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@s_mikamin デッサンから入る美術教育はおかしい。理論的に考えて制作するとつまんない。感性だけで作ると稚拙。きっと、歴史をしっかり学んでからって人が増えると、頭でっかちとか誰か言い出す。大切なのは、人と違う切り口でスタートして解決することなのかな? #isArtOrNot 2010-06-23 21:59:12 フジタユウコ(版画者) @fztyk @s_mikamin デッサン「から」入ると確かにきついですよね・・・。デッサン「も」というスタンスが好ましいなあ。芸大の前身の学校時代から「写生」という科目はあったそうです。それ以前の人たちは、何を入り口として美術を勉強していたのだろうか。 #isArtOrNot 2010-06-23 22:04:59 @s_mikamin デッサン、僕は大苦戦組。やらない学校も海外なんかだとありそうな・・・。それ以前は、お師匠さんの模写かと。RT
随分前に作成していつつまとめきれずに放置していた美術系のTwitterアカウントのリストをアップです。 数日前に美大の学生で散見されるTwitterの使い方に若干の不満(内輪で10数人フォローしあって終わる)というかもったいなさをツイートで述べたのですが、書いてしまってから、そもそも誰が使っているかが一望できないので仕方ないのだ、と思うに至りました。で、僕が観ている中では活発に使われている分野は建築だったりするのですが、わりと初期にこのサイトのリスト→ http://architecturephoto.net/jp/2010/02/twitter_2.html の存在が大きかったなと思い返しまして。急遽まとめてアップしてみました。7/8で停止予定の京都国立近代美術館のアカウントが閉じる前にとも思いまして。 で、放置していた理由は順番をどうするかで悩んだからなのですが、結局記事編集時のフォロ
1.資本主義カルチャーとしてのアート 2. 消費としての芸術体験 愛知県の豊田市美術館に、ヴォルフガング・ライプの展覧会を見に行った時の体験について書く。 ライプのそのインスタレーションは、長い時間をかけて彼が野山を歩き回り、さまざまな花から少しずつ採取した膨大な量の蜜や花粉によって作られていた。会場で私はその「匂い」に包まれ、作品のたたずまいの謙虚でセンシティブな美しさに素直に心を打たれた。 ライプの作品はよく、大量消費や自然破壊、過度な文明化への内省を促すものだと言われている。しかし、ライプの作品に感動しても、明日から質素な食生活に切り替えようと思う人はいないだろう。もう車には乗るまいと思う人もいないだろう。自然保護の運動に参加しようと決意する人もいないだろう。 作品体験は、あくまで「受容体験」に留まるのだ。それは人の生き方を変え、今までとは異なる行動に促すところまではいかない。どれほ
10、デュシャン 現代芸術ってやったもの勝ちであることに早々に気づき、かつそれを自虐的に利用して「やったもの勝ち」の領域に堕すことの無かった奇才。以後の芸術家は、「美術史は第一世界大戦で終了しました」と言って憚らない自分の目から見れば、美術史が第一次世界大戦で終わらないことへの数少ない反証。 ちなみに、ポロックと悩んだ。でもポロックのやったことは、要素的な意味でピカソに吸収されうるな、と。そして、前述したようにそれはセザンヌに内包されて、結局セザンヌが始祖なんじゃないかと。ウォーホル?私はポップアートをアートと認めていないのであしからず。ポロック、ウォーホルへと続く現代芸術評価って、発展史観によって「作られた評価」にしか思えない。 nix in desertis:偉大なる画家十選より 現代アートはやったもの勝ち。美術史は第一次世界大戦で終了。それ以降のアートは発展史観による評価に依存。いや
1. 資本主義カルチャーとしてのアート 2. 消費としての芸術体験 3. 忘却による反復 私が現代アートに興味を持ち続けてきた理由の一つは、それが自らを定義付けできないもの、あらゆる事象を受け入れ続けるものという点で、非常に特異だということだった。こんな妙な分野はないと思う。音楽や演劇、映画、文学でもかなり枠組みは広げられたが、現代アートほど「受容力」のあるジャンルは他に見当たらない。 アートの名の下に、絵画、彫刻といった伝統的な表現形式から身体、映像、音による表現まで、あらゆる試みが展開されている。そして芸術、アートというのは、クリエイティブなことだという認識が世の中にある。これを逆に見れば、そこでの営みのすべては、芸術、アートという「名」にあらかじめ保証されているということである。 つまり何をしようが芸術、アートだと言えば、自動的に何らかのクリエイティブなことをしてることになるのだ(そ
「アーティストの村上隆さんが映画を撮っているらしい?」。1年半前、Twitterでつぶやかれていた「映画エキストラ募集」のつぶやきを見て以来、ずっと気になり続けていた村上さんと映画というジャンルの組み合わせ。先月末、その初監督作品『めめめのくらげ』が公開になったということで、初日から1週間遅れではあったけれど、六本木ヒルズにある映画館まで足を運んだ。実写とCGを融合させた独自の映像作品は、従来の映画評価軸であるストーリーや、映像美といったものよりはむしろ、「思いを伝える」という「表現」の核心部分において、優れた作品だったように思う。(以下ネタバレなし) ネット上に上がっている幾つかのレビューや感想にもある通り、『めめめのくらげ』という作品には、その物語や映像的に、突っ込みを入れたくなるようなシーンが、ない訳ではない。特に終盤の主人公とくらげ坊が協力して戦うシーンは、すでに作品世界を受け入れ
絵画についてのおしゃべりは、もちろん絵画にならない。 しかし画家だって、他人の絵を見て良いはずだし、それを見てブツクサ言ったって良い訳だ。 この本は、画家が他人の(時々自分の)絵についてブツクサ言ったそんなコトバが、当の絵とブツクサ言ってる画家のイラストその他のイラストとまざりあって出来ている。 絵解きコトバ解きの絵画史だ。 これ見たら、いままでの美術史なんか、抹香臭くて読めない。 「ベラスケスに比べれば、ティッティアーノの肖像なんて、材木に見える」といったマネは、そのベラスケスから構図や背景の処理(無背景にしてしまう)だけでなく、その黒の使い方も学んだ(比べると歴然である)。 「フェルメールにはベラスケスでさえ遠く及ばない。フェルメールには、すでに完璧なものを、なお完璧にしようとする熱狂と苦悩があった。極限を極めるために彼は何度でも書き直し、コトバがまったく無力になる奇跡に達したのだ」と
2010年6月24日 こちらに反応 基本的に、拠って立つ美学が僕と大野さんではまったく違う。 そして、15年なり20年なりその道につぎ込んだ経緯がある人間が、ちょっとやそっと議論したくらいで自分の価値観を譲ったり曲げたりすることはないだろう。 だから、そういう意味では、完全に平行線になるのは当たり前であり、仕方がない。 「芸術」という語の社会通念とか慣用とかに話を振られたら、キワモノ作家でしかない僕に勝ち目はない。そもそも最初からそんな民主主義的多数決(笑)な議論など僕はしてはいないのだ。 しかし、互いが互いの個人的な思想を主張していたら絶対に交わらないのが見えてるわけで、僕が一切譲らない以上あちらが路線を曲げてくるのは仕方ないわけで、これは僕がかたくななのが悪いとも言える。 申し訳ないが、僕は政治的に正しくあるために自分の中の美を曲げるつもりはない。議論において負荷を一方的に相手に押しつ
カナダのアパレルブランド「Lifetime Collective」のディレクターReid StewartとMichael Carterの二人によって、「人生においてありふれた中に真に良いものを見つけるのは困難を伴うが、まったく努力をしないよりはましである。」というコンセプトのもとに創刊された一冊。Issue oneは、写真家平野太呂氏の「POOL」が表表紙、裏表紙の他に6ページにわたり特集されています。 また、JOHN COPELANDやJASON NOCITOなどの旬な作家が取り上げられ、アートワークやインタビューと充実した内容となっています。 More Sample 参加アーティスト: JOHN COPELAND TARO HIRANO JASON NOCITO VINCENT SKOGLUND JODY ROGAC etc.
例の首都大の学生のやった件で、この数日、id:NaokiTakahashi氏(以下、高橋氏と表記)とのブコメ議論があちこちで長引いた。 個人的には、被害者の受けた苦痛と屈辱の前には、こんなアート論議などどうでもいいものだと思っているし、この事件についてアートや芸術方面から語ること自体が(アートや芸術に対してではなく)被害者の女性達に対して失礼なものになりかねないと思っている。このことはブコメに書けなかったのでここではっきり言っておきたい。 私の基本的態度は「これをアートとして語る意味はない」。高橋氏の態度は「アートの俎上に上げてその質を論じよ」。バカ長いばかりで読む人も少ないだろうが、なにがしかあぶり出されている面もあると思うのでここにまとめておく。 それぞれの元記事。私が最初のブコメを書き込んだ順。議論の日時はかなり重なっていて同時進行的にやっていた。 Togetter - まとめ「ドブ
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不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ここ数日、美について考えている。 何が美なのかではなく、美は人間にとって、どんな価値なのだろうか、と。 美に関することが苦手な人は少なくない。自分には美的センスがないと頑なに信じている人がいる。 どうして、そんなに美を忌避するのだろうか?と思う。 美を感じるセンスは個性だから、教育などを通じて学ぶことはむずかしいともいう。 だが、それは答えになっていない。 美を感じるセンスは僕も個性だと思うが、では、ほかの知力や価値観や行動力はどうなのだと思うからだ。それらも個性以外のなにものでもないが、それらが美に対するような頑なな忌避の態度が示されたり、教育に対する絶望的な見解が示されたのをみたことがないからだ。 明らかに、美に対しては、他のものとは異なる何かが働いている。 そうした否
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