2013年4月8日のブックマーク (26件)

  • 東南アジア史(11世紀~18世紀の東南アジア史概論) - 歴史研究所

    さて、前回までは主に古代~東南アジアで出来た初期の王朝についてみていきました。今回は、11世紀から。すなわち、この頃より、東南アジアの全域で王朝が建国されていきます。まずは、概論。 ヴェトナム地域では、李朝(1009~1225年)が成立。この李朝は、国号を「大越」と称します。しかし、この李朝は伝統的なヴェトナムの豪族の勢いが強かったこと、それから農民に多大なる税をかけたうえ自然災害も発生。さらに宮廷内部の争いも起き、混乱の中、外戚の陳(チャン)一族によって廃されます。 そして、成立した陳朝(1225~1400年)。こちらは、中央集権化を進めていきます。そして、中国にならい行政制度や完了任用制度である科挙を整えていきます。また、3度にはわたりモンゴル人が中国にたてた元(1271~1368年)の侵攻を受けますが、これを撃退。 ところが、陳朝も大きく力を失います。そして、やはり農民に多大なる税負

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    Neji800 2013/04/08
  • 東南アジア史(第3回 インドネシアの初期国家) - 歴史研究所

    東南アジアの歴史って当によく解らないことばかり。参考文献によって言っていることがまちまちだったりします。ですから、ここでも、あれ、おかしいなという部分が掲載されています。例えば、アンコール朝の成立時期とか。さて、今回ご紹介する2つの王朝(シャイレーンドラ朝、シュリーヴィジャヤ王国)は、当によく解っていません。実は、同じなのかそうでもないかすら解らないのですから。 インドネシアの諸島では、マラッカ海峡が交易ルートとして使用されるにつれ、バリ島などで小王国らしきものが誕生していたようです。 そんな中、最初に強勢を誇ったのが、7世紀にジャワ島を中心に登場したシャイレーンドラ朝です。もちろん、制海権を握ることで交易で栄えた王朝です。仏教が非常に盛んで、唐のお坊さんである義浄(635~713年)は、インドに行く途中、また帰るとき両方に長く滞在し、南海寄帰内法伝などを執筆しています。彼は、ここは数

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    Neji800 2013/04/08
  • 東南アジア史(第2回 古代~約10世紀の大陸部諸国家(3)クメール王国・アンコール朝) - 歴史研究所

    一方、チャンパーの建国とほぼ同時期の2世紀、メコン川下流域に成立したのが、カンボジア(クメール)人による扶南という国です。扶南は伝説ではインドからカウンディンニヤという神から力を授かった偉い人が建国したとなっています。彼はこの土地の女王と結婚して即位したとのこと。この類の建国神話は東南アジアではよくあるそうです。しかし、インド人が支配階級になった痕跡はありません。建国神話を生み出す元になったのは積極的に受け入れられたインド文化のようです。交易を通じて伝えられたと考えられています。 さて、扶南もまた交易国家でした。その中の都市、オケオの遺跡からは、漢の鏡、インドの仏像に、遙かローマ帝国の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの金貨まで発掘されています。 中国の南斉の歴史書である「南斉書」では、住民は金や銀で交易をし、また金の指輪や銀器を作っていると述べています。どうやら、かなり裕福な国だ

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    Neji800 2013/04/08
  • 東南アジア史(第2回 古代~約10世紀の大陸部諸国家) - 歴史研究所

    純粋な意味で東南アジアの人達による国家としては、記録に残っている限りではヴェトナム中部・南部で起こったチャム人によるチャンパーです。チャム人は新石器時代よりこの地に居住していたといわれています。 このチャンパー、中国の資料には、時代によって「林邑」「占城」「環王」と名前を変えて登場ています。どうやら、チャンパーという国は連合国家のような感じだったようです。その時に最も勢いにあった勢力が実権を握っていたと解釈されています。 ともあれ、紀元後の192年に、林邑の土着の区長である区連という人物が、この地を征服していた漢(後漢)の日南郡に対して蜂起したことがこの国の起こりです。その頃漢は、宦官と官僚の争いなど国内が混乱していて(このあと間もなく滅亡する)、自国の南まで手が回りませんでした。そのため、区連は現在のトンキンあたりまで侵攻します。 また、3~4世紀頃に仏教やレンガ建築を初めとするインド文

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    Neji800 2013/04/08
  • 東南アジア史(第2回 古代~約10世紀の大陸部諸国家(1)北ヴェトナム) - 歴史研究所

    紀元前190万年頃、東南アジアに人が居住したと言われています。ジャワ原人などがその代表でしょうか。そして、紀元前1万年頃に全域で打製石器を使った「ホアビン文化」が発生。そして、紀元前4000年頃に土器が作られはじめ(「タブート文化」)、紀元前2000年頃より水稲耕作が、それに続くように青銅器製作が開始されます。また、紀元前4世紀頃からヴェトナム地域を中心に、独特な青銅器や動物像のついた短剣などが特徴的な「ドンソン文化」が登場しました。 さて、中国では紀元後に近づくにつれ国家が登場してきますが、紀元前の古代の東南アジアは、いわば首長を中心とするムラ社会が多数ある状態で、なかなか国家と呼べるものが出ては来ていません。 で、今回は10世紀までに出来た王朝を中心に見ていきましょう。 最も最初に登場したのは北ヴェトナムの南越という国です。越はヴェトとよびます。ただし、この国は、始皇帝で有名な秦の地方

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    Neji800 2013/04/08
  • 東南アジア史(はじめに・東南アジアの初期国家概論) - 歴史研究所

    ここで扱う東南アジアという地域は「ベトナム、ラオス、カンボジア、フィリピン、カンボジア、タイ、ミャンマー(ビルマ)、ブルネイ、タイ、マレーシア、シンガポール」です。今のASEANと同じ区分です。 この東南アジアという地域は、今では単純に一括りされますが、歴史的、文化的に見ればヴェトナムなど東方を中心とする中国文化の影響圏と、ミャンマーなど西部を中心とする、インド文化の影響圏に別れ、さらに宗教から見ると大陸部の仏教圏、インドネシア周辺島々のイスラム圏(元々は仏教圏。またフィリピンでは後にカトリック圏になる)に分類することが出来ます。そして、東南アジアを構成する民族。歴史的、言語的観点からは、大きく次の3つにわけられます。 1つが、東南アジアに最も古くから住んでいる民族、モン・クメール語族です。 これは、今のヴェトナムやカンボジアの原住民、モン族が代表です。 2つめが、紀元前2000年頃より中

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    Neji800 2013/04/08
  • 他動詞と自動詞の一番いい見分け方!最終結論

    語の自動詞と他動詞って暗記してますか? してないですよね? 世の中の過半数が「まず先に文法ありき」と勘違いしてるんですが、 「文法」というのは、出来ちゃった結婚とか、新しい制度・法律の制定と同じことで、 まず既成事実があって、それに後から理屈を付け加えてるだけなんですよ。 ・コマを回す → あ、そーか。「を」は他動詞の前に付くんだな ということは、「を」の後ろは他動詞だ。 ・コマが回る → あ、そーか。「が」は自動詞の前に付くんだな ということは、「が」の後ろは自動詞だ。 ふむふむ。 私が、かつて、北米からの留学生数人と友人関係にあった頃がありまして、ある日の、彼らとの会話。 私「日では、SVOとかSVOCとかいうふうに英語を教えるんだよ」 留学生「なんじゃそりゃ?」(=意訳です) 私「SはSubjectで、VはVerbで・・・」 留学生「ははーん、それか。ところで、Cって何?」 私

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    Neji800 2013/04/08
  • アメリカ合衆国現代史(第13回 不倫疑惑も好景気に助かる~クリントン政権~) - 歴史研究所

    第13回 不倫疑惑も好景気に助かる~クリントン政権~ 初の戦後生まれの大統領 通称ビル・クリントン、正しくはウィリアム・ジェファソン・クリントン(1946年~ ) 彼が大統領になれたというのは、極めて異例のことでした。 と言うのも、大統領選の前に、各党は予備選挙というのを行うのですが、この頃はブッシュ大統領の支持率が異常に高く、対する民主党の有力者は、「どうせ負けるんだからでたくない」として、そもそも民主党候補になろうとすらしませんでした。 そこで、殆ど無名に近い、若きアーカンソー州知事のクリントンが民主党候補として擁立。いざ、大統領選が始まる前になって、ブッシュの人気は急落し、クリントンが大統領の座を射止めたのです。また、クリントンは第2次世界大戦後に生まれた、いわゆる「ベビー・ブーマー」世代の初の大統領。ヴェトナム戦争兵役は忌避しています。 さて、この政権はカーター大統領のスタッフが多

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    Neji800 2013/04/08
  • アメリカ合衆国現代史(第12回 パパ・ブッシュと湾岸戦争) - 歴史研究所

    第12回 パパ・ブッシュと湾岸戦争 外交経験豊富な大統領 やれやれ、やっとここまで来ましたよ。 何を隠そう、下書き段階では最初から3日で書いているので、もうヘトヘトです。 さて、今のブッシュJr.大統領のお父様である、ジョージ・ブッシュの時代を見ましょう。1988年に大統領に就任します。 彼は、既に国連大使、中国駐在連絡事務所長、CIA長官、レーガン政権では副大統領と、実に多彩な外交経験を持つ人物で、今のブッシュとはえらい違い。また、ご存じのように、この時期、東欧の民主化に、ソ連が崩壊していきますから、不安定な国際情勢の中、実に適切な人物であったと思います。 そして彼のスタッフ。今でもお馴染みの顔ばかりです。 国務長官にべーカー、国家安全保障問題担当大統領補佐官スコウクロフト氏のスタッフに、C.ライス女史、国防長官がチェイニー、統合参謀部議長がパウエル、国防次官にウォルフォウィッツ。う~

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    Neji800 2013/04/08
  • アメリカ合衆国現代史(第11回 レーガン大統領とスターウォーズ計画) - 歴史研究所

    第11回 レーガン大統領とスターウォーズ計画 対ソ連強硬主義者、また登場? さ~て、その次の大統領が共和党のロナルド・レーガン(1911年~2004年)です。 彼は1980年、何と69歳という大統領史上最高齢で当選します。 この人物、イリノイ州タンピコの屋の次男として生まれ、ラジオアナウンサーからハリウッドの俳優、さらに1966年にはカリフォルニア州知事になったんですね。まさに立身出世といったところでしょうか。ちなみに最初は民主党員でしたが、1962年より共和党に入党しています。カリフォルニアでは民主党が多数を占める議会に苦労したとか。 そして彼の口調は人気が高く、何かと失言、お騒がせをするのですが、この語り口で乗り切ります。また、彼のスタッフの中には今、ネオコン(新保守主義者)として知られるR.パールや、大統領補佐官に一番最後に就任したパウエル将軍がいます。 さてさて、彼は社会福祉政策

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    Neji800 2013/04/08
  • アメリカ合衆国現代史(第10回 デタント外交とニクソン、カーター) - 歴史研究所

    第10回 デタント外交とニクソン、カーター ニクソン、大統領に当選する 話はまだ、ヴェトナム戦争が泥沼だった時代に戻ります。 1968年3月、ジョンソン大統領は次期大統領選への不出馬を表明。4月に黒人解放運動の指導者で非暴力の立場を貫いたキング牧師が暗殺、さらに6月にはJ.F.ケネディの弟、ロバート・ケネディ司法長官が暗殺されるといった、暗い影が政治に差していました。 次の大統領はリチャード・ニクソン(1913~94年)です。アイゼンハワー政権で副大統領を務め、マッカーシーと赤狩りを行ったほか、ソ連のフルシチョフとカラーTVに出演するなど活躍したものの、ケネディとTV討論でのイメージ戦略競争に敗北して、その時の大統領選で負け、一時は政界を引退して弁護士になっていただけに、奇跡の復活と言えるでしょう。で、彼のヴェトナム戦争政策については前に見たとおりですので、ここは他のことをお話しします。

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    Neji800 2013/04/08
  • アメリカ合衆国現代史(第9回 ヴェトナム戦争と歴代政権の対応) - 歴史研究所

    第9回 ヴェトナム戦争と歴代政権の対応 アメリカに衝撃を与えたヴェトナム 第2次世界大戦は、アメリカにとって輝かしい、自由と民主主義を守る戦争として記憶されました。 ですから、原爆投下の是非を問おうものなら、相当な反発をいただきます。ですが、今から述べるヴェトナム戦争。これは、アメリカ史上例を見ない、泥沼化した、出来れば忘れたい(けど亡くなった人のことは記憶したい)、そして戦術面に於いては今でも「ヴェトナムの二の轍を踏むな」、そして何かとヴェトナムに従軍した経験が社会的な立場で問われるなど、退役軍人会共々、大きな影響を与え続けています。大統領選挙でもよく聞きますね。 第1次インドシナ戦争 第2次世界大戦後、日がヴェトナムから去った後、この地域は北がホー・チ・ミンによる北ヴェトナム、南が、元々インドシナ半島を植民地として支配したフランスが擁立した、バオ・ダイ皇帝(グエン<阮>朝最後の皇帝)

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    Neji800 2013/04/08
  • アメリカ合衆国現代史(第8回 ケネディ~その実像と虚像~) - 歴史研究所

    第8回 ケネディ~その実像と虚像~ 今でも人気のケネディだが 70歳という高齢で引退したアイゼンハワーに対して、民主党のジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(通称、J.F.K)は大統領就任時には43歳という、大統領史上最年少を記録。その若々しさは多くの人を魅了し、またこの時代のアメリカは比較的豊かで、さらにケネディは暗殺されるという悲劇的な最期を遂げたため、現在でも、歴代大統領の中で一番人気となっています。 さて、ちょっと大統領選挙から見ていきましょうか。 いよいよ、TVというマス・メディアがお茶の間に普及したのが特徴。 そこでケネディは、TVを前にした討論会で、共和党候補のニクソンよりも清新なイメージを与え、人々の人気を集めます(でも、ラジオで聴いた人は、ニクソンの方が弁論が上手かったと一般に言っています)。そんなわけで、TVというマスメディアを巧みに使った初めてのアメリカ大統領といえる

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    Neji800 2013/04/08
  • アメリカ合衆国現代史(第7回 アイゼンハワー政権とダレス外交) - 歴史研究所

    第7回 アイゼンハワー政権とダレス外交 ○アイゼンハワーの登場 トルーマンの後、1952年に、圧倒的な得票率を得て大統領に当選したのが共和党のドワイト・アイゼンハワー(1890~1969年)。20年ぶりの共和党の大統領です。 彼は第2次世界大戦の時、連合国軍最高司令官、つまり連合国トップの将軍として活躍し、ノルマンディー上陸作戦の監督も彼が行いました。48年に退役した後、何とコロンビア大学の総長に就任し、さらにNATOの軍最高司令官にもなるなど、何とも忙しい人物です。 そんな彼は、アイクというニックネームと共に国民から絶大な人気が。 内政面では、穏健な政策をとり、強力な政府主導の政治を目指したルーズヴェルト、トルーマンとは対照的に、地方分権を支持。またキング牧師率いる黒人解放運動にも理解を示し、黒人が公立高校に入学するのを嫌って、白人生徒が暴動を起こした時には軍を派遣して鎮圧しています。こ

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    Neji800 2013/04/08
  • アメリカ合衆国現代史(第6回 トルーマン政権の対ソ戦略) - 歴史研究所

    第6回 トルーマン政権の対ソ戦略 冷戦とは何だったのか? 第2次世界大戦後、アメリカ合衆国を中心とする西側陣営と、ソヴィエト連邦を中心とする東側陣営が、直接に戦争はしない物の、お互いに核兵器を持って、緊張関係にあったことは、ご存じではないかと思います。知らなくても、今から説明していきますが。 このアメリカとソ連は、全く異なる理念、教義、イデオロギーをベースに対立するという、歴史上、ちょっと変わった対立をします。伝統的な戦争・対立では、別に相手の政治形態は問わず、要は領土を獲得したり、金銭を確保するために戦うのですが、この2つの超大国は、世界の国々をどっちの思想で染めるか、その縄張り争いをせっせと行いました。では、そんな冷戦の起源から見てきます。 冷戦~その起源~ 戦後、ソ連はポーランドを始めとする東ヨーロッパの社会主義化を積極的に実施し、アメリカの激怒を買います。しかし、ソ連にしてみれば、

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    Neji800 2013/04/08
  • アメリカ合衆国現代史(第5回 第2次世界大戦とアメリカ) - 歴史研究所

    第5回 第2次世界大戦とアメリカ 第2次世界大戦の勃発 もう半世紀以上も前のことになってしまいましたが、未だに何かと尾を引いている第2次世界大戦。 61ヶ国が参戦し、総計で約1億1000万人が軍隊に動員され、戦場へ出なかった人も戦争遂行のための物資を製造するために駆り出され、空襲にあう総力戦で、さらにユダヤ人や中国人が虐殺されたり、慰安婦の問題、強制連行、終結後に発生する難民問題など、様々な暗い陰を残しました。 何でこの戦争が起こったのか。簡単に述べることは極めて難しいです。不幸が積み重なったとしか言いようがありません。 ただ、ヴェルサイユ体制というのが基的にイギリス・フランスに有利な物であり、ドイツには厳しく、日・イタリアは甘い汁が吸えなかったために不満がたまっていたというのがあります。しかしそれでも、日では大正デモクラシーの時代、ドイツ経済は復興し、国際協調が叫ばれ、不戦条約(1

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    Neji800 2013/04/08
  • アメリカ合衆国現代史(第4回 フォードとGM~自動車生産から見る経営学) - 歴史研究所

    第4回 フォードとGM~自動車生産から見る経営学 ここで一息 主にこのコーナーでは、アメリカの大統領とその政策を中心に見ているわけですが、それだけがアメリカ歴史ではありません。ちょっとここで大統領の話は休憩にして、今回はアメリカの代名詞とも言える「自動車」の生産について見ていくとしましょう。経営学の領域では、必ず触れられる、フォードとゼネラル・モーターズ(GM)の攻防です。 自動車の起源は? が、題に入る前に、そもそも自動車って、いつ頃登場したのでしょうか。 自動車=英語でautomobileという言葉は、ギリシャ語で「自身の」を意味するautosと、ラテン語で「うごかせる」を意味するmobilisが起源だと言われています。 今につながる自動車の起源ですが、1769年にフランス人のキュニョーが蒸気の力で動く車を製作したのが最初(上写真模型)。ちなみに日では、田沼意次が格的な活躍を開

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    Neji800 2013/04/08
  • アメリカ合衆国現代史(第3回 大恐慌の時代) - 歴史研究所

    第3回 大恐慌の時代 大戦後のつかの間の繁栄 ヨーロッパは戦争によって荒廃したものの、アメリカの被害は殆ど無く、日もそうでしたが、アメリカ戦争によって物資の重要な供給地となって多大なる利益を上げました。日と対照的だったのは、日はこの特需が一過性のものに終わり、反動で不景気になりましたが、アメリカは引き続き繁栄を続けたことです。 そしてアメリカは、国際連盟には加盟しなかったものの、外交面でも世界をリードし、21~22年には「ワシントン軍縮会議」を開き、軍縮を主導。軍艦を各国が建造競争をしないように、保有比率をアメリカ:イギリス:日:フランス:イタリア=5:5:3:1.67:1.67と定めました。これらを定めた体制をワシントン体制、と言います。 一方で国内では色々問題も。 折角ワシントン体制を主導した共和党ハーディング大統領は、なんと任期途中の1923年に突然死去。すると、彼が任命し

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    Neji800 2013/04/08
  • アメリカ合衆国現代史(第2回 ヴェルサイユ体制と国際連盟加盟問題) - 歴史研究所

    第2回 ヴェルサイユ体制と国際連盟加盟問題 戦後処理 さて、戦争が終結すると、当然戦後処理問題が出ます。 この戦後処理で重要なのは、とにかく社会主義革命を広げないために、速やかに世界秩序を安定させることと、ドイツ等の敗戦国をどう取り扱うか。イギリスの立場というのがイマイチ微妙なのですが、とにかくフランスは「ドイツを徹底的に叩きつぶし、賠償金も確保したい(じゃないと、アメリカに借金が返せない)」と言う考えを、ウィルソンのアメリカは「ドイツなど敗戦国には寛大な措置を。ただし、帝政は絶対に認めず、そして民族は自立するべきだ」という考えを提唱し、対立します。 1919年1月、フランス・パリ郊外のヴェルサイユ宮殿の鏡の間にてパリ講和会議が始まりました。この鏡の前は約半世紀前、ドイツ帝国の前身であるプロイセン王国が、ナポレオン三世率いるフランスを打ち破り、ここでドイツ帝国成立を宣言した場所。フランスに

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    Neji800 2013/04/08
  • アメリカ合衆国現代史(第1回 ウィルソン大統領と第一次世界大戦) - 歴史研究所

    第1回 ウィルソン大統領と第一次世界大戦 ○はじめに 良くも悪くも、アメリカ合衆国というのは世界の超大国。その外交政策の1つ1つ、文化の発信などは世界に大きな影響を与えています。その一方で、アメリカ合衆国という国が、どのような経緯をたどってきたのか知っている方は、あんまりいらっしゃらないと思います。 裏辺研究所(歴史研究所)では、何故かソ連・ロシアを除き、今まであまり現代史を触れてきませんでしたが、通史の執筆をゆっくりやっていると、まだ当分、現代史にたどり着くまで時間がかかりそうなので、ここで一気に、アメリカ合衆国の現代史、主に外交の歴史を中心に見ていこうと思います。私を含め、若い世代にはあまりなじみのない、昔のアイゼンハワー大統領、ケネディ大統領だとか、そしてヴェトナム戦争など、色々と解りやすく詳しく、お伝えしていきます。 で、どの辺から執筆しようかと思ったところ、何かとイラク問題で話題

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    Neji800 2013/04/08
  • 中国史(第31回 日清戦争) - 歴史研究所

    ○朝鮮をどちらが支配するか さて、日は遅ればせながら植民地獲得レースに参加するべく虎視眈々と朝鮮半島に狙いを付けていました。 一方で清も、宗主国として朝鮮をそう簡単に他の国に渡そうとは思いません。また、日国内の空気として「朝鮮を自由にしない清は許せない」という風潮、それから「日、朝鮮、清の三国で諸外国に対抗する」という風潮がこの時期にはありました。 また朝鮮でも「日の力で朝鮮を完全に独立国家にしよう」と考えた政治家の金玉均(キムオッキュン)がクーデターに失敗し、日に亡命します(*クーデターを鎮圧したのは清軍で、率いていたのはのちに有名になる袁世凱)。これに関連して日も出兵していたため、1885年に日側伊藤博文、清側李鴻章との間で、両国軍の撤退と将来朝鮮に派兵する場合は相互に通知しようと取り決めた天津条約を結びます。 しかし結局のところ、清はあくまで朝鮮は清の服属国である、一方

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    Neji800 2013/04/08
  • 中国史(第30回 洋務運動と日仏露との領土問題) - 歴史研究所

    ○流石にお勉強を始める 清の時代に入って、ずいぶんと詳しく書きすぎました。 おかげで、ちょっと支離滅裂になっている部分もありますが、また後ほど修正させて頂こうと思います。しかし、それほどこの一連の事件が後世に影響を与えた重要なものであると言うことです。 さて、大平天国の乱を鎮圧しほっと一息ついた清ですが、さすがにイギリスやフランスにやられまくったことがあり、外国を見習って改革をしていこうという動き、洋務運動が始まります。その中心となったのが、正規軍に代わって義勇軍を率いて活躍した漢人官僚の曾国藩(1811~72年)と、やはり義勇軍を率いて活躍し、彼が推挙した李鴻章(1823~1901年)&左宗棠(1812~85年)、それから彼らを支援した道光帝の第6男、恭親王こと奕訴(えききん)です。 (*訴の字は少し違います) 特に軍事面を重要視し、曾国藩が中国初の近代兵器工場である安慶軍械所を設立し、

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    Neji800 2013/04/08
  • 中国史(第29回 第2次アヘン戦争のアロー戦争) - 歴史研究所

    第29回 第2次アヘン戦争のアロー戦争 ○まだまだアヘンは尾を引く さて、ちょっとお気づきの人もいると思いますが、アヘン貿易は合法化された、とは今まで書いておりません。 そう、流石にアヘン貿易の合法化まではイギリスは出来なかったのです。 そのため、あくまで密輸の黙認という形で貿易を続けていました。 で、太平天国が内紛を起こしていた頃。 アロー号というアヘン密輸船(船長はアイルランド系イギリス人のトマス・ケネディ 乗組員は中国人) がイギリス国旗を掲げて広州で停泊していたところ、臨検を受けました。なんでも、海賊の容疑だとか。これに怒り狂ったのが、のちに日でも大暴れ(?)することになる、駐清イギリス領事のパークスです。パークスは、これはイギリスへの侮辱であるとして、国へ連絡。同じ頃、フランス人宣教師が中国人を煽動した容疑で処刑されていたため、フランスでも清に報復を!という声が高まっていまし

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    Neji800 2013/04/08
  • 中国史(第28回 今回はキリスト教?太平天国の乱) - 歴史研究所

    第28回 今回はキリスト教?太平天国の乱 ○独自に編み出したキリスト教!? さて、南京条約が結ばれてから9年後。 すなわち1851年、広西省の金田村という場所で洪秀全という人物を中心とした拝上帝会という宗教による反乱が起こりました。またまた宗教による反乱です。ところが今回の反乱がいつもと違うのは、キリスト教によるものと言うこと。一体、こりゃなんぞや? まずは、洪秀全という人物を紹介する必要がありますね。 この人物は、元々は官僚になるべく科挙の地方試験である郷試を受けていたのですが、3度も落ちてしまった! そのショックで寝込んでいたある日、まあ要は、さる老人からの世の中をただすようにと、お告げがあった。一体これは何だろうと・・・む、どこかで・・・、と家の中を探すと、そこに出てきたのが2度目の試験の時に広州でイギリス人宣教師にもらった「勧世良書」という冊子。 そうか、この老人はエホバの神とキリ

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    Neji800 2013/04/08
  • 中国史(第27回 アヘン戦争) - 歴史研究所

    第27回 アヘン戦争 ○開戦までの道(前回が前夜だったのにね) アヘンさえ売らなければ、貿易は出来る。 しかしながら、アヘンだからこそ利益が得られるわけで、アヘンは売りませんという誓約書を提出「しなかった」イギリスの商人達は、国に清を懲らしめるように盛んに働きかけました。外務大臣のパーマストンもイギリスの国力を示してやれ!という強硬主義者でした。そこで1840年2月、メルボーン自由党内閣は開戦を閣議決定。議会に戦費の支出の承認を求めます。 その結果、賛成271票、反対262票。 という、僅差で賛成側が上回りました。この時にのやりとりは有名です。 賛成側のトマス・バビングトン・マコーリーは 「エリオット氏が包囲された商館に立てたイギリス国旗が如何に人々を勇気づけたか、そしてイギリスには敗北という屈辱はなく、退歩することを知らない」、つまりイギリスのやることに間違いはないと訴えます。 一方、

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    Neji800 2013/04/08
  • 中国史(第26回 アヘン戦争前夜) - 歴史研究所

    第26回 アヘン戦争前夜 ○明&清王朝は他国をどう見ていたか さてさて、そんなわけで簡潔に記せば 「しかし乾隆帝の死後、清の国力は大きく落ち、アヘン戦争・アロー戦争でイギリスに負け、清は諸外国の植民地のようになっていった」となるわけですが、その前提となるお話はしておかないといけないと思います。つまらないなあと感じる人もいるかもしれないけど、頑張って付き合ってくださいね。 さて、乾隆帝がまだ皇帝であった頃。 当時のイギリスは、産業革命によって・・・と言っても、何か劇的な変化と言うよりも、それは蒸気機関による機械化の進展によって次第に(ただし急速に)様々な商品の生産性が向上していました。一方、この頃にイギリスでは「喫茶」、つまりお茶を飲む風習が広がり、当時、そのお茶の唯一の産地である清から輸入をしていました。 ところが、イギリスが清に輸出するものがありません。すなわち、イギリスの特産品である毛

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    Neji800 2013/04/08