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ブックマーク / booklog.kinokuniya.co.jp (53)

  • 『暇と退屈の倫理学』國分功一郎(朝日出版社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「退屈について教えてあげよう」 「退屈」はきわめて深遠なテーマである。パスカル、ニーチェ、ショーペンハウエル、キルケゴール、ハイデガー……近代ヨーロッパのおなじみの思想家たちはいずれも「退屈」に深い関心をよせ、あれこれと考察を展開してきた。 なぜ、こんな地味なテーマに?と思うかもしれないが、「退屈」を遡ると「アンニュイ」や「メランコリー」、「不安」といった同系列の概念を経由して、近代個人主義の根幹にある「私の気分」というたいへんややこしい問題に行きつく。「近代とは何だったのか?」という、これまでさまざまな学問領域で繰り返し立てられてきた問いにきちんと答えるためには、「退屈」の問題を避けて通ることはできないのである。 日でも山崎正和『不機嫌の時代』など、「退屈」の周辺を扱う優れた考察がなかったわけではないが、正面切ってこの問題を扱うものはそれほど多くなかった。「白けの

    『暇と退屈の倫理学』國分功一郎(朝日出版社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    Imamu
    Imamu 2011/11/19
    『國分の議論のひとつの出発点となるのは、第二章で紹介される「定住革命」』「無所属の実感が、退屈のひとつの起源をなす」
  • 『昭和の読書』荒川洋治(幻戯書房) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「こわい批評家」 もう十年以上前になるが、あるパーティで荒川洋治さんをお見かけしたことがある。「下手に俺に話しかけるな」という風情が漂っていて、いい意味で「こわい人」だなと思った。もちろん、筆者は話しかけなかった。 文章を書く人が「こわい人」であるのはとても大事なことのような気がする。最近は「いい人」でないとなかなか生き延びていけない。多弁で、裏表がなくて、私生活もオープンで、パスタを茹でたり、SUVに乗ってたり、メールの返信も早いような「いい人」。そんな「いい人」の書くものは、わかりやすくて楽しいかもしれないが、一番文章にしてもらいたいような薄暗い部分にはまず到達しない。 書の『昭和の読書』というタイトルの意味は、読み進めていくと少しずつわかってくる。表向きそれは、昭和の作品や作家を語るということ。昭和のの読み方、文章の書き方、さらには生き方を振り返るということ

    『昭和の読書』荒川洋治(幻戯書房) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    Imamu
    Imamu 2011/10/05
    「散文は、人工的なもの、つくられたもの、異常なもの」「詩は個人のことばの上にたつので、感受したものについて正直であるが、過剰になれば異常」
  • 『恋とセックスで幸せになる秘密』二村ヒトシ (イースト・プレス) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「恋のルール・新しいルール」 どうしよう。何から話せばいいかわからない。読み終わったあと、猛烈に「このについて語りたい!」と思い立ってパソコンを立ち上げたものの、わたしの言葉ではこのに追いつかないような気がしてぼんやりしてしまう。どういうことだろう。何を戸惑っているんだ、わたし。とりあえずもう一度読み返してみよう、二村ヒトシ著『恋とセックスで幸せになる秘密』を…。 あなたは「わたしのことを好きになってくれない人を好きになっちゃう」とか「向こうから好きだって言ってくれる人は、なぜか、好きになれない」ことが多くありませんか? 「私は自分がキライ……。でも、そんな自分が大好き」って思うこと、ありませんか?(4頁) 男性から「愛されよう」と無理してやっていることが、結果的に「その男性から大切にされない」ことにつながり、「軽くあつかわれる」ように自分からしむけていることにな

    『恋とセックスで幸せになる秘密』二村ヒトシ (イースト・プレス) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    Imamu
    Imamu 2011/09/01
    『二村氏は「恋」を「欲望」と結びつけ、「愛する」ことを「相手を認める」ことだと』"ナルシシズム=「自分への恋(欲望)」→自分を嫌い=自己肯定できていない"橋本治『恋愛論』
  • 『SF文学』ジャック・ボドゥ 訳・新島進(白水社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「地図をもってSF文学の旅に」 SF——サイエンス・フィクション——ときくと、すこし身構えてしまう。うっかりしたことを言ってしまうと、その道に通じた人たちから(つまりSFファン)完膚無きまでにたたきのめされてしまうか、「フッ…こいつ、何もわかってないんだな…」という哀れみの目で見られるか、どちらかだと思っているからである。だからSFファンの前にいくと緊張して、「あの、わたしはただアメリカ文学の有名どころをつまみ喰いして読んでいるだけの人間ですから…」と小さくなってしまう。 わたしのSF読書歴を振り返ってみるに、おそまつきわまりない。「SFの黄金期は読者が14歳のとき」といわれる、14歳頃に読んでいたSFとおぼしきものは、レイ・ブラッドベリとかJ. P. ホーガンの<巨人シリーズ>くらいで(あとは竹宮惠子の『地球へ…』)、他には少女マンガばっかりよんで愚にもつかない恋愛

    『SF文学』ジャック・ボドゥ 訳・新島進(白水社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
  • 『病院の世紀の理論』猪飼周平(有斐閣) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「現代社会が待望する医療史研究、ようやく現る!」 以前当ブログで取り上げたアーサー・フランク『傷ついた物語の語り手』(2006年6月)について、「回復の物語(the restitution narrative)」が私たちにとって基的な概念であることを述べました。ここでの「回復(restitution)」は「すっかり元通り」という意味ですが、私たちの社会は、発達した医療によってあらゆる病いが「回復(restitution)」に導かれることへの期待が高まってきた社会だといえます。このことを「病院」(そして、とりわけ「医師」)という観点からはっきりと物語る研究がこのです。 著者の猪飼周平さんは、現在一橋大学大学院(社会学研究科)の准教授を務めておられますが、彼が東京大学大学院(経済学研究科)在籍中、いわばお隣にあたる人文社会系研究科に所属していた私と研究仲間による「ミク

    『病院の世紀の理論』猪飼周平(有斐閣) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    Imamu
    Imamu 2011/08/01
    「回復の物語(the restitution narrative)」→「生活の質QOL(多様で曖昧さがつきまとう目標)」
  • 『アメリカ音楽史 ― ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』大和田俊之(講談社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「ポピュラー音楽はすでに伝統芸能か?」 タイトルだけからすると正統派の音楽史だが、実際にはなかなか強烈な〝斜めの目線〟を隠し持ったである。 音楽批評はしばしば「そのとき、オレは現場にいた!すごかった!」的な熱気にのせて語られることがある。対象が音楽であれば、たとえ録音されたものであってもナマモノな的な迫力は大事だろうから、「そのとき」の熱気を「オレ」の一人称で生々しく伝えることにはたしかに意味がある。しかし、それは報告ではあっても、批評の域にまで達することができるだろうか。批評というからには、巻き込まれつつも対象と一定の距離を保つことも必要となる。 同じような問題は、いわゆる音楽史にもついてまわる。歴史というからには、単なる「過去に起きた現在」の寄せ集めだけでは十分ではない。これは歴史です、と宣言する以上、そこには個別の「そのとき」を越えた何かが、流れを持った議論と

    『アメリカ音楽史 ― ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』大和田俊之(講談社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    Imamu
    Imamu 2011/07/04
    固有名詞-中心-記述-ロック史-かつての文学研究の手法/「「私」にこだわるロックが、「擬装」への憧れを隠し持ってきたと主張」
  • 『「モノと女」の戦後史―身体性・家庭性・社会性を軸に』天野正子・桜井厚(有信堂高文社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「ジェンダーを「立体視」する先駆的試み」 ある時期、ジェンダー論とはなんてつまらない学問なのだろうかと思っていたことがある。自分が浅学であることも大きいが、その内容が、とても平板に感じられたのだ。 例えば、「男は仕事、女は家事」といった性別役割分業に対する批判である。もちろん、改善が進んだとはいえ、それらが未だに解決していない重要な問題でありつづけているということは言うまでもないのだが、正直に言えば「男が悪い」式のありきたりな結論を聞くのに飽き飽きしていた時期があった。 大学で学び始めた当時は、むしろこうした議論が見開かせてくれる新しい社会問題への視座の気づきに心躍ったものだが、それ以上の目新しい知見を感じることができない日々がしばらく続いていた。そんな折に書と出会ったのである。 書の内容は、さまざまな「モノ」とのかかわりを通して、戦後の女性たちが、いかに自己や他

    『「モノと女」の戦後史―身体性・家庭性・社会性を軸に』天野正子・桜井厚(有信堂高文社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    Imamu
    Imamu 2011/06/30
    「自己/他者/社会」→「身体性/家庭性/社会性」(家庭性『「関係性」「親密性」といったより抽象的なタームにしておいたほうが』)
  • 『倍音』中村明一(春秋社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「〝こんばんは、森進一です〟の謎」 書評空間で今井顕氏が取り上げておられるのを見て、目をつけたである。期待に違わずあやしい領域に踏みこんだ、楽しいであった。 まず誰もが気になるのは、「倍音」という聞き慣れない言葉だろう。これはいったい何なのでしょう? 音に含まれる成分の中で、周波数の最も小さいものを基音、その他のものを「倍音」と、一般的に呼び、楽器などの音の高さを言う場合には、基音の周波数をもって、その音の高さとして表します。つまり、基音が四四〇ヘルツなら、ピアノでも三味線でも四四〇ヘルツの音=ラ(A3)と言うわけです。「倍音」のことを「上音」と呼ぶこともありますが、基音より下に付くこともあるので、「部分音」と言った方がより正確です。このでは、一般に使われている「倍音」という言葉を使うことにします。(9) もしこのような説明が冒頭にあったら、学校時代、物理も数学

    『倍音』中村明一(春秋社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    Imamu
    Imamu 2011/06/02
    「「基音」以外の高い方の音」「整数次倍音~ギラギラしてまぶしい声~遠く上の方から響いてくるよう」「非整数次倍音~濁った声~親密感、情緒、重要さ」「声に影響力のある有名人というのは、こうして正反対の要素を」
  • 『可視化された帝国-近代日本の行幸啓』原 武史(みすず書房) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「「想像の共同体」ではなく「可視化された帝国」」 「目からウロコが落ちる」という言葉があるが、私にとって、書を読んだ時の感想もそれに近いものがあった。 書の骨子は、ベネディクト・アンダーソン流の「想像の共同体」論を、近代日の実情に照らし合わせながら、批判していくところにある。 アンダーソンの『想像の共同体』は、近代史や歴史的な文化研究を志す者にとって、いわばバイブルの一つだが、その内容とは、国民国家の成立にメディアが果たした役割を指摘したものといえるだろう。 すなわち、それまで時空間的に独立していた国内の各地方が、新聞や書籍といった出版メディアが登場したことで、共通の言語を用いて、あたかも一つの問題関心を共有するような感覚を覚えるようになり、それが国民国家としての統一につながっていった、というものである。日においても、明治期の近代国家の成立過程を批判的にとらえ

    『可視化された帝国-近代日本の行幸啓』原 武史(みすず書房) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    Imamu
    Imamu 2011/05/30
    「「想像の共同体」ではなく「可視化された帝国」「「人々を結びつける技術的な手段」という点においては、鉄道もメディアの一つである」
  • 『ミモロジック―言語的模倣論またはクラテュロスのもとへの旅』 ジェラール・ジュネット (書肆風の薔薇) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 井上ひさしの『私家版 日語文法』に「n音の問題」というおもしろい説が出てくる。英語のNo、not、フランス語のNon、ne、ドイツ語のNein、nichit、日語の「ぬ」、「ない」のように否定や拒絶の表現はなぜか n音が担うことが多いが、これは n音が唇を閉じたり、舌を歯の裏に持ちあげて口腔を閉鎖し、呼気を外に出さないことによって生じる子音だからなのだという。口腔閉鎖→心の閉鎖というわけだ。 井上は英語、フランス語、ドイツ語スペイン語、ヨーロッパ諸語の共通点を洗いだして作られたエスペラント語と範囲を広げていくが、当てはまらない言語も多いと指摘し、日語とインド・ヨーロッパ語族の一部の語派の間の偶然の一致とおさめている(ウェイドの『5万年前』によるとジョーゼフ・グリーンバーグはインド・ヨーロッパ語族とアルタイ諸語などを包括したユーラシア大語族説を想定し、この大語族

    『ミモロジック―言語的模倣論またはクラテュロスのもとへの旅』 ジェラール・ジュネット (書肆風の薔薇) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    Imamu
    Imamu 2011/05/30
    『言葉は物のありようを反映するように形成されたとする立場を言語的模倣主義(ミモロジスム)』
  • 『鉄道日本文化史考』宇田正(思文閣出版) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    Imamu
    Imamu 2011/05/02
    「時間に正確な我々の生活は、鉄道が時刻表通りに運行されているということに負うところが大きい」『「主体的形成にかかわる「文化」の契機または様式」として鉄道を認識していくような』
  • 『椅子と日本人のからだ』矢田部英正(筑摩書房) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「物作りの哲学者」 素朴な疑問を抱き、素直に驚き、率直な問いを立てる。常識や先入見を鵜呑みにせず、自分で考え、調べ、読み、また考える。そういう単純な営みが、哲学である。 書にはその営みが生きている。のみならず書では、物を考えることが物を作ることと一体になっている。書は、物作りの思索家による哲学書である。 物作りとは、道具を作ることである。道具とは、それを有している者が一定の用途のために使う物である。そのような道具の極致、つまり、使われるがそれ自体は作られることなくもっぱら作ることに与る原初的道具、それが身体である。 ギリシア語で「オルガノン(organon)」とは、「道具」を意味するとともに、「器官・身体」を意味する。身体という道具を具えておのずと動くもののことを、「有機体(organism)」と言う。それは古来、「生物」の定義そのものであった。道具と身体とのそ

    『椅子と日本人のからだ』矢田部英正(筑摩書房) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    Imamu
    Imamu 2011/04/26
    オルガノン(organon)-道具-器官-身体 //ポイエーテース(poiētēs)-作り手-詩人
  • 『切りとれ、あの祈る手を──〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』佐々木中(河出書房新社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「「を読むこと」の恐ろしさ」 佐々木中氏の語り下ろし作品、『切りとれ、あの祈る手を──〈〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』を読もうと思ったきっかけは、この2月に「ビブリオバトル with キノベス」というイベントに参加したことだった。それが縁でこのサイトで書くことになったのだがそれはさておき、そこで『切りとれ、あの祈る手を』を紹介した方がいて、プレゼンの半分以上がなぜか書ではなく坂口安吾の「日文化私観」についての話だった。安吾好きが高じてファンサイトまで作ってしまった私としては、「これは読まねば!」と思って買ってみたのだが、書を読み進めるうちに、「なるほど、だから安吾だったのか」と腑に落ちた。 書の内容を一言で言ってしまえば、「暴力による革命は二次的なものであり、革命の体は文学にある」ということだろうか。 (書における「文学」は、言葉や文字を使った表現物

    『切りとれ、あの祈る手を──〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』佐々木中(河出書房新社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    Imamu
    Imamu 2011/04/08
    『たとえば、安吾が「文学のふるさと」と呼ぶもの、満開の桜の森に広がる、人々に狂気をもたらす空間と、佐々木氏の書く「読むこと」を突き詰めた先にある狂気は、通底しているのでは』
  • 『妄想少女オタク系』紺條夏生(双葉社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「女子も男子も楽しめるマンガ~少女文化のゆくえを考えるヒント」 面白いマンガである。しいてジャンル分けをするのならば、少女マンガというカテゴリーに位置づくのだろうが、およそそうした既存のカテゴリーを大きくはみ出した作品である。 恋愛や性をテーマにしたマンガでありながら、女子が読んでも男子が読んでも楽しめるというところに、この作品の最大の特徴がある。そうしたマンガは、これまでなかなかありそうでなかったように思われる。その理由はマンガがジェンダーディバイドの最もはっきりとしたメディアの一つだからであろう。稀有な事例として克亜樹氏の名作『ふたりエッチ』などが思い浮かぶが、それであっても、男性向けと女性向けは別々のシリーズとして刊行されている。 これは、いわゆる「お色気サービスシーン」がどちらに対しても用意されているというだけではない。性愛をめぐる様々な関係性のパターンが面白

    『妄想少女オタク系』紺條夏生(双葉社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    Imamu
    Imamu 2011/04/01
    『「見る―見られる」関係が幾重にも複雑化』「かつてならば、少女マンガや男性アイドル文化などを通して~練習~むしろBL系を通して初めから恋愛関係を傍観者として見ることを学びつつ、そのままに思春期」
  • 『大塚女子アパートメント物語 オールドミスの館にようこそ』川口明子(教育資料出版会) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 同潤会によって建設された女性専用アパート、大塚女子アパートメントの軌跡をつづる書。 その設立は1930年。地上五階、地下一階、中庭を抱いたコの字型の建物には148の居室があった。地下には堂と共同浴場、一階には応接室とミシン室、五階には洗濯室と物干し場、屋上には音楽室とガラスばりの日光室、同潤会アパートのなかでも特に共有スペースが充実していた。また、水洗トイレ、エレベーター、ダスターシュート、ガス湯沸かし器等、当時の日人の住居環境からすれば、夢のように快適な近代的設備を持つ、当時最新の女子向けコレクティブハウスともいうべきアパートである。入居の条件は「月収五十円以上」、当時の女性としてはかなりの高収入である。専門的な職種の、いわば「職業婦人」たちをあてこんで造られたのがこの大塚女子アパートであった。 この「職業婦人」憧れの住まいは当時から人々に注目され、メディアに

    『大塚女子アパートメント物語 オールドミスの館にようこそ』川口明子(教育資料出版会) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    Imamu
    Imamu 2011/03/07
    『「工芸」を吸収していく「美術」制度からも切り離され、そして工芸的要素を必要とした産業からも切り離され、二重の意味で社会の制度から疎外されていくのが「手芸」』
  • 『私の居場所はどこにあるの?』藤本由香里(朝日文庫) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「今こそ読み返すべき、少女マンガ論の古典として」 書は、いまさら改めて紹介するのも戸惑われるほどによく知られた少女マンガ論の名著である。 個人的な思い出を記せば、1990年代中盤に、私が在籍していた北海道の大学で、女性とメディアに関するシンポジウムが開かれた際、登壇者であった上野千鶴子さんが、少女マンガに関する女性のリアリティを的確に描いた著作として紹介されていたのを思い出す。それからすでに15年ほどが経とうとしているが、今、この著作を取り上げるのは、その後の少女マンガや文化の変遷を捉えるために、あえて古典として読み直す必要を訴えたいからである。 そのタイトルにも触れながら著者が主張していたのは、「少女マンガの根底に流れているのは、「私の居場所はどこにあるの?」という問い、誰かにそのままの自分を受け入れてほしいという願いである」(P143)ということであり、親密な他

    『私の居場所はどこにあるの?』藤本由香里(朝日文庫) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    Imamu
    Imamu 2011/03/01
    『嵐のメンバーは個々人が擬似恋愛の対象というよりも、むしろメンバー5人が全員そろってじゃれあっている姿、その俯瞰図を見ることのほうが楽しいのだという~「観察者」としてファンであることのほうが楽しい』
  • 『アップルパイ神話の時代―アメリカ モダンな主婦の誕生』原克(岩波書店) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「アップルパイ神話」とは、二〇世紀前半のアメリカの主婦たちを「モダンな主婦」たらしめるためにメディアが作り上げた幻想である。書は、その「モダンな主婦神話」の「巧妙な語り口」を読み解いてゆくことによって、「お袋の味」というイデオロギーとは何だったのかをあきらかにする。 よく、アメリカ人の好きなものは「ママと星条旗とアップルパイ」といわれるように、「アップルパイ」は品メーカーの広告にくりかえしとりあげられ、「お袋の味」の大定番としてアメリカの主婦たちに刷り込まれていった。そうしたメディアの言説のなかでは、「アップルパイ」が上手に作れることはモダンな主婦であることの最大の要件なのだった。だからたとえば、サクサクのパイ生地を焼けることうけあい、という「クリスコのショートニング」の広告は、これさえ使えば「ご主人も『イチコロ』まちがいなし」と謳う。 書によれば、「モダンな主

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    Imamu 2011/01/05
    モダンな主婦"「できる女」と「かわいい女」の二本柱"メイド→妻が家事代行→「お袋の味」//「料理の出来と愛情の相関関係」神話
  • 『切りとれ、あの祈る手を――<本>と<革命>をめぐる五つの夜話』佐々木中(河出書房新社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「情報と文学の関係」 著者の佐々木中氏は『夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル』(2008年)という大部の思想書で、注目を集めた。書でも特にルジャンドルが重要な導きの糸となっているものの、主題はあくまで「文学」に据えられている。 では、佐々木氏の文学観はどのあたりにあるのか。彼の語りは一種憑依型で、独特のリズムがあるが、言わんとすることは比較的単純である。すなわち、無味乾燥な「情報」の摂取にまで切り詰められた読書行為を、徹底して身体的で崇高なものとして捉え返すこと、これである。佐々木氏にとって、それはほとんど、読めないテクスト(聖典)を読み、しかも書き換えるという逆説的行為に近い。ゆえに、文盲であったムハンマド、読むことを「祈りであり瞑想であり試練である」といったルターが高く評価される。あるいは、ダンスや音楽を通じた「革命」が志される。 逆に、書では、「情報

    『切りとれ、あの祈る手を――<本>と<革命>をめぐる五つの夜話』佐々木中(河出書房新社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
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    Imamu 2010/12/01
    ハイデッガー-サイバネティックス(哲学の脅威)≒ルジャンドル-マネジメント(思想の脅威)/識字率上昇→データベースでコンテクスト限定「中世法学データベース/大衆化電子化データベース~機能はほとんど正反対」
  • 『偶有(アクシデント)からの哲学-技術と記憶と意識の話-』ベルナール・スティグレール(新評論 ) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「スティグレールの哲学の巧みな要約」 書は、スティグレールの技術と時間についての著書の内容について、フランスのラジオ番組での連続インタビューで要約したものである。これまでスティグレールの著書は何冊も訳されてきたが、彼の特異な前歴もあって、周辺的な話題に注意が集まってしまう傾向があった。書では彼の思想の筋が、短いインタビューのうちで巧みに語られている。 スティグレールはデリダの指導のもとで技術論を研究してきたが、ときにメディア論とも近い形で展開される彼の技術論は、哲学的にも興味深い観点をいくつも提供している。『技術と時間』の第一分冊ではとくにハイデガーの技術論の考察が展開されたが、ハイデガーと同じようにスティグレールも、古代のギリシアの哲学のうちに、技術論と哲学の深い関係をみいだす。 ただしプラトンに始まるこの関係は負の関係性として描かれる。プラトンはソクラテスの

    『偶有(アクシデント)からの哲学-技術と記憶と意識の話-』ベルナール・スティグレール(新評論 ) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
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    Imamu 2010/11/02
    「プラトンが技術を非難するのは、まさに技術が、不安定で偶発的な生成変化の避けられない流れの現れ」『道具には種の遺伝子的な記憶(第一の記憶)と個体の記憶(第二の記憶)とは異なる「第三の記憶」(p.64)が宿る』
  • 『アフロ・ディズニー』菊地成孔・大谷能生(文藝春秋) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「とんでもなく面白い、20世紀メディア文化論」 ともかく、とんでもないである。20世紀のメディア文化(レコードと映画という視聴覚文化)とは何だったかを改めて考え直そうというのだから、議論のテーマがとんでもないというわけではない。ところが読み始めると、どう考えてもとんでもないのだ。私の予想とは全く違うところで言葉が紡がれて行ってしまう。サックスミュージシャン(菊地成孔)と音楽批評家(大谷能生)のコンビによる慶応大学での特別講義録ということもあって、何らかの理論的体系を順序だてて説明していくというよりも、ジャズの即興演奏のように逸脱や繰り返しをはらみながら、まるで子供が遊んでいるかのように自由に議論が進んでいく。行きつく果ては人たちもわからないといった感じだ。 しかし必ずしもそうした語りのフリー・スタイルがとんでもないというだけではない。やはり、その語られている内容も

    『アフロ・ディズニー』菊地成孔・大谷能生(文藝春秋) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
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    Imamu 2010/09/20
    A19世紀オペラ/19世紀的な社交文化~「ずれ」や「揺らぎ」/B視覚的・聴覚的無意識=倍音・エイゼンシュテイン理論/C映像と音のシンクロ―幼児的全能感:ディズニーのアニメーションと音楽のプロモーション・ビデオ