タグ

ブックマーク / hituzinosanpo.hatenablog.com (20)

  • 学習権と教育権と。 - hituziのブログじゃがー

    わたしは、学校教育じゃなくて、学習支援で いいじゃんと主張することがある。いつでも、どこにいても、何才でも、だれもが学習できる。それが大事なんだと。 こどもを 学校に いかせるというのは、親にとっては託児所に こどもを あずけるという意味もある。親だって、こどもとばかり 顔を あわせていたくない。こどもだって、そうだろう。そういう意味で、学校という居場所には社会的な意味があるんだと感じる ひとも いるだろう。ただし、「学級」という空間の是非についていえば、わたしは完全に否定的だ。学級というシステムが人間を ダメにしている。くるしめている。わたしは そのように かんがえている。 学級という空間の だめっぷりを 批判し、介入していくうえで、学習支援という視点は重要な意味があると おもっている。 わたしは訪問語学講座を ほそぼそとやっている。あるときには ひとりの学習者に ふたりで訪問するという

    学習権と教育権と。 - hituziのブログじゃがー
    NOV1975
    NOV1975 2013/06/29
    難しいんだよなー。意思によって脱落することは抑止すべきだし、意思によらず脱落した子供を救う仕組みも必要。義務教育って「社会」にとって必要善と必要悪の両側面があるよな。
  • 「革命」と「少しずつよくなれ」 - hituziのブログじゃがー

    わたしは坂口安吾(さかぐち・あんご)の影響を かなり うけています。 安吾は、革命について、つぎのように のべています。 そのときも私が思ったのは、革命だの、国家永遠の繁栄のため、百年千年の計のため我々がギセイになる、そういうチョットきくと人ぎきのいい甘ッチョロイ考え方がナンセンス、又罪悪であり、人間はギセイになってはならぬ。自分一人好きこのんでギセイになるなら話は別だが、個人としての自我とは別に、社会人としての我々は誰のギセイになる必要もない。 人間は各人が各人の時代にだけしか生きられないものだから、その時代に於て最善の人生をつくったり享楽したり耐え忍んだりするべきもの、後世のためにまで自分がはからうオセッカイはいらないことだ。各時代が各時代の最善をつくし、誰もギセイにならずに、すこしずつ良くなる。そうしてバトンを渡す。 我々が千年万年、否、人間最後の理想社会などというものを設定し、今す

    「革命」と「少しずつよくなれ」 - hituziのブログじゃがー
    NOV1975
    NOV1975 2013/06/21
    でもそれは変えていく内容が「妥当だ」と考える人の正義の施行でしか無いんだけどね。「よく」が独善でないことを誰が証明してくれようか。/ちゃんと考えて戸籍が必要と思う人が納得するか的なね。
  • 「障がい」表記について。 - hituziのブログじゃがー

    去年、たくさんの ひとたちと共同論文を かいた。まだ査読まちなので、論文として掲載されるかどうか きまっていない。なので、共同で原稿を かいたというのが正確。そのとき、障害の表記を「障がい」にしたいという意見が複数でた。それについて反対意見もでた。わたしは、どっちでも いいと おもったし、そのように発言したけれど、「なぜ「障がい」にするのか、納得のいく説明をしてほしい、そうでなければ「障害」で」ということを あとで つけくわえた。 「障がい」にするなら するとして、気になることがある。たとえば、わたしは この数年、「図書館利用に障害のある人々へのサービス」というものを 紹介しつづけている。これは、障害者に対するサービスに限定されるものではない。図書館の利用に なんらかの困難がある場合、それは、図書館側が もうけてしまっている障害であり、それを解消する責任が 図書館には あるという視点に た

    「障がい」表記について。 - hituziのブログじゃがー
    NOV1975
    NOV1975 2013/01/15
    文脈というか向きによって同じ言葉でも意味合いは当然違ってくるよね。
  • 反原発を 分断する優生思想。 - hituziのブログじゃがー

    反原発運動の なかでの「優生思想」の問題が、以前から指摘されてきました。たとえば、2011年2月には つぎのような記事が問題になりました。 上関原発、強行工事!! - ゆいわのきほくのわ この記事には、たとえば つぎのような文章があります。 日の原発は、たくさん放射能が漏れています。ごまかして隠してますが、原発地帯の子供達は奇形児や白血病が多いのです。 みなさんの子どもが、原発地域で育った女の子と結婚したいと言ったらどうしますか? 年頃の女の子は、奇形児を産む可能性が高いから結婚できないのです。 このひとは、結婚差別を 批判することなく、むしろ利用し、そして「奇形」を さけるべきものと規定しています。上関(かみのせき)に原発をつくるなと主張するために、このような論理は必要なのでしょうか。むしろ、反原発運動に差別を とりこむことによって、運動を 分断することになるのでは ないでしょうか。

    反原発を 分断する優生思想。 - hituziのブログじゃがー
    NOV1975
    NOV1975 2012/03/07
    重要な指摘と思うけど論旨にはイマイチ納得できない。/原発問題による差別は障害の存在を差別しているのではなく、死の使者を忌避するものが中心だと思う。
  • 原発の立地(「事故が おきたら賠償が たいへんだから」)。 - hituziのブログじゃがー

    武田徹(たけだ・とおる)『「核」論―鉄腕アトムと原発事故のあいだ』中公文庫(追記:このは『私たちはこうして「原発大国」を選んだ―増補版「核」論』中公新書ラクレとして復刊されました。) いっきに よんだ。参考になった。印象的だった部分は たくさんある。たくさん ありすぎるので、あまり要約したくない。ぜひ よんでみてください。 「1947年論 電源三法交付金―過疎と過密と原発と」(130-152ページ) この章で、武田は1961年の「原子力損害賠償法」の成立について紹介している。この法律をつくるとき、参考にしたのがアメリカの「プライス・アンダーソン法」(原発事故による賠償方法をさだめる法律)だったという。 原発事故による被害が あまりにも ひどい場合には、国が賠償するという、そういう きまりですね。 武田は、1964年に原子力委員会が つくった「原子炉立地審査指針及びその適用に関する判断のめ

    原発の立地(「事故が おきたら賠償が たいへんだから」)。 - hituziのブログじゃがー
    NOV1975
    NOV1975 2011/04/14
    わざわざ、理由を一つに絞る必要がない。ここで書かれていることは理由の一つであるし、一方、他の理由に合理性がないわけではない。様々な要因があって、あそこに建っている。
  • 漢字の よみまちがいで ひとを ばかにする反動保守を ゆるさない。 - hituziのブログじゃがー

    何度か かいてきたので、ながい文章にはしない。 それが だれであろうと、漢字を よみまちがえたなどといって ばかにするのは、最悪だということ。日語社会を、さらに いごこちの わるいものにする行為だということ。 麻生(あそう)は 漢字が よめないなどと いっている ひとは、思想的に あそうに ちかづいている。わたしは、あそうと ともだちになりたいとは、ぜったいに おもわない。だからこそ、「漢字の知識」で あそうを 批判するつもりはない。この漢字至上主義の 社会を 特権的に いきてしまっているものとして、漢字という障害を 批判する。それこそが、「あそう的なもの」と おさらばする道だ。 わたしは あそうが きらいだ。けれども、漢字の知識で あそうを ばかにする ひとは信用しないし、ゆるさない。そういう人物が 「自分は社会問題を かんがえている」と おもっていられる日社会は、なるほど ひどいも

    漢字の よみまちがいで ひとを ばかにする反動保守を ゆるさない。 - hituziのブログじゃがー
    NOV1975
    NOV1975 2009/08/24
    麻生が漢字を読めなくて馬鹿にされるのは政治家としての教養の問題だからさ、それを漢字云々問題でこう語っちゃうと「みんなで教養のレベルを下げようぜ」と言っているとしか思えないよ
  • 多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー

    ヤマト人は にげる。「民族は つくられた概念で、実体は ない」と相対化する。おきなわ人に「ヤマト人」と よばれても、アイヌ人に「和人」と よばれても、そんな実感はないし、民族意識など もっていないと いえてしまう。 国家において、「民族」を 意識させられるのは、いつもマイノリティである。差別制度が、日常的な差別が、マイノリティに「民族」を 意識させるのだ。 それを 指摘し、多数派日人に「ヤマト人」や「和人」という名前を つけてみても、「名前のない多数派」は にげてしまう。「民族意識など、幻想にすぎず、そして わたしは「ナショナリズムに反対する」」のだと。そんな態度が良心的だと、なぜ おもえてしまうのか。 多数派は、名前を つける側である。そして、多数派は名前を もたない。多数派は、名前を つけられるのを いやがる。自分たちは、だれかにたいして、くりかえし やっていることなのにだ。 民族は

    多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー
    NOV1975
    NOV1975 2009/05/14
    いいたいことはわかるけど逃げると言われると能動的に悪いことをやっていると責めているように聞こえるから反射的な反発をくらうあまり良くない意見提出のやり方に思える。
  • 屠場(とじょう)労働者は、はたして笑顔で いられるのか。社会全体の問題だ。 - hituziのブログじゃがー

    いつも屠場(とじょう)労働者の みなさんが 笑顔で いられますように。 - hituziのブログじゃがー うえの記事は、たくさんの好意的な反応を いただきました。それは、はてなブックマーク - いつも屠場(とじょう)労働者の みなさんが 笑顔で いられますように。を みても、おわかりいただけるかと おもいます。 うえの記事のように、ストレートに表現すれば、屠場で しごとを している ひとを 差別するということが、いかに「天に つばを はく」行為(自分自身に はねかえってくること)であるか、わかっていただけるということでしょう。うえの文章に かいたとおり、「この社会で 肉を たべている たくさんの ひとたちがいる。そこにニーズがあり、屠場という空間が あ」るのですから。 さて。屠場労働者の笑顔のために、必要なことは なにか。リストに あげてみましょう。 屠場がタブーでなくなること。差別がなく

    屠場(とじょう)労働者は、はたして笑顔で いられるのか。社会全体の問題だ。 - hituziのブログじゃがー
    NOV1975
    NOV1975 2009/01/19
    いや、それ無理/誰でも営業を喜んでやらないのは営業を差別する社会であるからではない。/喜んでやることを妨げない社会にならなれるかな。
  • 肉を たべたいというのは、動物を ころしてでも たべたいということだ。 - hituziのブログじゃがー

    動物園や水族館で「いってはいけない」ことばがあるそうだ。それは、「おいしそう」だという。なぜそれが、いってはいけない ことばなのか、わたしには理解できない。 ここに単純な事実がある。肉を たべるということは、動物を ころすということだ。肉が たべたいということは、動物を ころしてでも たべたいということだ。ころしたくはないけど たべたいということは、それこそ「いってはいけない」わがままであるはずだ。動物を ころして たべる。それが、肉者の日常なのだ。 わたしも消極的にだが、肉を たべている。だから わたしは動物を ころしていることを わすれるつもりはない。動物の死体を 加工したものが 肉料理である。それを おもいだしたり想像するのが いやならば、肉を たべなければ いいことだ。平気で動物を ころすことができるから、肉を たべているのだ。平気で ころせないなら、なれるまで、平気で ころせる

    肉を たべたいというのは、動物を ころしてでも たべたいということだ。 - hituziのブログじゃがー
    NOV1975
    NOV1975 2009/01/18
    動物園ではおいしそうとは思わないけど、水族館では思うかも。普段姿かたちありで食べてるものはおいしく見える。その程度のことだし、魚喰いの日本人は大体わかっているはずだが。
  • コミュニケーションに正解は ありえない。だから、 - hituziのブログじゃがー

    自閉者と自分勝手なコミュニケーション - hituziのブログ 無料体験コース コミュニケーションに障害はありえない - hituziのブログ 無料体験コース 自分のコミュニケーションを観察する - hituziのブログ 無料体験コース 自閉症と主体性。 - hituziのブログじゃがー うえの記事の つづきを かきます。 ときに、「わたしは障害者と接したことが あんまりなくて、どんなふうに接したらいいのか わからない」という声を きくことが あります。たいせつなことだと感じると同時に、不思議な発想だとも感じます。 『認知症と診断されたあなたへ』医学書院 - hituziのブログじゃがー うえの記事で紹介した ことばに「人は病い一般を生きるわけではありません」というのが あります(『認知症と診断されたあなたへ』25ページ)。 これは、とっても たいせつな視点です。これは つまり、「一般的な

    コミュニケーションに正解は ありえない。だから、 - hituziのブログじゃがー
    NOV1975
    NOV1975 2009/01/03
    めんどくさいことを隠さないから隔離されるんじゃないの?/建前にも本音にも、弊害があって、それを折り合いつけようとするから苦しむんじゃないかな。
  • 気になる点を、なんでも ご批判ください。 - hituziのブログじゃがー

    ふと、2ちゃんねるに かきこんでみたのですが、「hituziのブログじゃがー」について、いろいろと意見、ご批判を いただきました。ああ、これは ふだんから気になっているのだけれども、つたえる機会が なかったという かたが、わたしのブログを よんでくださっている かたの なかにも たくさん おられるように感じました。 わたしは 自分が成長できるなら、どんな ご批判であっても、ありがたいことだと おもいます。いろいろな うけとめかたを しることは、世界観を ひろげるためにも必要なことだと おもっています。 というわけで、この記事のコメント欄に、「hituziのブログじゃがー」や わたし自身にたいする ご意見、ご批判を ご自由に おかきください。 ただ、たとえば「人生やめたら?」といったコメントは、わたしは傷つくことはありませんが、コメントされる ご自身の名誉を 傷つけるものだと おもいます。結

    気になる点を、なんでも ご批判ください。 - hituziのブログじゃがー
    NOV1975
    NOV1975 2008/12/31
    たぶんこういうのはうまく行かない。
  • ことばに おしゃれは いらない。 - hituziのブログじゃがー

    むずかしいことを、いかに わかりやすく論じるか。わかりにくいところを ごまかさないままに、きちんと つたえることができるか。これは、表現するものとして、おおきな課題であると おもっています。 むだに ことばを かざらず、必要で適切な ことばを えらぶ。 「べきだ」とか、「はずだ」というのは、できるかぎり ひかえる。そして、効果的に つかう。「とても」とか「きわめて」というのも、なるべく おさえる。そして、どうしても強調したいときに つかう。 わたしも そうかもしれません。むだに ことばを かざってみせる。むだに むずかしい ことばを つかう。つたわりにくく かいてしまう。 わたしの文章の問題点は、たいせつなところになると、あいまいで文学的な表現を つかって ごまかすというところです。それは、肝心な部分について きちんとした知識と見識を そなえていないからです。だから ごまかしてしまう。抽象

    ことばに おしゃれは いらない。 - hituziのブログじゃがー
    NOV1975
    NOV1975 2008/12/22
    いらない、ではなく、いるときもあればいらないこともある。/リーダビリティとひらがな書きはなかなか。使っていい能力を制限するわけだからね。誰にでも、にどこまで価値をおくか。
  • ひこくみん(「日本人をする」のを やめる)。 - hituziのブログじゃがー

    すばらしい記事が あります。 へー、こくさいじん? - やねごんの日記 はてなブックマーク - へー、こくさいじん?で、id:kmizusawaさんと やねごんさん(id:lever_building)の やりとりについて、かんじたことを かきます。 kmizusawa 「政府の見解はこうだ」「法律でこう決まっている」だけで物事が解決すると思ってる人っているよなあ。/国家国境無関係の思想は理想だが、ある国家の一員として加担の責任を問われることもあるよね。 lever_building id:kmizusawaさん。まったく そのとおりだと おもいます。理想は ともかくとして、現状では わたしが「国家の一員」としての 資格と 責任を もっていることは たしかですから。エントリと うまく 整合性が 保てませんが。 げんじつとして、わたしが「国家の一員」であるということは けしさることが できな

    ひこくみん(「日本人をする」のを やめる)。 - hituziのブログじゃがー
    NOV1975
    NOV1975 2008/08/24
    「日本を悪く言うな!」は、わかるんだよな。島国的思考の枠組みでは、民族も文化も国家も同じ言葉で表わして時に概念も混同するから、日本、といったときにそれが含むホンの一部を抽出しているだけなんだよな。
  • マイノリティについて - hituziのブログじゃがー

    「ひとの数だけ可能性がある。」では、前半と後半で ちがうはなしをかいた。 前半では、人間のありかたを認識するさいに、ふたとおりのアプローチがあることを論じた。 ひとつには、「ふつう」な人間なるものを設定し、その「ふつう」という概念から はずれた「当たり前でないこと」を、どのように うけとめるかという問題設定 もうひとつは、「これも それも あたりまえである」というアプローチ この、「これも それも あたりまえである」というのは なにも、ただたんに多様性を指摘するだけで満足するつもりで かいているのではない。「人間の価値観や行動様式、すがた かたちは、ものすごく多種多様」であることを きちんと把握するなら、社会があまりに排他的に設計されていることに気づかされる。そして、そこで「「配慮の平等」という視点」にたって、社会を変革する必要性を認識し、具体的に社会をかえていこうと主張しているのだ。 は

    マイノリティについて - hituziのブログじゃがー
    NOV1975
    NOV1975 2008/07/26
    わかんない人にはわかんない、ってこと?/意味がないと思う、というのは意味があると思う、という人には通じないんじゃないかなあ。もちろん、それでよしならよしとして。
  • ひとの数だけ可能性がある。 - hituziのブログじゃがー

    人間として、あたりまえのこと(アセクシュアルについて)。 - hituziのブログじゃがー うえの記事にたいして、興味ぶかいコメントをいただきました(はてなブックマーク - 人間として、あたりまえのこと(アセクシュアルについて)。 - hituziのブログじゃがー)。 2008年07月24日 id:kanimaster [sex] 「あたりまえのこと」ではないと思うんですよ。当たり前でないことを人間同士が、また社会がどう受け止めていくかが問題なのだと思います。別のマイノリティの一人として。人間のありかたを認識するさいに、ふたとおりのアプローチがあるでしょう。 ひとつは、「ふつう」というものを設定するアプローチです。「ふつう」な人間なるものを設定し、その「ふつう」という概念から はずれた「当たり前でないこと」を、どのように うけとめるかという問題設定です。これも、社会のシステムを検討するうえ

    ひとの数だけ可能性がある。 - hituziのブログじゃがー
    NOV1975
    NOV1975 2008/07/25
    とはいえ、統計的認識としての「当たり前」なことがあって、それを無視して「マイノリティーじゃない!一人一人がばらばらなんだ!」って言ってもマジョリティに安住している人はわかんないと思うけど。
  • おそまつな選択肢(在日か、日本人か)。 - hituziのブログじゃがー

    「3世なの? それなら もう日人じゃん」。 ちょっと まってほしい。よくもまあ、あちこちで たくさんの「日人」が そういうことを おっしゃるけれども。 なんで、在日か、日人かの二者択一なんだよ。なに、その おそまつな選択肢。 だいたいが、在日って、いつまで そういう表現を つかいつづけるのよ。在日って、一時的な滞在をイメージさせるじゃないか。 「ざいにち(在日)」と いわなくても、「日に定住した朝鮮人」であるとか、「朝鮮系」であるとか、「朝鮮系日人」と表現できる。 日系ブラジル人という表現には、ほんとうに よく したしんでいるのに、朝鮮系日人という表現には接したことがないひとが、ほとんどじゃないだろうか。 「日人になる」、あるいは「日国籍をとる」なら 自分のなかの「日とは異質なもの」は すべて そぎおとすべきだという風潮が あきらかに感じられる状況のなかで、どうして、「そ

    おそまつな選択肢(在日か、日本人か)。 - hituziのブログじゃがー
    NOV1975
    NOV1975 2008/07/22
    「日系ブラジル人」はブラジル国籍。定義の問題じゃないのかなあ。「それならもう日本人じゃん」というのは一緒に日本で暮らす者としての仲間意識とも取れるし。良くとれば良く聞こえるし、悪く取れば悪く聞こえる
  • よみやすさって、なんだろう - hituziのブログじゃがー

    漢字の すくない日語の文章を かいていると、すぐに よみにくいという反応が かえってきます。はたして、よみやすいって どういうことだろう。きょうのテーマは、「よみやすさ」です。 日語学/日教育の研究者であるシュテファン・カイザーさんの「日語と漢字・日人と漢字 : 日語の表記と国内外における捉え方について」という講演が あります。これが、とても よく まとまっています。まず、これを よんでみてください。PDFで公開されています。 あるいは、つぎの文章が とても参考になります。 山口 光(やまぐち・ひかる)1987 「表意文字と表音文字」『日語学』8月号 山田尚勇(やまだ・ひさお) 1987 「文字体系と思考形態」『日語学』8月号、43-64 山田尚勇 1990 「文字の型と読みの速さ」『日語学』11月号、4-29 マーシャル・アンガー「漢字とアルファベットの読み書き能力」

    よみやすさって、なんだろう - hituziのブログじゃがー
    NOV1975
    NOV1975 2008/07/08
    ひらがなで書かれた同音異義語は元の漢字を想起できて初めてスムーズに認識できている可能性はないかな?単語を整理しないとかえって混乱することはありそう。
  • 『あなたへの社会構成主義』 - hituziのブログじゃがー

    社会心理学者の長谷川 芳典(はせがわ・よしのり)さんがじぶん更新日記で、ケネス・ガーゲンの『あなたへの社会構成主義』(ナカニシア出版)での解説を 要約されているので紹介しておきます。 社会構成主義は、「何が存在するのか」「何が事実か」を決めてしまおうとしているのではないのです。何かは、単にそこにあります。ところが、何があるのか、何が客観的な事実なのかを明確に述べようとし始めた瞬間、私たちはある言説の世界、したがってある伝統、生き方、価値観へと入りこんでいきます。 「目の前に」現実の世界があるかないかを問うことでさえ、心(頭)の内側にある主観的な世界と外側のどこかにある客観的な世界を分けようとする、二元論という西洋の伝統的な形而上学を前提としているのです。 「事実」についてのある説明を固く信じている時、私たちは、他の可能性に対して自らを閉ざしてしまっています。この意味で、私たちにとって最も明

    『あなたへの社会構成主義』 - hituziのブログじゃがー
    NOV1975
    NOV1975 2008/06/24
    なんとなくわかった。シンプルなだけにちょっと難しいのかな。もうちょっと考えてみる。
  • まきこむ - hituziのブログじゃがー

    おもわず紹介したくなる すばらしい記事が ふたつあります。 右翼の女教師さんの「あのー、すいません、普通に「死に神」だと思うんですが...」と、 zarudoraさんの「命名、妖怪「どっちもどっち」」です。 女教師さんは、「「現行法を側面支持」してる人はみんな「死に神」代行です。すごく残念ですけど。」「言い換えると、一億3千万人全員が「死に神」代行です。」という議論を している。つぎの主張は、森巣博(もりす・ひろし)さんの死刑廃止論を おもいださせる。 裁判員制度なんかで国民の司法参加が促進されているけれど、死刑執行員制度なんかもつくったらいいと思う。そうしたらみんなが平等に「死に神」代行を負担していることが実感できて、とてもいいと思う。森巣さんは、「死刑廃止に向けたメッセージ」(アムネスティ)で 一回の死刑執行につき、100人くらいを選挙人名簿から無差別に抽出して、死刑執行官とする。 も

    まきこむ - hituziのブログじゃがー
    NOV1975
    NOV1975 2008/06/23
    今の社会を多少なりとも肯定している人にとっては闘争は(表面的かもしれないとしても)敵対的行為だから、そういう闘争押し付け戦法が戦略的に有効かというと…。/もっと社会全体が激しい不満をもってないとね
  • 相対主義について - hituziのブログじゃがー

    わたしは、相対主義が有効なときと、そうでないときが あるように おもう。 言語相対主義や文化相対主義という理念は、それが理念であることが重要です。つまり、ある言語や文化だけが重視されている現状があり、それにたいする対抗理念として、言語や文化に優劣は存在しないと主張しているのです。この理念を あたまから否定することは、むずかしいのでは ないでしょうか。 ただ、言語や文化に優劣は存在せず、どれもが ひとしく価値を もつならば、「なんでもあり」になってしまいます。つまり、暴力的な言語や文化さえ肯定してしまうのか?という疑問を さそいこむのです。 ここには、ある誤解が あります。文化相対主義が、ある文化と ある文化のあいだで相互批判したり議論するのを 禁止しているかのように みなしているからです。 ある文化が ある文化を 支配し、おさえこんでは なりません。けれども、批判したり、議論したりするのは

    相対主義について - hituziのブログじゃがー
    NOV1975
    NOV1975 2008/06/23
    主意はわかるんだけど、例えばその「セクハラ」という価値観はどこから持ち込まれたのだろうかとか考えちゃうなあ。ある価値観をもって批判をすることを一方的に是とするのは相対主義?それとも?
  • 1