タグ

関連タグで絞り込む (2)

タグの絞り込みを解除

歴史に関するLunacatのブックマーク (8)

  • asahi.com(朝日新聞社):元台湾総督、明石元二郎の墓の鳥居戻る 台北 - 国際

    もとあった場所に戻された、明石元二郎の墓の鳥居=台北市内、村上写す  【台北=村上太輝夫】日の植民地だった時代の台湾で第7代総督を務めた陸軍大将、明石元二郎(1864〜1919)の墓の鳥居が、当時日人墓地だった台北市中心部の公園に戻された。現地の日人や台北市民の間で話題になっている。  明石は日露戦争開戦前、ロシア駐在武官を務め、反ロシア帝政組織への秘密資金援助などを通じた情報工作で活躍した軍人。司馬遼太郎の「坂の上の雲」にも登場する。  だが、台湾では近代化に尽くした総督として知られる。1918年に就任、翌年には故郷の福岡で病没する。短い在任ながら、台湾人が高等教育を受けられるよう制度を改めるなど実績を残した。遺言に従い、台北の日人墓地に墓が造られ、鳥居が建てられた。  戦後、日人が去り、中国大陸から渡ってきた人々がこの墓地に住みつくと、明石の墓の上も粗末な住宅が建ち、鳥居は物

  • asahi.com(朝日新聞社):武田勝頼ゆかりの3県タッグ 伝説の地でフォーラム - 社会

    香川県から駆けつけた丸亀鉄砲隊が火縄銃の実演を披露した=高知県仁淀川町大崎  戦国武将・武田勝頼が落ちのびて暮らした伝説が残る高知県仁淀川町大崎に、勝頼を顕彰して地域づくりを目指す山梨、高知、長野3県の団体が集い、初めて「武田の里フォーラム」を開いた。今後は物産や文化などで交流を深め、地域おこしで連携していくことで一致した。  勝頼は戦国武将・武田信玄の四男として生まれた。信玄亡き後、1575年の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れ、82年に山梨県内で自害したとされる。  だが仁淀川町の一部には、自害したのは影武者で、勝頼は土佐の武将を頼って同町に落ちのび、大崎玄蕃と名を変えて1609年まで生きたという伝説がある。  フォーラムは2日にあり、勝頼没後400年祭や史跡巡りツアーを催してきた仁淀川町の「武田勝頼土佐の会」が、同日開いた勝頼にちなむ催し「秋の陣」の一環で企画した。土佐の会の岡林照

    Lunacat
    Lunacat 2010/10/13
    勝頼にも影武者伝説ってあったのね
  • asahi.com(朝日新聞社):鶴岡八幡宮の大イチョウ倒れる 「実朝暗殺の舞台」 - 社会

    根元から倒れた大イチョウとおはらいをするために大石段を下りる神職=10日午前8時2分、神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目の鶴岡八幡宮、山元一郎撮影倒れた大イチョウの根元の直径を測る消防署員=10日午前7時49分、神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目の鶴岡八幡宮、山元一郎撮影  神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮で10日未明、境内にある大イチョウが倒れた。同市が原因を調べているが、同八幡宮によると、強風で倒れたとみられるという。  大イチョウは樹齢1千年余りとされ、高さ約30メートル、周囲6.8メートル。鎌倉幕府三代将軍の源実朝を暗殺した公暁(くぎょう)が、この木の陰に隠れたという伝説から「隠れ銀杏(いちょう)」とも呼ばれ、大仏と並ぶ同市のシンボルだった。1955年に県の天然記念物に指定されている。  同八幡宮によると、10日午前4時15分ごろ、5分おきに「ドンドン」という音が鳴り、同40分に雷が落ちるような音がして

    Lunacat
    Lunacat 2010/03/10
    横浜南部に住んでいて,年に数回は行っていた場所だけに……ショックが大きすぎる.
  • asahi.com(朝日新聞社):都立高で日本史必修に 独自科目「江戸から東京へ」新設 - 社会

    東京都教育委員会は25日、2012年度からすべての都立高校で日史を必修科目とすることを正式に決めた。東京の近世以降の歴史を学ぶ独自の科目「江戸から東京へ(仮称)」も新設する。  文部科学省の学習指導要領で日史は選択科目だが、都立高校の生徒は、指導要領で定めた「日史A」「日史B」に加え、「江戸から東京へ」の中から少なくても1科目を履修することになる。「江戸から東京へ」の導入は各校の判断に委ねられ、学校の裁量で使える授業時間を利用した科目になる。  新科目の教科書や指導内容は大学教授や教師らが10年度中に決める予定。都教委は「日人のアイデンティティーを育むには自国の歴史学習が不可欠」と説明している。  公立高校での日史必修化は横浜市教委が4月から、神奈川県教委が13年度から実施する。同県教委も郷土史など独自科目を、都教委と同じ手法で設ける方針だ。(岡雄一郎)

    Lunacat
    Lunacat 2010/02/25
    郷土史は小学校の教育範囲だったと思ったんですけど……
  • 児島湖ホームページ

    岡山平野の南部一帯は、天正10(1582)年当時、瀬戸内海に浮かぶ児島(現在の児島半島)と土との間に20余りの島々を点在させた、「吉備の穴海」と呼ばれる美しい浅海でしたが、吉井川、旭川、高梁川の三大河川の強力な沖積作用で島々の間には干潟が発達し、干拓を可能にする条件に恵まれていました。 1618年に西阿知新田・東阿知新田の開発により児島は陸続きとなって、「吉備の穴海」は、静かな入海「児島湾」に変貌しました。その後も、旭川の沖積作用を利用して、湾沿岸は干拓による新田開発が盛んに行われ、江戸時代の寛永から慶応までの約240年間に約68km2もの土地が造成されました。 明治時代になり、旧士族たちの授産事業として大阪の豪商藤田伝三郎による大規模干拓が開始され、昭和16年までに第1〜3工区と第5工区の約29.7km2を造成しました。昭和21年からは国営事業として引き継がれ、昭和30年に第6

    Lunacat
    Lunacat 2009/09/04
    児島湖の干拓地図あります
  • 行徳の範囲-昔と今で違う?

    ■「鉄道を拒否した町-行徳」と言うけれど・・・ 江戸時代に、江戸と水路で直結され、房総への玄関口として大いに栄えた行徳が、明治以降衰退し、1969年(昭和44年)に営団地下鉄東西線が開通するまでさびれていた、大きな原因の一つが、鉄道-今のJR総武線-が通らなかったためだと言われています。 明治時代以降、鉄道が各地に延びていったとき、それまで宿場町として栄えたようなところは、鉄道によって既得権が侵されるとして、鉄道敷設に反対した結果、かえってさびれていったとされ、行徳もその典型的な一例で、総武線は行徳を避けて通ってしまったというのです。 ちなみに総武線(総武鉄道)の開通は明治27年(1894年)です。 でも、この話を聞くと、ちょっと変に感じるところがあります。 行徳が反対したからと言って、総武線が小岩-市川を通っているのはちょっと迂回しすぎではないかと思えるのです。 次の地図を見てみましょう

    Lunacat
    Lunacat 2009/09/04
    江戸川放水路ができる前の行徳と総武線の関係
  • 東アジア勢力地図

    Lunacat
    Lunacat 2009/02/05
    面白い~
  • 弥生時代:衝撃の新年代発表から6年 自信深める歴博グループ - 毎日jp(毎日新聞)

    Lunacat
    Lunacat 2009/02/04
    紀元前10世紀から弥生かぁ……
  • 1