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ブックマーク / blog.szk.cc (25)

  • 「地雷」が多すぎる

    すっかりが読めなくなっている。 忙しいからではない。自己啓発に毒されて仕事に全力を出すのが癖になっているからでもない。 原因は、現代の情報過多だ。 この社会では、どんな商品に出会うときにでも事前の評価がついて回る。であれば「新刊紹介」などのようなプロのレビューがその代表だ。リアル書店を歩いていて偶然出会うもあるだろうけれど、それすら「あの作家の最新刊」とか「屋大賞ノミネート」とか「ネットで100万人が泣いた」とかの周辺情報が、判型の3割、4割を覆うように貼り付けられている。 そうするとこちらも、あらゆるを色眼鏡で見てしまうようになる。レシピですら「味の素使ったっていいじゃん、美味しいよね」とか「丁寧にひいたお出汁は日文化だよね」という強い思想を自分の中に確認しないと手に取れない。 そう、誰が気にするでもないのに、どんなを開いても、それが事前の情報によって文脈付けられていて

    「地雷」が多すぎる
    Imamu
    Imamu 2024/07/06
    「アイドルオタクが地雷をブロックするみたいな話ですね」「書店で本を手に取るときに、いちいち「この本はいまどういう文脈で出版されているのか」ということを気にしてしまう」
  • 感情的にならない ー 『窓辺にて』を観て

    僕はその日、久しぶりのミスをした。溜まった仕事を片付けるつもりで休日出勤のために訪れたオフィスの前で、カードキーを忘れたことに気づいたのだ。家まで取りに帰っても時間がかかるし、夕方から別の予定もあったので、数時間、ぽっかりと予定が空いてしまうことになった。 仕方がないので、映画でも観て時間をつぶすか、と考えた。上映時間がぴったりだったという理由で選んだのが、今泉力哉監督『窓辺にて』。主演の稲垣吾郎さんの演技はこれまでも評判だと聞いていたし、ミスって軽く落ち込んでいるときに、陽気なエンタメや不穏なサスペンスを観るくらいなら、落ち着いた気持ちで見られそうなものにしよう。そんな軽い気持ちで、予備情報もなく鑑賞したのだった。 結果的に、作品そのものも素晴らしかったし、いろんなことを考えさせられることにもなった。この作品の中に答えがあるわけじゃないけど、いま自分が感じていたことや、来年に向けて考えた

    感情的にならない ー 『窓辺にて』を観て
    Imamu
    Imamu 2022/11/24
    “まるで昨今の企業における管理職研修を受けた上司とのそれ””見方を変えればアンガーマネジメントがものすごくよく”“傾聴やコーチングの研修を受けた人と話していて強く感じるのは「あ、いま気を使われたな」”
  • 速度が問題なのだ――技術と民主主義の未来

    刺激的、というよりは既視感のある対談だった。ユヴァル・ノア・ハラリとオードリー・タンの対談のことだ。対談の概要は冒頭に湯川鶴章さんがまとめてくれたもので把握できるが、僕らがかつて技術と社会思想の間で考えていたことの変奏であり、また21世紀に論じられてきた問題の最先端の知見が披露されていることがよく分かる。たとえば両者ともに、ローレンス・レッシグの『コード』を前提に話しているが、レッシグの名前はまったく出てこない。いま技術と社会の話をする上での基礎教養の水準がどの程度であるのかも、対談の見どころのひとつだ。 僕の見るところ、この対談でもっとも重要な論点となるのは、「技術は人の意思決定をコントロールするものになるのか、エンパワーするものになるのか」というものだ。ハラリは自らを、技術に対してデータを提供し、技術に「使われる」側に立ち、個人の意思決定のみならず、自己理解、そして民主的な決定までもが

    速度が問題なのだ――技術と民主主義の未来
    Imamu
    Imamu 2020/07/14
    「ほかならぬ技術者だけが、多くの人々のフィードバックをコードの設計に反映させなければならない」
  • 善良な人びとの傲慢

    春の時期になると、年度の後半から始まる2年生のゼミのために、ゼミ生の受け入れプロセスが始まる。勤め先の学部では専任教員の数が多いこともあるのか、伝統的に「学生と教員の双方の意思でマッチングする」という珍しい制度をとっていて、しかもゼミ(および卒論)が必修単位になっているので、卒業したければ絶対にどこかのゼミに所属しなければならない。この仕組みには良いところも悪いところもあると思うけれど、少なくとも一部の教員と学生にとってゼミ選択が、就職活動のようなものになってしまう理由のひとつであるのは間違いない。 何を隠そう、まさに自分のゼミの受け入れプロセスも、そう思われている可能性が高い。説明会でも「ゼミを選ぶのは学生、ゼミは選ばれる側」といったことを強調してはいるものの、長年お世話になっている外部企業との連携など、相応の責任を求められる取り組みも多いので、お互いに「不幸な出会い」を避けるためにも、

    善良な人びとの傲慢
    Imamu
    Imamu 2019/03/29
    "善良な学生~「置かれた場所で咲く」とばかりに淡々と" "傲慢な学生~期待せず~周囲を踏み台に""様々なことに真面目に~孤立するような学生"
  • 「みんなで盛り上がる」音楽

    Image from Unsplash 始まる前にはいろいろと議論のあったサッカーW杯。蓋を開けてみれば、学生たちは寝不足になりつつも試合に見入っていたようだし、内容的にもポジティブな話題が多かったように思う。僕に関して言えば今回、開会前後に複数のメディアから「また若者は渋谷で盛り上がりますか」という内容の取材依頼をいただいたのだけれど、ごく初期のものと、知人の番組を除いてすべての取材をお断りした。理由のほとんどは「スケジュールが合わないから」ということだけれど、そもそも東京に住んでいるわけでもなく、またサッカーの専門家というわけでもないので、よほど自分の専門に寄せた話ができるのでなければ、的はずれなことしか言わないだろうと思ったのもある。あとテレビに関しては、発言の内容と自分の見た目が重ね合わせられて誤解を生みそうだなあと思ったとかも。 それなりに考えていることはあった。大きな動向として

    「みんなで盛り上がる」音楽
    Imamu
    Imamu 2018/07/05
    「東京の街のBPMは明らかに他の日本の都市より遅く感じる(あくまで主観)~ヨコノリのシティポップ」「J-ROCK~BPMが早く、循環コード~シンプルなメロディを、リズム隊に変化を~特定の「街」性を感じない」
  • 組織が変われないのは、替わりがないから――組体操が止められない理由

    運動会シーズンということで、お天気も微妙な日々が続く中、やきもきしている人も多いと思う。僕はと言えば、子どもの頃は何かに向けて打ち込んで、その成果を出すことに対する意欲がまったくない人間だったので、運動会が楽しみだったとかいう記憶もなく、したがって前日にお天気でやきもきした覚えもない。ところが親になると、朝の9時に運動会を実施するかどうかは7時のメールで連絡する、なんて言われて、ぎりぎりまでお弁当の用意の算段がつかないとなるわけで、否が応でも敏感になってしまわざるをえない。なんでそうなるのかというと、「できる限り実施できるようにしたい」と関係者が考えているからであり、少なくない数の親が「子どもがこの日のために頑張ってきたのだから、なんとか予定通り実施して欲しい」と思っているからなのだろうと推測する。 こうした感情が、いわゆる「組体操問題」をややこしくしているのだろうと思う。内田良先生の大活

    組織が変われないのは、替わりがないから――組体操が止められない理由
    Imamu
    Imamu 2016/10/08
    「でも自分が組織を運営する立場になると、一方でその「一体感」を醸成しなければ成り立たないレベルの期待や役割があり、他方でそれが行き過ぎたときには「いやいや」とブレーキをかけるという、微妙な手綱さばき」
  • 神と天才とユートピア 第二部 パフォーマティブ労働の時代 (1)底辺の競争

    痛ましい事件が起きると、僕らの心はひどく動揺する。自分の目の前で起きたことならもちろん、メディアで報じられる事件、事故、災害といったニュースにも僕らはこころをかき乱され、現場に花を手向けたり、少しでも何かの役に立てばと寄付をしたりする。それじたいは単なる僕らの心理の問題でしかない。行動経済学においてはこうしたメカニズムを、いわゆる経済学的な「合理性」に対して、僕たちの「非合理」なマインドの特性として扱うらしいのだけど、社会学という学問においてはもう100年以上、それが人の中でどのような合理性を伴った行動なのかということを論じてきたわけで、殊更に目新しい話のようには思えない(もちろん、それが実験によって検証されているということが新しいのだが)。 さて、そういう社会学的な立場からすると、悲惨な事件に対してあれやこれやとウェブ上で「論じる」という行為も、その内容以前に、事件による動揺を鎮め、「

    神と天才とユートピア 第二部 パフォーマティブ労働の時代 (1)底辺の競争
    Imamu
    Imamu 2016/05/23
    『誰もが「神」や「天才」、「プリンセス」「アイドル」などと呼ばれるように振る舞わされる場に面するのであり、またそのためのコストやリスクが結果に見合わないものだとしても、それを拒否する手段はない』
  • 「である」人と「する」人

    今も残る「である」ことと「する」ことの問題 丸山眞男の文章の中でもっとも有名なものといえば、おそらく国語の教科書で読んだ「「である」ことと「する」こと」(『日の思想』所収、1961年)になるだろう。あまりに有名なこの文章をいまさら要約するのも気が引けるけど、人を属性で判断する(○○である人だから××)近代化以前の日社会のしくみと、人を業績で判断する(○○する人だから××)近代社会のしくみの相剋を指摘し、両者の間の倒錯を再転倒する必要を論じる、というものだ。 確かにこの倒錯というのは今でも色んな場面で見られる。新入社員と飲み会、なんていうのがその例かもしれない。上司と部下というのは業績によって規定される、いわば「部下する」関係のはずだと考える新入社員は、「部下である」以上は社外の飲み会においても、座り位置からお酒の注ぎ方まで部下としてのあるべき行動が求められると考える上司の飲み会には出て

    Imamu
    Imamu 2016/04/08
    「論じられる対象になるとき、本来は何かのデータに支えられた「する」人として定義されたものが、容易に「である」人に転化するケースが目につく」「「である」ことの捨てがたい重さ」
  • 反抗なきロックの時代

    若い時分、僕の周囲にはロックミュージシャンしかいなかった。アマチュアからベテランまでたくさんの人たちと関わって、たとえば「ミュージシャン」と「芸能人」の間にある微妙な差だとか、フリーランスの演奏家として生きていく彼らの職業意識だとか、そういうものを学ばせてもらっていた。概して彼らは低姿勢だったけど時によっては「ロック」な立ち居振る舞いで、彼らの語る70年代や80年代の武勇伝を聞きながら、さすがにビール瓶で頭を殴られて流血こそしなかったものの、これでも時代はマシになった方なのだろうな、と感じていたものだ。 いいとか悪いとかの話ではなく、それはある環境が生み出した生き方だったのだと思う。そして、産業化され、大きな市場になっていた90年代の音楽シーンにおいては、衝動的な自己表現が溢れた結果としてのロックの居場所は、かつてよりは小さくなっていた。「マス」という存在を意識できる演奏家たちは、その変化

    反抗なきロックの時代
    Imamu
    Imamu 2016/01/27
  • スマートトイの不思議な世界

    ゆえあって、子ども向けスマートトイについて調べているのだけど、まあ面白いというかなんというか。海外においては、子どもと消費は消費社会研究の立派ないちジャンルだけど、日だとどうしても教育学、幼児教育の方向で、消費社会の研究ではなく、いかにして(悪いことが前提の)消費から子どもを守るかという話になっちゃうわけで、なかなか商品のほうにフォーカスした話にならない。 で、スマホもどきがこの分野では先頭を走ってるわけだけど、 ママとつながるスマホ|Fairisia(フェアリシア) Jewelpod Diamond Premium|セガトイズ ちゃおガールセレクトオンライン|スマトモ|プレミアムバンダイ マイタッチスマート LINE FRIENDS|タカラトミー Android搭載で3G通信できるよっていう格安スマホみたいなものから、LINEもどきのコミュニケーションができるものまでまあ色々。それより

    スマートトイの不思議な世界
    Imamu
    Imamu 2015/07/28
    「リア充というのは要するに「よき消費者」」「充実した消費生活+ともに消費する人間関係があるかないかが、リア充の入口段階の子どもに向けたおもちゃに表象されている」
  • 猛獣とサーカス

    指導したりされたりという関係は、とても難しい。少なくとも、これこれのことをやってくれ、と指示するのに比べれば。指導するという行為には、相手が望んでしたいと思うことを、相手の望む方向に改善し伸ばすためのものという意味合いがあるけれど、それが実際のところ、指導する側の願望でしかないケースもままあるし、何より、指導する側もされる側も、それがどちらの願望なのかをうまく理解できていないということがほとんどじゃないだろうか。 『セッション』という日語タイトルのついた、しかし作中どこにもジャムセッションの出てこない映画を見て感じたのは、その混濁した願望が導く先のどうしようもなさであり、音楽においてすらそれが起きるという虚しさだった。もちろん興奮しなかったわけではない。そのことについては後で書くのだけど、まずは作中における指導関係について確認しておこう。 聴くべきところのない演奏 舞台は名門音楽大学、そ

    猛獣とサーカス
    Imamu
    Imamu 2015/05/06
    「たぶん速弾きギターの動画の女の子たちも、きっと親がメタル・ファンとかで、小さい頃からそういう技巧ばかりを練習してきた、あるいはさせられてきたのだろう。そこで親の欲望と子の欲望はもはや」
  • 「炎上」と「クソリプ」のあいだ

    一度火がつくと止まらないケース アパレル業界においては、だんだんと暖かくなってくる今頃は年間でもかなり重要な時期なのだと思う。社会人になれば可処分所得も増え、生活も変わるから、そういう人に「これまでとは違う、ひとつ大人の服」を売り出す絶好のチャンスだからだ。もっといえば、これまで潜在顧客だった層を一気に自ブランドの顧客に変えるために「春」「変化」「開花」といった季節のキーワードと顧客自身の成長や変身を重ねあわせてアピールするようなキャンペーンが、様々に展開される時期であるわけだ。 そんな中、ジェンダーに絡むものとしては珍しくワンサイドで炎上したルミネのPR動画。20日朝からウェブ上で燃え始め、夕方には謝罪の掲載と動画の削除というスピード対応だったので、僕らにとっては収束に向かう案件だけど、おそらく制作担当者にとっては胃に穴のあくようなクライシス対応の日々が続くのだと思う。春先のキャンペーン

    「炎上」と「クソリプ」のあいだ
    Imamu
    Imamu 2015/03/21
    『「発信者がどのような意図でどのような文脈を構成しようとしているか」を見抜く力』「マジョリティ目線ではクソリプにしか見えないようなツッコミに対する耐性と配慮を涵養するのが、メディア・リテラシー」
  • うろ覚えの”J”ポップ時評 第4回(from『エクス・ポ』第一期)

    第04回:「アキバから渋谷へ」 この連載も折り返し地点を越えました。当初の依頼では「最近面白い日音楽」について思うところを述べるはずだったこの企画、どんどん「日のポップカルチャーの現在」を分析するという方向に向かっています。あらかじめ「J」を丸囲いするという逃げを打っておいて正解でした。 さて、前回の最後で僕は、連載の後半では主題をオタク系カルチャーへシフトしていくと書きました。ただ、この点については少し言い訳をしておく必要があるかもしれません。ストリートに対してオタク、という対立図式は、僕の師匠である宮台真司の影響で生まれたものであり、僕自身の90年代を生きた経験からもたらされたある種のリアリティに基づいたものでもあります。ですが00年代の現在においても、その対立図式は有効なのか、という問いは、十分に検討される必要があると思うのです。 ストリート:オタク=強い:弱い=イケてる:イケ

    うろ覚えの”J”ポップ時評 第4回(from『エクス・ポ』第一期)
    Imamu
    Imamu 2014/02/21
    「アキバのストリート化」「電車男ブーム以降~客引きのメイドさん"「週末のホコ天のコスプレパーティー化」」「もうひとつのルーツは、ライブパフォーマンス~ビジュアル系バンドなども宣伝」「アキバのオフ会拠点化」
  • うろ覚えの”J”ポップ時評 第3回(from『エクス・ポ』第一期)

    第03回:「風景としての仲間」 生殖行為のような生々しい現実は、公共圏においては隠される必要があり、それは情交に関わる表現を、どこかふわふわとしたイメージで覆っていく一方、不安定化した現代における「安定」のよすがとしての生殖-家族というテーマが求められるようにもなっている。その二重性が、ケータイ小説や最近のラブソングの、ある種奇妙な感覚を生み出しているのではないか、というのが前回までに僕が提示した仮説でした。 ところで、広義の公共圏で行われるコミュニケーションには、政治的議論や企業活動のようないわゆる「公的」な場面で行われるもの以外にも、多様な形態があり得ます。性風俗はその中でももっとも限界的な領域だと思いますが、その他にも「飲み屋」や「クラブ」などで広がる談義・社交も、公的なものと私的なものの中間的な性格を有しています。 公共圏にこうした「第三空間」としての盛り場を見いだしたのは社会学者

    うろ覚えの”J”ポップ時評 第3回(from『エクス・ポ』第一期)
    Imamu
    Imamu 2014/02/20
    「レゲエとツタヤが一緒に並んでしまう日本の邦楽の環境は、なんて豊か~毒にも薬にもならないトラックに、シンガーが等身大の表現」「バックバンドの演奏がうまいほど個性を失うという意味で、ひどくJ-POP的」
  • 体育会系MCを探せ

    2014年の仕事の抱負でも、と思ったのだけど、昨年はも出したし、学務も昨年ほどではないしというわけで、今年はインプットの年にしたいなという以外にたいしたことも浮かばなかったので、こないだ日のジレンマに出たときのことを思い出しつつ、今年はテレビ論壇とかどうなるんだろうね、と考えてみる。 とりあえず気になっていたのは「論客」というあの呼称だ。いやまあそういうテンプレであることは理解するし、言われてる方も「(笑)」としか返しようがないのだけど、さりとてそこには、いまの20~30代を集めてきてさてどんな括りにしましょうかって考えたときに出てくる、ある種の無理がにじみ出ている。 おそらくそこに込められた意味は、何かについて議論する人という意味なのだと思う。で、イデオロギー対立が議論のテーブルを結びつけられなくなって以降、議論というのはロジカルディスカッションのことではなく、それぞれの専門分野や現

    体育会系MCを探せ
    Imamu
    Imamu 2014/01/06
    「共感による人の動員は、常にどこか多様性を捨象する性質があるし」「データ的に裏付けられた「価値中立的(という価値を帯びた)」な選択肢を提示」「お互いをつなぐ車軸というものがない」
  • 「うちらの世界」論の系譜

    どうも夏になるとツイッターで不用意なことを書く人が増えるのか、ネット憲兵のみなさまが活動しやすくなるのか、この夏はバイト先で不適切な行為に及んだ若者の問題がブームになっている。その数が増えたように見えるのは単に注目を集めているからで、いつぞやの飲酒・喫煙告白が目立ってたときと同じだと思うけど、じゃあどうしてそんなことを書いてしまうのかという点についても、あまり話に進展はないように思える。 彼らの社会は「うちら」で完結する。「うちら」の外側はよくわかんないものである。よくわかんないものが干渉してくれば反発する。そして主観的には彼らは「なにも悪いことはしていない」。彼らにとって「悪いこと」とは明確な脱法行為のみである。あるいは「うちら」の結束を乱す行為だ。なにか、よくないことをしでかして、叱られたとする。しかし罰せられない。それは許されているということだ。明確な処罰が下されない限りは許されてい

    「うちらの世界」論の系譜
    Imamu
    Imamu 2013/08/08
    満を持して感「(1) 内集団の結束を強めるために逸脱行動~一般的な心理」「2) 社会的な包摂の力が弱~社会全体への想像力が欠如した層の増加」「(3) 若者のコミュニケーションの内輪化と差異化圧力~「内輪受け」行動」
  • 中西寛『国際政治とは何か』における偽善と独善の論理

    国際政治を考える際に、中西寛はその著書の中で、バーナード・ショウの喜劇に対して、近衛文麿や和辻哲郎が、欧米先進国の偽善性を見抜いていたというエピソードから議論を始めている。確かに当時の英米は、国際政治に関して高遠な理想を掲げながら、その実自国の利害のために動いていたわけで、そこに「二枚舌」の性格を見出すことは難しくなかった。だが、と中西は述べる。そうした英米の偽善に対して日がとったのは、いわば「独善的」な立場であったと。 それはたとえば満州事変の後、リットン調査団の報告に対して松岡洋右が行った演説に現れていたと中西は言う。 日は東アジアと世界の平和の理念を強く信じているが、中国は法を守ろうとせず、日の理念も理解しようとしない。しかるに満州は日にとって死活的に重要である。したがって日はまさにやむをえない事情から満州国建国に動いたのであって、それのみが満州に法と秩序を与え、日の利益

    Imamu
    Imamu 2013/05/16
    「偽善と独善であれば、人は次善の策として偽善の方を選ぶ、なぜなら偽善者は少なくとも善の基準を他者と共有できるが、独善的な態度は、自分にしか意味のない善を振りかざすからだ」
  • 自己啓発するノスタルジーの論理

    オリンピックに興味を持つのは難しいのだけど、そんな僕でも開会式くらいは(後追いで)見ることになるわけで、なにせ知識のレベルでもかの国について知っていれば、イギリス社会への皮肉たっぷり、もはや開会式関係ないお祭り騒ぎで、アナウンサーの人たちはこの開会式の原稿をもらったときどんな顔をしたのかなあとか、そんなことばかり考えていたのだった。でも同時に思ったのは、じゃあこれを日でやるとしたら、どんな演出で、どんなストーリーにするのだろうということ。Mr.ビーンのポジションはビートたけしなのかもしれないけど、彼がいま開会式でコマネチしたところで、笑える世代はもうだいぶ上の方だ。 まあ普通にやるなら、議論を呼びそうな戦前から終戦にかけての話はうまくすっ飛ばして、高度成長期からのバブル崩壊、長期停滞、ふたつの震災と、現在の日を描き出した上で、このオリンピックを契機に新しい国づくりを目指すぜ!みたいなコ

    Imamu
    Imamu 2012/07/31
    (ロンドン開会式)「巨大な共感は常に過去に存在する資源から生み出される」&「過去を基準にした自己否定」「(1)抽象的な目標の設定、(2)具体的な成功例の提示、(3)現在の自己の否認、(4)自己肯定へと至る手段の提示」
  • ギャル演歌の世界へようこそ Part.2

    完全にノリで書いたのに、気づいたら速水さんの連載をはじめ、微妙な広がりを見せている「ギャル演歌の世界」。自分としては、批評的な距離感もなく、揶揄する意図もなく、ただ目の前にある風景――音楽があって、それが好きだというコがいて――について「わかるわかる!」の気持ちで書いたので、変に展開するのもどうかなと思ったのだけど、「オタク」の例を挙げるまでもなく、言葉の一人歩きは怖いし、最近某所でインタビューされたこともあったので、そこでの話を元にしつつ、簡単に。 まずギャル演歌の定義について。前のエントリでは「内向的でうじうじしていて、依存心が強く、当は男に引っ張ってほしいけど、でもそれが叶わないからがんばって一人で生きるんだってパターン」って書いたもんで、これが定義みたくなっているのだけど、さすがにざっくりしすぎなので、以下のような歌詞が特徴的な女性アーティストの楽曲、ということにしてみたい。 (

    ギャル演歌の世界へようこそ Part.2
    Imamu
    Imamu 2010/08/21
    『女性同士の友情を描いた作品も~男は裏切るけど、友情は裏切らない~ガールズトークとか女子会とかのブームともリンク』コギャル・ソング「ここはどこ?わたしはだれ?」系/ギャル演歌「幸せになりたい!」系
  • 書くという再帰性

    書くという行為は不自由だなと思う。商売で文章を書いていると、書くという行為は、常に誰かの求めに応じてなされるものになる。その時点で、相手と自分との間に生まれた社会観や時代観というものが、文章に反映されることになる。ワールドカップで盛り上がってた若者たちは、不景気のせいで世の中に不満を持っている層なんですか、と聞かれれば、不満の表れならもっと酷いことになっていたろう、と答えるけれど、雇用の問題で社会に対して怒っているのはごく一部の若者ですよね、と言われれば、そんなことはないですよと返すだろう。 それは、ブログやのように、自分の内発的な動機で文章を書く場合でも同じだ。ある社会観というか、前提として持っている想定があって、それに対する距離感が文章のトーンを決める。特にアカデミックな知識を用いながら一般に向けて書く場合には、異化効果というか「意外な驚き」みたいなものを盛り込もうとすることが多いの

    Imamu
    Imamu 2010/06/26
    「その人が無自覚に前提にしている社会観~「客観的」な証拠を集めようと~揺るがない~自分がどのような「偏り」~自覚し~立つ足場を「選ぶ」~自分には理解できない前提を有した相手~想定反論~新しい自分への認識~可能性」