手県が、地震と津波で壊滅的な打撃を受けた沿岸部の被災者を対象に、内陸部への「集団疎開」を検討していることが分かった。希望する被災者が対象で、受け入れ先の宿泊施設は、既に県内で約120施設9500人分のめどがつきつつある。 県はすでに19日、釜石市の避難所の25人を、北上市の公共宿泊施設に貸し切りバスで試験的に移動させた。大きなトラブルはなく、26日から釜石市、大槌町、山田町の希望者460人を内陸部の温泉宿に運ぶなど移動を本格化させる予定。既にバス11台を予約した。今後、被害の大きい陸前高田市や大船渡市、宮古市の避難所でも希望者を募り、順次移動させる方針だ。 県は震災後、県内の宿泊施設を対象に「1人あたり1泊3食付きで5千円」の条件で引受先を募集。災害救助法に基づく国からの給付金で全額補填(ほてん)される。滞在期間は2〜3カ月程度を想定。対象者数に上限は設けておらず、県内で収まらない場
釜石市内の小中学生の避難率100%近く ほぼ全員が無事 産経新聞3月16日(水)19時53分 【東日本大震災】 東日本大震災の大津波で多数の死者・行方不明者が出ている岩手県釜石市で、市内の小中学校全14校の児童・生徒約3000人の避難率が100%に近く、ほぼ全員が無事であることが16日、群馬大学の片田敏孝教授(津波防災)の調査で分かった。平成18年の千島列島沖地震の際に避難率が10%未満だったため釜石市教委が避難訓練などを徹底して取り組んでおり、防災教育の重要性を裏付ける結果となった。 片田教授によると、市内の児童・生徒は地震発生時、下校の直前で教室にいた。児童・生徒らは警報と同時に、避難を開始し、各学校はあらかじめ決めていた徒歩5〜10分の近くの高台にそれぞれ避難した。ところが高台から市内に押し寄せる津波の勢いをみて、さらに後背地の高台に移動した。この間、中学生が不安がる小学生を誘導し、
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