知識の価値が暴落したのはその通り。知識の次は心の力が大切となる。人を元気にし、楽しい人生に必要な活力を社会に供給する胆力が問われる。人を貶す様な心が病んだ人はもう生き残れない。はてなブックマーク - xevraのブックマーク / 2008年09月23日 その通りだと思う。ぼくも人を元気にしたい。楽しい人生に必要な活力を社会に供給したい!
「ラッキーセブン」という言葉がある。昔の野球は今よりもずっと牧歌的だった。一番特徴的なのは今よりもずっと投高打低であったことだろう。4割打者がいる一方で、2割打者や1割打者もごろごろいた。ピッチャーは完投するのが当たり前だった。今のような分業制は影も形もない時代だ。完投どころか、2連投3連投も珍しくなかった。そうして、完封試合もまた珍しくなかった。入っても1点、良くて2点3点というのが当たり前だった。 そんな昔の野球にあって、7回というのはよく得点が入るイニングだった。理由は二つある。一つは、先発した投手の疲れのピークがちょうど7回に来るということ。ここを過ぎると、あとはアウト6つなのでなんとか元気を盛り返すけれども、それよりちょっと前の7回がとにかくきつかった。だからこの回によく打ち込まれた。もう一つの理由は、打線がちょうど3順目に回ってくるということだ。1回から6回までをパーフェクトに
面白いとは何だろう?美というものの価値基準は有史以来少しも変遷していない。それは夕やけに対する人々の認識が古来より少しも変遷してないということだ。「秋は、夕暮」というやつである。もちろんスモッグなどの影響で、夕やけそのものが美しく見えなくなったということも場所によってはあるだろう。けれどもそれは、夕やけそのものの美しさが損なわれたということではない。スモッグによって、美しいものを美しいままに見られなくなったというだけだ。 夕やけの美しさを知る人は、永遠不変の美というとああ夕やけのことかとすぐにピンと来る。彼らにとって美というのはものすごくクリアーな概念だから、それを疑いようもないのだ。一方美というものの価値基準と言われてもピンと来ない人たちは、ちゃんと夕やけを見たことがない人たちである。彼らは夕やけをというものを知らないか、あるいは知っていてもスモッグのかかった夕やけしか見たことがないかで
これを読んで、思ったことを書きます。「最近の日本語は乱れている!」とか主張すると、なぜ国語学者はニヤニヤするのか。 - 小学校笑いぐさ日記 柳瀬尚紀という人がいるのだけれど、国語学者のあいだではこの人はどういうふうにとらえられているのだろうか? ぼくの知る限り、この人は日本語の語彙に関しては一番豊富だ。また語彙以外の、日本語の歴史や成り立ちなどについても相当に詳しい。 柳瀬尚紀は、ジェイムズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」を翻訳した人だ。そして、この本を翻訳するために、自分の中に膨大な量の日本語を入れた人だ。英語の巨人であったジョイスに対抗するために、ありとあらゆる手段を使って日本語という日本語を自分の中に入れ、その語彙の量でもって(それだけではないけれど)ジョイスに立ち向かった。そういう人だ。 この人は、日本語だけではなく、日本文学のこともよく知っている。夏目漱石も森鴎外も二葉亭四
小説というのは、冒頭の3ページも読めばそれが価値のあるものかどうかを判断することができる。中には1ページ――いや数行で十分という人もいるけれど、ぼくの場合は3ページくらいがちょうど良い―― いや、と言うかぼくも本当は数行でだいたい面白いかどうかの判断はつくのだけれど、それを評価として文章に書き起こし、記事としてブログに載せるとなるとやはり数行では心許なかったので、ここは念のため3ページという長さにさせてもらった。ちょっと長過ぎるかというきらいはあるものの、そこのところはご容赦願いたい。 さて、そうして評価したいのは「涼宮ハルヒの憂鬱」である。この小説は、もうずいぶんと長いことブームの続いている「ライトノベル」の、その中でも代表格と言われる本当に大きなヒットを飛ばした作品で、小説だけではなく、それを原作にしたアニメやその他のメディアミックスコンテンツもヒットした。そうしたあらゆるヒットの大元
いつの頃からか、外国映画の邦題というのがあまり信用できなくなって、気になった映画や気に入った映画があると、必ず原題を当たるようになった。外国映画の邦題というのは、たいてい配給会社の宣伝担当がつけているらしいのだが、日本人の観客に最適化を図るためなのか、不当にそのタイトルの持つテーマやメッセージが歪められている場合があるのだ。ぼくは、映画に限らずタイトルというのはその内容と同等の重い価値のあるものだと思っているので、そういうふうにぞんざいに扱われるのがちょっと我慢ならないのである。 ぼくの嫌いな邦題の一つに「フェリスはある朝突然に」というのがある。これは、原題は「Ferris Bueller's Day Off」で、訳すと「フェリス・ビューラーの休日」といったような意味だ。この映画のテーマはといえば、学校をサボった主人公フェリスが、そのサボった一日をいかに楽しく過ごすかということについて、い
少し前のだけれど、増田のこのエントリーがとても面白かった。もっと学校で、テクニックを教えてくれればよかったのに これには大いに共感させられた。ぼくも大人になってから、「なんで学校ではこれを教えてくれなかったのだろう?」と思わされることがしばしばあった。大人になって、自分で気付いたり、あるいはひょんなきっかけで知ることのできたテクニックで、「もっと早くに教えてくれていれば、こんなに回り道をせずにすんだのに」と恨めしく思ったことが何度かある。 そのうちの一つに、「人に期待をしてはいけない」というのがある。このことをもっと早くに教えてくれれば良かったのにと、これに初めて気付いた時には大いに憤慨させられたものだ。 というのも、ぼくはどうにも「人に期待してしまうタイプ」だったからだ。人に常に理想的な状態を期待し、あいつならやってくれるだろう、あいつならできるはずだと、そんなふうな夢見がちなタイプだっ
友人Mに送る言葉人の話を聞く時、誰の言葉を聞いて、誰の言葉を聞かないかという、評価の基準について。 何かを言う時、自分のこととして言う人の言葉には耳を傾けなさい。「わたしはこう思う」「ぼくはこういう考えだ」 その逆の、他人のこととして言う人の言葉には、耳を傾けてはならない。「世間ではこう言われている」「常識ではこうだ」「あの人はこう言っていた」「みんなそう言っている」 そういう言葉に対しては、ただ黙ってハイとうなずいておき、聞き終わったらすぐに忘れてしまうことだ。
人を怒らせる方法の一つに、「知ったかぶり」というのがある。これは強力だ。人は、知ったかぶりをされると怒りの琴線をいたく刺激されるらしい。それも、自分の好きなものや一生懸命打ち込んでいる分野に関して、知ったかぶりであれこれと語られることには何ものにも増してアレルギーを覚えるようだ。これをやられると、どんな穏便な人も、いや、普段穏便な人であればあるほど、目を三角にして怒り始める。烈火の如く怒る。怒髪天を突く。 だから、ぼくはなるべく知ったかぶりはしないようにしている。自分の知らないことについては、語らないのが一番だ。人を怒らせて得になることなど、この世には一つもない。
今、あらゆるエンターテインメント業界において制作者の前に大きく立ち塞がっているのが、「オタクの壁」である。「オタクの壁」とは、コンテンツをオタク向けに作ることによって、ある一定の売上げは確保できるものの、それ以上には広がっていかないジレンマのことである。「オタクの壁」には、大きく分けると四つの壁がある。その四つの壁について、一つずつ見ていく。 第一の壁第一の壁は、「切り捨ての壁」である。例えば「萌え」というのがある。萌えは、オタクには訴求力があるけれども、それ以外の一般層には逆に嫌悪の対象でもある。それでも、売上げを確保するためには萌えコンテンツを作らざるを得ない。萌えを含んだコンテンツを作れば、ある一定数の売上げが見込めるからだ。もし、萌えを含まないコンテンツを作れば、一般層にも広がっていく可能性は生まれるが、失敗すれば、全く売れない可能性も出てくる。それが怖いから、例え一般層を切り捨て
人間の本質才能ってなんだろうと考えることがある。ぼくは天才が好きで天才の評伝を好んで読んでいた時期があった。そのうちの一つにモーツァルトがあったのだけれど、そこにはいまだに心に残っている興味深い一節があった。モーツァルトは同時代の誰よりも音楽の技法に精通していたというのだ。今の言葉で言うなら「情報強者」だった。それも史上最強の情報強者だった。彼は物心ついた時から膨大な量の音楽情報を浴びるようにして育ち、しかも記憶力が良かったから、そのデータベースは誰よりも豊かに、また膨大なものとなった。彼が作曲をする時には、その膨大なデータベースから最適解を選び続けるような感じだったらしい。だからモーツァルトの音楽は全部コンテクストがあるのだ。新しくはあるけれども、飛躍的に新しいというわけではない。ちゃんと、それまでの伝統の上に築かれている。 モーツァルトの音楽は、けっして天から降りてくる類のものではなか
その昔、自己主張の強い男がいた。男には、自分の意見というものがいつもあった。男はいつも、それをはっきりと口にした。また、議論の場で間違っていると思ったことがあれば、これにははっきりと異を唱えた。異を唱えるだけでなく、それを正そうとした。相手が訂正に応じなければ、根気強く説得しようとした。 しかしおかげで、男は次第に周囲から煙たがられるようになった。次第にみんな、男から距離を置くようになり、男との関係を絶つようになった。そうして男は、どんどん孤独になっていった。孤独になると、男は自信というものを失っていった。世の中に自分の居場所が見出せず、いつでもどこでも居心地の悪さを感じた。やがて悲観的な考えに支配されるようになり、笑顔も満足に作れないようになった。何かものを言う時も、はっきりと口に出すことがはばかられ、モゴモゴと口ごもるようになった。それでも男は自己主張をやめなかった。孤独に拍車がかかっ
ドリトル先生航海記全てはここから始まった。後で知ることになるのだが、ここには物語のほとんどの原型が詰まっていた。物語の成り立ちも原型的だった。それはまさに物語だった。これこそ子供が読むための本だった。 馬の首風雲録筒井康隆をいつから好きになったのか覚えていない。最初に読んだのは「将軍が目醒めた時」だというのは覚えている。ただそれほど面白いとは思わなかった。つまらないとも思わなかった。不思議な読後感だった。それから、筒井康隆をよく読むようになった。震えるような感覚はなかったけれど、いつの間にかどっぷりハマっていた。そしてこの小説を読んで、初めて面白いと思った。 東一局五十二本場ふとしたきっかけから麻雀に興味を持った。その過程で、麻雀には阿佐田哲也というすごい小説家がいるのだということを知った。代表作は「麻雀放浪記」だったが、手始めに短編集から手をつけてみることにした。本屋さんで、タイトルに引
マリオ・プーゾの書いた小説「ゴッドファーザー」は、単に上級のエンターテインメントであるだけではなく、優れたビジネスの指南書でもある。ここに登場する主人公「ドン」ことヴィトー・コルレオーネは、禁酒法時代から第二次世界大戦にかけての混沌とした状況にあったアメリカ、ニューヨークにおいて、自らの経営する会社(オリーブ油の輸入業)を、ある独創的なやり方によって飛躍的に成長させていった。そこには、どんな逆境にも屈しないばかりか、逆にそれをバネにして繁栄を築いていった、一人の天才経営者の姿が克明に描かれている。 そこでここでは、そんな「ゴッドファーザー」におけるビジネス関連の記述を追いながら、ソニーが任天堂を逆転するにはどうすればいいかを考えてみる。ここに書かれていることを援用すれば、いかに逆境に立たされたソニーといえども、必ずや任天堂を逆転できるはずである。 まず「ゴッドファーザー」は――そしてそこに
人をdisる時には注意が必要だ誰かをdisる時は、細心の注意が必要だ。生半可にやると、かえって自分がdisられることになる。人の、誰かをdisることに対する眼差しは厳しい。少しでもおろそかなことをすると、とたんにそこを突かれてしまう。人を糾弾したつもりが、かえって自分が糾弾されることになる。これでは本末転倒だ。 だから、そういうdisりブーメランを受けないために、おろそかなことは書かないようにする必要がある。最低限のマナーを守って、節度あるdisり記事を書く必要がある。作法というものを守って、読む人の反感を――disりを買わないようにする必要がある。 そこでここでは、そんな「人をdisる時にやってはいけない作法」を分析し、11の項目にまとめてみた。参考にしたのはこちらの記事。ポニョ見たけど、男の師匠も友達もいない宗介と、オタク的に都合の良い「聖なる女性賛美」が強すぎて駄目でした - さて次
日刊サイゾーの記事「日刊サイゾー」に興味深い記事があった。現役ディレクターが吼える「テレビバラエティは死んだか」(前編) : 日刊サイゾー これは、日刊サイゾーが現役のテレビディレクターに、テレビの現状について(特にバラエティ番組について)インタビューした記事だ。インタビューしたのは「マッコイ斉藤」さんというバラエティ番組のディレクター。紹介文によると、こうある。マッコイ斉藤(まっこい・さいとう)1970年、山形県生まれ。ビートたけしに憧れてテレビ業界に入る。『極楽とんぼのとび蹴りゴッデス』(テレビ朝日)、『すれすれガレッジセール』(TBS)など、多くの人気番組を世に送り“深夜番組のカリスマ”と呼ばれるように。常識にとらわれないぶっ飛んだ制作スタイルが多くのコアなファンを魅了。芸人からの信頼も厚い。 「深夜番組のカリスマ」とは?この記事で、サイゾーははなから「なぜテレビは死んだのか?」と煽
よくインターネットはなんでも自由に書き込んで良いみたいな言説を耳にしますが、果たして本当でしょうか? もちろん、犯罪予告と言った反社会的な書き込みは今ではもうほとんど許されないような状況になっていますが、それ以前の、自由な思想を開陳するというか、自分のオナニー的な自己満足の言説を述べることの自由というのは、果たしてどこまで保証してあげれば良いのでしょうか? もちろん、日本には言論の自由というのが法律で許可されていますから、その他の法律を犯さない限りにおいては、まあ基本的に何を言っても良いということになっています。しかしながら、ネットというのは一方において公共性の高いところで、色んな人が通ったり滞在したりするところでもあると思うのです。例えて言うなら駅とか公園のようなものでしょうか。例え個人のブログであっても、その人の部屋という概念は適当ではない。むしろ商業ビルに入ったテナントというか、そう
ここ10年くらい、「この先消え行く職業は何か?」という話題になると、ぼくはいつも真っ先にDPE屋を挙げていた。ぼくは、高解像度のデジカメを買って、エプソンのプリンターでそれが印刷できるようになった10年くらい前から、もう一度もDPE屋には行ってないのだが、その頃はまだ街にもDPE屋がたくさんあって、写真を印刷するスピードや、値段やサービスなどを相変わらず競い合っていた。また特に、その頃は富士フイルムが盛んに写真屋さんでプリントしようという「お店プリント」キャンペーンをくり広げていた。長瀬智也くんと樹木希林さんや田中麗奈ちゃんなどがCMに出たりして、写真屋でプリントすることのメリットを盛んに喧伝していた。 しかしそのCMを見る度に、ぼくは複雑な気持ちになった。と言うのは、彼らがお店でプリントすることの良さを喧伝すれば喧伝するほど、逆にお店プリントから客足が遠のいてることを証明しているようにも
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