どうして昔の詩人たちが恋人を果物や野菜にたとえたのか、私は存じ上げない。恋人の頬をリンゴにたとえたり、唇をサクランボにたとえたり、目をブドウにたとえたりしたら、恋人が八百屋と何も変わらなくなる。こんなたとえに、ロマンチックでセクシーな面などありゃしない、というのが本音だ。 しかし、このようなたとえを未だに本気にする人々がいるとはびっくりだ。ついこの間まで、イラクのモースルはアル・カーイダの支配下にあった。イラク軍が街をアル・カーイダから解放して、アル・カーイダ独特の様々な統治手法は世の知るところとなった。 アル・カーイダは八百屋でキュウリとトマトを隣り合わせに並べるのを禁止したそうである。そうした場合、性的な連想を喚起してしまうからということらしい。トルコの極めて想像力たくましい詩人たちでも、ここまでは考えつかないように思われる。そして、この禁止に従わない者に対する罰則はというと、死刑との
おもわず紹介したくなる すばらしい記事が ふたつあります。 右翼の女教師さんの「あのー、すいません、普通に「死に神」だと思うんですが...」と、 zarudoraさんの「命名、妖怪「どっちもどっち」」です。 女教師さんは、「「現行法を側面支持」してる人はみんな「死に神」代行です。すごく残念ですけど。」「言い換えると、一億3千万人全員が「死に神」代行です。」という議論を している。つぎの主張は、森巣博(もりす・ひろし)さんの死刑廃止論を おもいださせる。 裁判員制度なんかで国民の司法参加が促進されているけれど、死刑執行員制度なんかもつくったらいいと思う。そうしたらみんなが平等に「死に神」代行を負担していることが実感できて、とてもいいと思う。森巣さんは、「死刑廃止に向けたメッセージ」(アムネスティ)で 一回の死刑執行につき、100人くらいを選挙人名簿から無差別に抽出して、死刑執行官とする。 も
人が亡くなった事故に言及するのは気が引けるけど、なんつうか、犯人探しの雰囲気を感じて、それでは再発防止なんてままならないよと思うので書く。2008-06-20 - 捨身成仁日記 炎と激情の豆知識ブログ!子供が悪い、親が悪い、教師が悪い、という痛ニューに対し、buyobuyoさんは設計が悪いと言う。 こうした論争の末、誰かが悪いと言うことになって、その人が刑事告訴されて民事訴訟されて賠償金払って、僕らはそれで満足なのか?「悪いやつらが処分された。まず一段落。」「さて、再発防止のために、そいつらと同じ属性のやつら、気をつけろよ。」では、何度でも似たような事故は生じると思う。そして、誰かを吊るし上げようとしているこの空気、そりゃ関係する人がみな「うちには責任が無い」と言うわな。 学校は、「人が乗ることは想定していなかった」「女性教諭が目を離したすきに男子が天窓に上った」教育委員会は、「事故が多発
調査捕鯨で捕られた鯨肉の横領を告発しようとして,運送会社の倉庫にあった鯨肉を持ち出したグリーンピースのメンバーが逮捕されましたね。 この逮捕,ヤメ蚊さんのブログによれば, 逮捕当日、新宿署に事情を説明するために出頭をすることにしていたところ、その直前に任意での事情聴取の機会もないままに逮捕されました。 というのだから,逮捕の要件である証拠隠滅のおそれなどがあったのかどうかそもそも疑問です。 ところで,彼らに窃盗罪が成立するかどうかについては,いわゆる不法領得の意思の有無が問題になります。盗った物からの経済的効用を受けようとして行う犯罪は,誘惑的要素が強いために,強く禁圧すべきであるというのが,窃盗罪を器物損壊罪よりも重く処罰する理由であって,したがって,窃盗罪と器物損壊罪の区別のために,物の経済的用法に従い利用処分する意思が窃盗罪の成立には必要とされるのです(不法領得の意思にはもう1要素あ
わたしは、相対主義が有効なときと、そうでないときが あるように おもう。 言語相対主義や文化相対主義という理念は、それが理念であることが重要です。つまり、ある言語や文化だけが重視されている現状があり、それにたいする対抗理念として、言語や文化に優劣は存在しないと主張しているのです。この理念を あたまから否定することは、むずかしいのでは ないでしょうか。 ただ、言語や文化に優劣は存在せず、どれもが ひとしく価値を もつならば、「なんでもあり」になってしまいます。つまり、暴力的な言語や文化さえ肯定してしまうのか?という疑問を さそいこむのです。 ここには、ある誤解が あります。文化相対主義が、ある文化と ある文化のあいだで相互批判したり議論するのを 禁止しているかのように みなしているからです。 ある文化が ある文化を 支配し、おさえこんでは なりません。けれども、批判したり、議論したりするのは
こんなことを言わなくてはならないのは本当にばかげていると思うのだけれど、どうも未だに「ゆとり世代はこれだから」で昭和61年生まれ以降を無批判に叩こうとする人がいるようなので、ここで一度書いておくことにする。 馬鹿な若者というのは、今更ここで言うまでもなくいつの時代にも一定数いたものである。説明書を読もうとしない人間も、不満ばかり垂れ流す人間も、あるいは飲酒喫煙を自慢したり、犯罪自慢をする人間だって、さらには中二病的な諸事象も、別に今の時代になって突然現れたわけじゃあない。昔からそういう人間はいるし、それは人間古来の欲求から来る衝動なのだから、存在しないはずがないのである。 かつて、若者のさしたる行動は、社会から隔絶され閉じられた学生特有のコミュニティ空間のみで共有されるものであり、「学生」間での出来事は大人達の構成する「社会」によって具体的に認知されるものではなかった。学生による行為は、そ
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