タグ

ブックマーク / brighthelmer.hatenablog.com (5)

  • ネット上で社会学者の評判はなぜ悪いのか - 擬似環境の向こう側

    こんなタイトルのエントリを書くというのは、正直、悩ましい。 というのも、ぼくは社会学の正規教育は受けておらず、自分が社会学者だとはちょっと名乗れないからだ(制度的な理由で学位は「法学」だ)。 とはいえ、社会学部に勤務しているのは確かだし、社会学的なものに親しみもある。以下の文章は、あくまでそういう中途半端な立ち位置から書かれた「個人の感想」だということをまずは述べておきたい。 ネット上での社会学の評判はよくない。大変によくない。 実のところ、ネット上で積極的に発言をしている社会学者の数はさほど多くないと思うのだが、通常は社会学者だとはカテゴライズされない人も、「政治社会に関する発言をしており、かつ多くの人びとから反発を買っている人文社会系の学者」は「社会学者」とみなされてしまうことが結構ある。 それではなぜ、ネット上で社会学者はこんなにも嫌われるのだろうか。 社会学者が嫌いな人からは当然、

    ネット上で社会学者の評判はなぜ悪いのか - 擬似環境の向こう側
    NOV1975
    NOV1975 2020/02/25
    もう少し専門に特化して専門家であることを強調できれば良いのだろうけどね。
  • ぼくの良識 - 擬似環境の向こう側

    自分で言うのも何なのだが、ネット上でのぼくはわりと良識的なのではないかと思う。 ツイッターやブログでも攻撃的だったり差別的だったりすることはなるべく書かないようにしているし、ぼくが書いたものを読んで傷つく人がいなければいいなとも思っている。もちろん、書いているものが下らない、内容がない、間違っている等々の批判はあるとは思っているが、それとこれとは別の話だ。 そんな良識的なぼくのことだ、ツイッターでフォローしている人たちも良識的な人たちばかりだ。政治的な書き込みは多いけれど、人を差別したり中傷したりする人はいない。ただ最近は、ぼくがフォローしている人のあいだでいざこざが多いのが気になると言えば気になる。 そんなぼくのタイムラインをさいきん賑わせているのが、「反差別や平和を掲げているのに差別的だったり、攻撃的だったりする人」に関する話題だ。ぼくも以前のエントリで、そういう人たちを批判したことが

    ぼくの良識 - 擬似環境の向こう側
    NOV1975
    NOV1975 2015/11/27
    僕がいわゆる「運動」にコミットしないのは結局のところ原理的な思想というのは大概が排他の論理であり、運動が先鋭化するとほぼ原理的なところに行き着いちゃう未来が見えちゃうから…
  • リベラルのことばが届かない - 擬似環境の向こう側

    ネット上では「サヨク」や「リベラル」を嘲笑し、罵倒する言葉に溢れている。 そもそも、誰が「サヨク」で誰が「リベラル」なのか、いまいちはっきりしないのだが、たとえば『朝日新聞』でよく見るような意見の持ち主を指すと考えていいんじゃないかと思う。護憲、歴史修正主義に反対、国際的融和の重視、反ナショナリズムといった主張がそれにあたる。他方で、格差や貧困の是正や社会保障の拡充などは典型的な左翼的主張だとも言えるが、この点についてはそれほど批判されない。 いずれにせよ、ここではそうしたリベラルの「ことば」が届かないという事態について考えてみたい。まず、12月25日の『朝日新聞』に掲載された星野智幸さんの論説を一部紹介しておこう。 それにしても、不思議に思う。あれほど政治や社会を熱く語ることを毛嫌いし、冷淡だった人たちが、今にしてなぜ、こうもナショナリズムに入れ込んでしまうのか。(中略) ナショナリズム

    リベラルのことばが届かない - 擬似環境の向こう側
    NOV1975
    NOV1975 2013/12/26
    リベラルってラベル貼って語られるリベラルってのがどうもリベラル全体を代表しているように見えないんだよねいつも。
  • 炎上と監視社会 - 擬似環境の向こう側

    9月になり、多くの学校では夏休みが終わった。 この夏を振り返ると、なんというかブログの炎上が多かった。学生が学校に戻り、下らない写真をアップする暇もなくなれば炎上も減っていくかもしれない。 それは措くとして、すでに数多く指摘されているように、これらの騒動は二つの観点から考えることができる。一つは「バカが増えた」という見方。そしてもう一つは「バカが可視化された」という見方だ。この二つの見方は必ずしも矛盾するものではないが、結果としては対立することが少なくない。 対立する理由の一つは、対処法が変わってくるからだ。前者の観点からすれば、バカがこれ以上増加するのをい止めるためには制裁が必要だということになる。バカを見つけたら、みんなで痛めつけて模倣者が出ないようにすることが重要だというわけだ。 他方、後者の観点からすれば、制裁というよりも寛容さが必要だという結論になりがちだ。昔も今も、これからも

    炎上と監視社会 - 擬似環境の向こう側
    NOV1975
    NOV1975 2013/09/04
    監視社会ってのはある枠の中であればなんら不適切でない行為も暴くような社会じゃないとちょっと言いたくない言葉。TPOをわきまえないことを監視社会ってのはなあ。
  • 「若者バッシング批判」の陥穽 - 擬似環境の向こう側

    大学時代の同期と一緒に飲んだりすると、そろそろ「あれ」を聞くようになってきた。そう、若手社員に対する愚痴だ。 「近頃の若いやつには働くという意識が乏しいんじゃないか?」とかいう話を聞くと、「ああ、ぼくも歳を取ったんだなぁ」などとつくづく思う。太古の昔から、若者に関する愚痴は年寄りの特権である。 まあ、そういった愚痴が居酒屋談義で終わるのなら、さしたる害はない。しかし、それが政策へと反映されてしまうともはや笑い話では済まない。学力が低下している、命の重さを知らない、ゲームに毒されている、携帯電話のせいで人間関係が希薄化している等々の根拠があまりはっきりしない主張に基づいて政策が実施されたり、法律が変えられてしまったりすることがありうるのだ。 とりわけ、高齢化が進むとその手の主張は受けが良くなりがちだ。若者に苦々しい思いを抱いている高齢者は少なくない。そのため、たとえ実態からは著しく乖離した方

    「若者バッシング批判」の陥穽 - 擬似環境の向こう側
    NOV1975
    NOV1975 2013/07/05
    若者への批判への批判を批判するのはいいけど、そもそもの若者批判自体が分析的でないから社会的に何の意味もない行為になっているという問題はないかな
  • 1