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一つの仮説に至った。 そこまでの経過を記載するのは、まるで自分の恥を公開するようだが、何だか書き記して公言しておいたほうがよい気がするのでそうする。 結論から言えば、「忘れられない悲しみは忘れずに、辛い時は辛いこととして、その感情に身を委ねる」ということだ。似たような言葉を聞いたとき、気休めのような感覚で受け取っていた。しかし、よく考えればこの言葉には自分にとって、深い意味があることに気づいた。「あきらめ」と似ているが、少し異なる。それは、「自分の感情を承認する。認める。受け入れる。共に過ごす」ということだと思う。そして、その負の感情に、自己に、「執着」しないということが重要なのだ。 自分にとって「生きる」ということは、いつの頃からか、「苦しみを我慢すること」だった。 そしてきっと今でもそうだ。なので、常に「救い」を求めていた。きっと何らかの「救われる方法」があるはずだと信じていたし、過去
ニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー氏に話を聞いた。大メディアに対する同氏の批評は辛らつだ。「取材源との距離が近すぎ、監視役としての役目を果たしていない」「ダブルスタンダードで自国の暗い面は報道しない」と指摘する。 ――日本社会は非常に排他的で、属さない人を排除する――と言われてきました。記者クラブもそういう排他的な文化の一つの面だと思います。どう思われますか。 ファクラー:日本のメディアを見ていて非常に興味深く思うのは、情報を独占的にコントロールしようとする記者クラブがある一方で、週刊誌とかタブロイド紙が非常に元気なことです。記者クラブは日本のメディアの保守的な面を表していると思います。週刊誌やフリーランス記者、地方紙はかなり良い仕事をしています。 ――朝日新聞や日本経済新聞といった日本の大手新聞とニューヨーク・タイムズの最も大きな違いの一つは、世界中の読者に対する影
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