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メモに関するKatagiriSoのブックマーク (11)

  • 船木 亨『ドゥルーズ』はじめに

  • 181 ドゥルーズ哲学と言語の問題 『千のプラトー』におけるイェルムスレウ言語学の意義と射程 小   林   卓   也 要 旨 本稿の課題は,フランスの哲学者ジル・ドゥルーズと,精神分析

  • 第57回研究会予稿集

    第57回研究会 共通テーマ「ライプニッツとスピノザ、18世紀へ」 予稿集 講師の敬称はすべて略しました 清水洋貴(筑波大学) 「ライプニッツとスピノザの接触と分岐-「観念」をめぐって-」 よく知られているように、ライプニッツは、スピノザ『エチカ』の研究に端を発して、『観念とは何か』(一六七八年)という小論考を著した。その際、おそらくライプニッツには、スピノザによる「真なる観念」についての二つの定式、すなわち『エチカ』第一部公理六における定式と、第二部定義四における定式とが齟齬をきたしているように映ったのであろう。それゆえに、ライプニッツは、スピノザのこの二つの定式に対峙して、「観念」について、独自の定式化をおこなったのだろう。 発表では、『観念とは何か』におけるライプニッツの「観念」説の確認からはじめて、「観念」をめぐるライプニッツの思索の展開を辿ってみたい。この作業を通じて、スピノザに

  • ドゥルーズ1 『ドゥルーズを「活用」する!』についてーDutch roll

    読み始めてすぐに「この手があったか」と思わせられた。というのは、書で最初にとりあげられている「此性」はドゥルーズの概念の中でもある意味特別なものだと言えるからだ。 これまでに出た数多のドゥルーズ解説書も、ドゥルーズの哲学や概念の「単なる解説」、すなわちドゥルーズの思考のトレースを可能な限り避けようとしているのが涙ぐましいほどに読み取れた。しかしそもそも、ドゥルーズの哲学や概念、思考を解説するということそのものが難しい、というよりもほとんど不可能だとさえ言える。 たとえば真っ向から、教科書的にそれを試みたのは宇野邦一の『ドゥルーズ:流動の哲学』だろう。同書はかなりの力業で、ドゥルーズ哲学の初期から後期までを解説することに「成功」している。 解説という行為が言葉の置き換えだとしても、宇野氏が細心の配慮をもって言葉を選んでいることが伝わってくるし、ドゥルーズ哲学の総体的なあり方のようなものは(

    KatagiriSo
    KatagiriSo 2015/04/17
    概念が運動になる
  • 新しいページ 2

    『千のプラトー 資主義と分裂症』 ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ(共著) 宇野 邦一 他訳 河出書房新社(1994) ¥7,035(税込み) ISBN:4309241514 フランスの哲学者ジル・ドゥルーズと、精神分析家フェリックス・ガタリの共著です。哲学書として読むべきか、副題の「資主義と分裂症」に留意して社会臨床的な試みの著述であるとみなすのかは悩むところですが、一般的には哲学書、分類上はポスト・モダニスム系の哲学書とされています。なお、書は「資主義と分裂症」の第1部をなす『アンチ・オイディプス』(1972年)の続編として1980年に刊行されました。 ポスト・モダニスムとは、近代の負の側面に執拗に光を当てようとする一群の哲学ですが、思考の射程が時にギリシャ・ローマに遡ることがあるとはいえ、扱われることは主に近代のありようであり、今日、普遍的ないし自明とされるものは近代社

  • ネグリ+ハート『マルチチュード』について ――ドゥルーズ+ガタリとのスタイルの差異など - 鳥籠ノ砂

    アントニオ・ネグリ+マイケル+ハート『マルチチュード――〈帝国〉時代の戦争と民主主義』(2004)は、『〈帝国〉――グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(2000)の続編である。そもそも『〈帝国〉』は、グローバリゼーションに伴って現れた新しい世界秩序を〈帝国〉と名指し、それに対抗しうる可能性を「マルチチュード」と呼んで仄めかす書物だった。〈帝国〉とは国境を超えたネットワーク状の権力であり、マルチチュードとはそのネットワークを逆手に取って連帯し合う主体群のことである。『マルチチュード』は〈帝国〉時代に生じた戦争の在り方について記すとともに、このマルチチュードが推進する民主主義の希望について述べた書物、と要約できよう。 著者のひとりであるアントニオ・ネグリは、もともとオートノミズム(自治主義、自律主義)の指導者として知られていた。1979年、極左組織「赤い旅団」のテロを主導した冤罪

    ネグリ+ハート『マルチチュード』について ――ドゥルーズ+ガタリとのスタイルの差異など - 鳥籠ノ砂
    KatagiriSo
    KatagiriSo 2015/04/17
    政治化させている
  • キリスト教は邪教ではありません!『アンチクリスト』: KEIK~警句~

  • ドゥルーズはなぜ今でも読まれるのか?

    管理人:cyberbloom ■FRENCH BLOOM NET (FBN) は10名あまりのライターの投稿によって運営されている共同ブログです。フランスの映画音楽、ファションや料理の話題を共有しつつ、そこに政治や経済、環境やテクノロジーの問題を織り込みながら、新しいフランス学を模索しています。 ■カテゴリーにあるのは各ライターのコーナーです。詳しくは「ABOUT & PROFILE」をご覧ください。 ■毎週フランス関連ニュースを紹介、解説している情報ブログ INFO-BASE、映画専門サイト、音楽専門サイトもご覧ください。 ☆FBN INFO-BASE ☆FRENCH BLOOM MUSIC ☆FRENCH BLOOM CINEMA ABOUT & PROFILE(2) サイバーリテラシー(257) extra ordinary #2(86) どうってことない風景(62) SUPER

    KatagiriSo
    KatagiriSo 2015/04/17
    根拠不明な明るさについて
  • 2007年6月 : 池田信夫 blog

    2007年06月30日12:44 カテゴリ 現代はパノプティコン的「監視社会」ではない 書は、ドゥルーズの死の直前に出た訳書の文庫化だが、彼の多くのの中で最初に読むとしていいだろう。それは『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』などの内容が対話調でやさしく語られているだけでなく、むしろ最晩年の彼がそうした過去の議論を否定しているからだ。フーコーは、規律社会と、その主たる技法である「監禁」の思想家とみなされることが多い。しかし、じつをいうと、フーコーは、規律社会とは私たちがそこから脱却しようとしている社会であり、規律社会はもはや私たちとは無縁だということを述べた先駆者のひとりなのです。(単行p.288)「監視社会」の恐怖を煽り、「プライバシー」なる幻想を振り回すおめでたい人々は、全知全能の「ビッグブラザー」が国民を監視していると思い込んでいるのだろう。しかし年金問題で露呈したのは

    2007年6月 : 池田信夫 blog
  • ドゥルーズ研究 新たな展開期 - GGCCAATT

    フランス現代思想の中心的哲学者と目されたジル・ドゥルーズ。死後、多分野におよぶドゥールーズ哲学の全容解明が進み、その思想的影響はグローバルに広がる。日でも今、30代の気鋭の研究者が相次いで新刊書を世に問い、ドゥルーズ研究は第3世代を加えた新たな展開期に入っている。 台湾最北部の新北市淡水区。私立総合大学の淡江大学淡水キャンパスで5月末から6月初め、アジアで初めてドゥルーズに関する国際会議が開かれた。「創造的組み合わせ」を主題としたこの「ドゥルーズ・スタディーズ・アジア国際会議」には台湾をはじめ日中韓、シンガポール、インド、仏独英米など世界中から総勢200人が参加した。 「台湾韓国ではドゥルーズを読んでいる人がけっこういる。中国でも翻訳書が急増している。ドゥルーズの思想は、当初のフランス語圏から英語圏、旧共産圏、中南米、そしてアジアへと広がり、今や世界の共有財産となっている」 ジル

  • 純粋スキゾ批判:Critique of Pure Schizo / kay shixima blog:ドゥルーズ - livedoor Blog(ブログ)

    Furchtlos bleibt aber, so er es muss, der Mann Einsam vor Gott, es schützet die Einfalt ihn,

    純粋スキゾ批判:Critique of Pure Schizo / kay shixima blog:ドゥルーズ - livedoor Blog(ブログ)
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