2013年4月7日のブックマーク (34件)

  • 東京大学西洋史学研究室

    専門領域 イギリス近代史 18世紀マンチェスタの地域史研究、史料編纂。 イギリス諸島の通史の試み。 16世紀~19世紀ヨーロッパ史の構造的理解。 近代歴史学の歴史。 以上4つの課題を時間をかけて遂行している。 主要業績 著書─単著 『民のモラル - 近世イギリスの文化と社会』(山川出版社、1993年11月) 『文明の表象 英国』(山川出版社、1998年6月) 著書─共編著 史学会百周年記念シンポジウム「ヨーロッパ近現代史における文化政治」(1989年11月) 編『朝日百科 世界の歴史』 99  18世紀の世界〈働く女たち〉 近藤和彦 責任編集 (朝日新聞社、1990年10月) 共編『歴史の重さ - ヨーロッパの政治文化を考える』 近藤和彦・福井憲彦 共編著 (日エディタースクール出版部、1991年1月) 共編『英国をみる - 歴史と社会』 草光俊雄・近藤和彦・斎藤修・松村高夫 共編著

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    Neji800 2013/04/07
  • 中国史(第25回 名君の時代3~乾隆帝~) - 歴史研究所

    ○60年も政治をするって大変なこと 雍正帝の次に即位した皇帝は、彼の第四子である乾隆帝(愛新覚羅弘暦 位1735~1795年)です。ご覧の通り、なんと60年も皇帝を務め、さらに彼は1711年生まれで1799年没。相当な長寿です。在位60年で皇帝の座を引退したのは、祖父康煕帝の在位61年を超えたくない、と言うことでしたが、結局の所、最後まで大きな権力を握りました。 さて、乾隆帝の即位時には清の国力が最大に達し、国庫が潤っていました。 そこで、彼は対外遠征に力を入れることになります。すなわち、西モンゴルのジュンガル部、台湾、ヴェトナムと言った地域に侵攻し勝利。さらに、チベットを支配下に置きました。台湾では1756年に秘密結社「天地会」による「反清復明」を掲げた反乱が発生し鎮圧に手を焼くものの、基的に遠征は大勝利で、彼は「十全老人」と称しました。彼の10回の遠征に全て勝った、ということです。

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    Neji800 2013/04/07
  • 中国史(第24回 名君の時代2~雍正帝~) - 歴史研究所

    ○僅か13年の治世なれど 康煕帝、そして今回の主人公・雍正帝の次の乾隆帝が双方共に60年という長い治世を持つのに対して、1722年に即位した雍正帝は45歳で即位し、58歳で死ぬまで僅か13年の治世です。 しかし雍正帝の13年間は、乾隆帝へのバトンタッチを無事に果たすにふさわしく、なにしろ彼は仕事熱心でした。 一例を挙げますと、全国の役人から膨大かつ様々な書類を直接自分に送らせ、1つ1つ朱筆(赤筆)で皇帝直々の意見を書き、なんと返信をする。役人はそして、また雍正帝に返事・報告を出す。そしてそれに対し雍正帝は意見・返事を書いて送るという、まあ、筆まめな皇帝だったのです。 役人は何と皇帝から、直接叱咤激励をうけるわけで非常にやる気が出ますし、また数多く皇帝のスパイも派遣され、見張られて報告が行き、場合によればボーナスや給料アップ、逆に処罰もあるので、襟を正して仕事をしないといけません。そんなわけ

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    Neji800 2013/04/07
  • 中国史(第23回 名君の時代1~康煕帝~) - 歴史研究所

    ○日でも人気の鄭成功だが・・ 順治帝が死去、もしくは隠棲した後、皇帝になったのが息子(三男)の康煕帝(聖祖、愛新覚羅玄燁=げんよう 1654~位1661~1722年)です。8歳で即位し、以後60年にわたって在位しました。もちろん、8歳ですから最初から政治を自分で行ったわけではありません。ソニン(素昵)、スクサハ(蘇克薩哈)、カピルイ(エビルンとも)、オーバイの4人が補佐します。 このうちオーバイとスクサハは仲が悪く、1667年にオーバイがスクサハを殺すという事件が発生します。そして、実質的にオーバイが権力を握ったのですが康煕帝もいつまでも子供ではありません。その2年後、康煕帝はオーバイを殺害させました。こうして、康煕帝の親政が始まります。 さて、清の中国征服に対して、当然抵抗する旧・明王朝の勢力は沢山存在しました。総称して「南明」と呼ばれますが、各勢力が明の皇族を擁して戦います。しかし、

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    Neji800 2013/04/07
  • 中国史(第22回 清の草創期~ドルゴンと順治帝~) - 歴史研究所

    ○有能なドルゴンと幼い皇帝だが・・・ 清が北京に入城し、中国の大部分を統一した1644年、皇帝である順治帝(愛新覚羅福臨=フリン)は6歳でした。 歴史家の陳舜臣さんは、「中国傑物伝(中公文庫)」の中で、大帝国の草創期、つまり建国間もない時期に皇帝が幼いというのは非常に珍しい、というようなことを書いています。例えば、漢を建国した劉邦は、皇帝になったとき46歳から55歳(自分の年齢がよく解らなかったらしい)、唐を建国した李淵は、皇帝になったとき53歳、宋の趙匡胤は同じく33歳、明の朱元璋は40歳。 唯一、似たような例があるとすれば秦の始皇帝。彼は13歳で王位に就きました。しかし、それでも中国を統一したときには38歳です。そんなわけで、この順治帝の例は極めて珍しいことになります。 もちろん、6歳の皇帝が政治を行えるはずがありません。当然、これを支える強力な指導者がいます。それが、前のページでも少

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    Neji800 2013/04/07
  • 古代中国~周、そして秦へ - 歴史研究所

    ○ヌルハチ、立つ! 12世紀に金を建国した女真族は、金が滅亡した後、一部が元に仕えた他は、再び故郷である中国東北部に戻ります。自らをマンジュ、すなわち俗に言う満州とよび明の時代になると、明の間接支配を受けながら、建州女真、海西女真、野人女真など各部族に別れ、それぞれが争いながら生活していました。 ところが、これを統一する者が表れます。その人物の名は、アイシンギョロ(愛新覚羅)・ヌルハチ(1559~1626年)。建州女真の首長の出身です。彼は、1583年に、祖父と父が明軍に殺されたのをきっかけに、「明に対抗できる強い女真族を」というわけで、まず建州女真内を引き締め、自分の元に統一し、次いで各女真部族と戦い、これを支配下に置きます。そして軍事上の組織で、さらに行政・社会組織にもなる「八旗」に女真族を編成します。 八旗とは、黄、白、紅、藍の4種、及びそれに縁取りのある、なしで、八種の軍団の旗印に

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    Neji800 2013/04/07
  • 中国史(第20回 百科事典も登場、明の文化) - 歴史研究所

    第20回 百科事典も登場、明の文化 ○実用的な明文化 明代は、実用や実践を重視する文化が発達します。さらに文化の担い手は、知識人や支配階級だけにとどまらず、庶民階級や来航してきたキリスト教カトリックの一派、イエズス会の宣教師の影響もあります。 思想面では、明は朱子学を官学とし、永楽帝のころには「五経大全」を勅撰させます。また、中期に王陽明があらわれ、宋代の陸九淵の説を発展させて、知(知識)と行(実践)の統一を説く陽明学を成立。明末には、その考えをさらにすすめた李贄がでて、自由主義的立場からの主張が後世に大きな影響。なるほど、知識を持っているだけではダメ、実際に試せ、ということなんですね。 実用書を見ますと、まず永楽帝が2万2877巻にも及ぶ「永楽大典」と言う百科事典を編纂させます。残念ながら、今は一部しか残っていません。それから、イエズス会宣教師マテオ=リッチに徐光啓が学んで執筆したの数学

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    Neji800 2013/04/07
  • 中国史(第19回 北虜南倭の患、明の衰退) - 歴史研究所

    永楽帝によって国力を大いに奮わせた明は、彼が死ぬと早くも衰退を始めます。1449年、オイラート部のエセン=ハンが侵攻してきてきます。これに対し、閣僚全員の反対にもかかわらず、正統帝(位1435~49年、57~64年)は宦官の王振の進言で自ら出陣し。北京の北100km地点の土木堡という場所で迎撃しますが大敗を喫し捕まります(王振は戦死)。 エセンはさらに北京へ侵攻しますが、明の名将・于謙がよく防ぎます。そのため、エセンは有利な条件で明と和義を結び、正統帝を釈放して北方に去ります(土木の変)。 これを教訓に、明は今まで無用の長物として使われてこなかった万里の長城を大修築します。現在我々が目にする万里の長城は、明になって修築されたものです。 ところが、その100年後にタタール部のアルタン=ハンが侵攻してきて北京は包囲されてしまいます。この時も和議が成立し、防ぎきりましたが、明の国力は大きく衰退し

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    Neji800 2013/04/07
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    Neji800 2013/04/07
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  • 【画像】イスラエルとパレスチナに行ったった : BIPブログ

    去年のだけどたまたま写真がPCに残っていたので 少しだけ晒してみる。 需要なくても10枚くらいは頑張る。 https://iup.2ch-library.com/i/i0893419-1365258080.jpg

    【画像】イスラエルとパレスチナに行ったった : BIPブログ
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    Neji800 2013/04/07
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  • 中国史(第18回 明時代の東シナ海) - 歴史研究所

    ○鄭和の大航海 永楽帝が業績を残したのは対外遠征ではなく、世界初の大航海を実施させたことにあります。モンゴル帝国・元が中国を支配していた関係で、中国には多くのムスリム、イスラム教徒がいたのですが、その中で宦官になっていた者もいました。永楽帝は、その宦官の中でイスラム教徒の鄭和(1371頃~1434年頃)に船団を率いさせ、東南アジア、インド、そして北アフリカにまで航海させます。もちろん、朝貢交易をさせるためですし、イスラム教徒をえらんだのは、交渉をスムーズに進ませるためです。 この遠征は1405年から33年まで7回に分けて行われ、大成功を納めました。第4回目の航海の時、ついにアラビア海を越えます。彼は一部の船をアフリカ東海岸にまで派遣します。キリンやライオンは、この時中国にやってきています。キリンは、ソマリア語で、奇しくも中国の伝説上の動物「麒麟」と発音が同じであり、どちらも見たこともない不

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    Neji800 2013/04/07
  • 中国史(第17回 最後の漢民族王朝・明の建国) - 歴史研究所

    ○明王朝の成立 さて、元の後に登場したのが、漢民族による王朝の「明」(1368~1644年)です。金も元も、この明も、国号を昔の国名(趙とか晉とか唐とか・・)からとっていません。そして、この後に続く清も同様。そして現在は中華人民共和国となっていますね。 それはさておき、この明王朝を建国したのが朱元璋という人物です。貧しい農民の生まれで、前漢の劉邦と並び、農民から国を興した2人のうちの1人です。彼は、1347年に、郭子興の反乱軍に身を投じ、彼に気に入られて出世します。そして、郭子興が死去すると反乱軍の頭領となり、そして李善長、劉基という能力ある人を参謀に迎えます。 李善長は朱元璋に「劉邦と同じようにしなさい」と進言します。そして劉基は張良と同じような働き、つまり参謀として活躍をします(後世、張良との比較をよくされる)。こうした人々の助けもあり、朱元璋は他の反乱軍を倒し、そしてその勢いで元を滅

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    Neji800 2013/04/07
  • 中国史(第16回 モンゴル・元代の文化) - 歴史研究所

    第16回 モンゴル・元代の文化 ○ヨーロッパからも人が来た 元代は、これまでになく国際性豊かな文化が花開きました。ヨーロッパとのつながりも出来ます。前述のように、対イスラム教の観点から、ローマ教皇はプラノ=カルピニ(1182頃~1252年)、それからモンテ=コルヴィノ(1247~1328年 カトリック教を初めて中国で伝える)を、フランス王国のルイ9世(位1226~70年)はルブルック(1220頃~93頃)を使節として派遣します(ちなみに、ルイ9世は十字軍としてイスラム征討に情熱をかけた王である)。 また、イタリアにあるヴェネツィア共和国の商人マルコ=ポーロ(1254~1324年)は、フビライに仕え、元のあちこちを回ることになり様々なことを見聞します。彼は、17年間フビライに仕え帰国します。ところが、ヴェネツィアと、ジェノバという都市国家どうしによる戦争で捕虜となり、幽閉されます。この時、囚

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    Neji800 2013/04/07
  • 中国史(第15回 元の中国支配) - 歴史研究所

    第15回 元の中国支配 ○モンゴル帝国の発展 さて、チンギス=ハンが死ぬと、クリルタイが開かれ三男のオゴタイ=ハン(1186~1241年 位1229~1241年)が後を継ぎます。チンギス・ハンの長男にはジュチが、次男にはチャガタイがいましたが、2人は仲が悪く、そのため性格が温厚なオゴタイが跡を継ぐことに決まっていました(注:ジュチはこの頃既に死去)。 そして、耶律楚材も引き続き信任されています。楚材は、チンギス=ハンから直々にオゴタイに「天が我が家に使わした宝だ」さえ言われた人物です。楚材は、オゴタイが金を滅ぼすにあたり、多数の文化人を保護し、そして1度だけでしたが科挙も実施させています。なんか、できすぎた話ですよね。この楚材の功績を否定する学者もいます。彼は、自分で偉そうに功績を捏造しただけだ、と。 なぜならば楚材の名前は、その後モンゴル帝国の分国であるイル=ハン国の宰相ラシード=ウッデ

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    Neji800 2013/04/07
  • モンゴル帝国 - 歴史研究所

    中国史(第13回 宋代の文化) ○モンゴル高原の統一 さて、現在我々がモンゴル高原と呼んでいる場所。 平均標高1600メートルのこの場所では、遼が滅んだころより遊牧民族の各部族が抗争を繰り広げていました。そんな中、12世紀の半ば過ぎ。全世界の歴史に影響を与えることになる人物が生まれました。その男の名前はテムジン。後の、チンギス=ハン(1167頃~1227年)です(ジンギスカンなど、呼び方は色々)。 テムジンは、遊牧民族の1つであるモンゴル族の一首長、イェスゲイの息子でしたが、9歳の時、イェスゲイは、敵対するタタール族によって、毒殺されます。この地が中国であれば、幼くても息子がその地位を継ぐでしょう。しかし、モンゴルはそうはいきません。なぜならば、モンゴル高原は大変気候の厳しい場所です。我々は、モンゴルと聞くと大草原を思い浮かべがちですが、岩がごろごろとしたところや、砂漠もあります。しかも、

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    Neji800 2013/04/07
  • 中国史(第13回 宋代の文化) - 歴史研究所

    中国史(第13回 宋代の文化) ○まず前提ですが 唐が実に国際色豊かな物であったのに対し、宋はやや中国独自というか、外国からの影響が唐に比べて薄くなっています。また、宋の文化の担い手は地主、官僚と言った士大夫の階級が中心で、庶民性を持つと共に、幽玄・深遠なる物を好みます。また、経済が発展したこともあり、宋は歌舞曲、演劇、講談などの庶民文化も多く誕生しました。 その中では、恋愛物と軍記物が特に好まれたとか。こうした部分が唐との大きな違いですね。 〇朱子学と陽明学 んで、学問・思想では,宇宙の原理と人間の性は何か?これを研究するため、儒学の経典の字句の解釈にとらわれず,経典そのものから儒学の精神・質をあきらかにしようとする宋学がおこり、ここに儒学が体系化されました。 北宋の周敦頤(1017~1973年)と張載(1020~1977年)にはじまり,このうち南宋の朱熹(朱子 1130~1200年

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    Neji800 2013/04/07
  • 中国史(第12回 華北の金と江南の南宋) - 歴史研究所

    中国史(第12回 華北の金と江南の南宋) ○金の建国と宋の南遷 宋が党争に明け暮れているうちに、中国東北地方の沿海部で半農半猟の生活を送っていたツングース系の女真族が、族長の完顔阿骨打(ワンヤンアクダ)の元で強勢になり、金(1115~1234年)という国が建国されます(完顔阿骨打は太祖 位1115~23年に即位)。そして、金は遼を滅ぼすことにし、宋と共同出兵を盟約します。 1125年、金の攻撃で遼は滅亡します。ところが、宋はその頃起こった方臘の乱の鎮圧に手間取り、共同出兵の盟を果たせませんでした。 方臘の乱とは、当時宋の皇帝であった趙佶(徽宗 位1100~25年)が、自らの庭造りのため、江南の地より珍しい石や木を綱につけて、人々に運ばせた「花石綱の労役」に対して起こった、方臘率いる反乱です。徽宗は、書や絵画に抜群の才能を示し、この時代の上流階級の描く絵、すなわち文人画の代表ともいえる人物で

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    Neji800 2013/04/07
  • 中国史(第11回 五代十国から宋へ) - 歴史研究所

    中国史(第11回 五代十国から宋へ) 〇五代十国と門閥貴族の消滅 こうして唐が滅亡したわけですが、その後50年間ほど中国は分裂時代に入ります。華北・黄河流域に主に開封を首都とした王朝(後梁・後唐・後晉・後漢・後周)が5つと、その周辺に10の地方政権が成立します。そのため、この時代を五代十国時代と総称します。これらの国々のほとんどは、節度使や藩鎮が王を自称したものです。 また、この時代、南北朝時代から続く、門閥貴族階級が消滅しました。それは軍人出身である節度使・藩鎮達が絶え間なく争い、そして新興地主層である形勢戸が台頭してきたからです。 しかし、この形勢戸は成り上がりという意味で、決して豪族、そしてその発展形である貴族にはなりませんでした。この混乱期、その多くが一代限りで没落する場合が多かったからです。 ところでこの時代に、中国東北地方で遼(916~1125年)という国が勢力を拡大します。

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    Neji800 2013/04/07
  • 中国史(第10回 唐と国際文化) - 歴史研究所

    中国史(第10回 唐と国際文化) ○国際色豊かな唐 さて、ここで唐の時代の文化を見ていきましょう。 唐の文化の特徴は、1つは、それまで北朝で培われてきた剛健な文化、それから南朝で培われてきた華麗な文化が融合したことが挙げられます。2つめは、日からは遣唐使が派遣されたように、唐は外国との興隆を広く持ち、各国の文化が流入し著しく国際的になったことが挙げられます。もちろん、唐から諸外国に与えた影響も大きいものでした。 詩は現在でも数多くが読み継がれているように、唐の中期に活躍した王維(699頃~761年)・李白(701~762年)・杜甫(712~770年)、それから末期の白居易(白樂天 772~846年)が特に有名です。このうち杜甫と言えば「国破れて山河あり、城春にして草木深し・・・」で有名ですね。まあ、詳しくは漢文の時間に勉強してください。ちなみに白居易は、日の平安貴族の間で大ヒットしまし

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    Neji800 2013/04/07
  • 中国史(第9回 女性皇帝も出た唐の時代) - 歴史研究所

    〇隋を受け継ぐ唐 隋のあと中国を統一したのが唐(618~917年)です。初代皇帝は李淵(高祖 位618~626年)。息子の李世民に勧められて混乱期に旗揚げした人物です。この李淵という人の家系は、隋の楊堅の同僚で、少し上の家柄。また、李淵の母は鮮卑族の独孤信の娘で、隋の煬帝の母の姉に当たります。すなわち、李淵と煬帝は従兄弟というわけです(と、同時につまり隋&唐は、純粋な漢民族政権ではない、と言うことです)。 その縁もあり、 まず煬帝の孫の楊侑を帝位に就けます(恭帝)。そして、煬帝が殺害されると、613年に恭帝に禅譲させ彼自身が帝位に就きます。何だか面倒な手続きをしたな、さっさと自分で皇帝に就けばいいじゃないかと感じる人もいると思いますが、一応これは、正統性を確保するために必要なんです。 こうして、唐が誕生します。そして、高祖(李淵)の息子の李世民が、次々と隋に反乱を起こした李軌や蕭銑(漢の初

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    Neji800 2013/04/07
  • 中国史(第8回 隋の中華再統一と大運河) - 歴史研究所

    中国史(第8回 隋の中華再統一と大運河) 〇2代で終わった隋ですが では、再び中国を統一した、隋の政策を見ていきましょう。まず、隋が都に選んだのは長安。この時代は大興城という、なんとも縁起のよい名前で呼ばれます。そして、北魏と同じように均田制を採用。 また、軍のシステムは北朝から続く府兵制を採用。壮丁(21~59歳の男子)の中から徴兵され、農閑期に訓練を受けて、軍が出動する時に、兵士としてついていかなければ行けないという制度です。 ところで隋の課題は、それまで国が短命で終わる原因であった豪族勢力を排除し、皇帝と国の権力を強化することでした。そのため、まずは律令を定め(律は刑法、令は行政法)、豪族を官僚にします。そして、県を州に直属させる州県制を実施し、州長官からは、軍事権と地方官任命権を奪い、中央集権化を進めます。さらに、魏からの官僚任用制度である九品中正法をやめて、有名な科挙(当時は官僚

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    Neji800 2013/04/07
  • 中国史(第7回 南北朝文化) - 歴史研究所

    中国史(第7回 南北朝文化) 〇華やかな南朝文化の裏で・・? この時代の中国文化は、江南地域で発達しました。六朝文化とも呼ばれる、貴族文化です(華北では、異民族による質実剛健な文化)。 文学では、陶淵明、謝霊運が活躍。対句を用いた華麗なものが流行します。絵画では、顧愷之、書では現在でも大変有名な、王羲之(307頃~365年頃)が活躍します。特に、王羲之の書には、当時からコレクターも現れ、その後の金持ちの芸術品収集の先駆けとなりました。 また、思想では儒教に代わり、再び老荘思想が大流行。これを基に世族を超越して、論議をする清談もうまれます。戦乱が影響しているのでしょう。秦から漢の時に老荘思想が流行したときもそうでした。 また、実用書でも地理のである『水経注』、農業技術『齊民要術』、医学の『傷寒論』が書かれ、人々の生活に貢献します。このように、南朝の六朝文化は非常に優れたものでした。

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    Neji800 2013/04/07
  • 中国史(第6回 晋~南北朝時代) - 歴史研究所

    中国史(第6回 晋~南北朝時代) ○晋は長く続かず・・・。 3国のうち最後まで残った呉は、北ヴェトナム地域まで征服しますが、君主選びに失敗し孫晧を帝位に就けてしまいます。「こいつなら扱いやすい陛下になるだろう・・」という思惑があったのでしょうが、なんと彼は、残虐な人物で周りの人々を次々殺し、呉の国力は大きく低下。無論、人々の心はどんどん呉から離れました。ここで晋が侵攻して来て、ついに呉は滅亡し、三国志の時代が終焉するのでした。 しかし、その晋も長くは続きません。司馬炎の死後、恵帝が即位しましたが、武帝の皇后楊氏一族と、恵帝の皇后賈氏一族が争います。そして、賈氏一族が汝南王司馬亮と楚王司馬偉を味方につけ、楊氏一族を滅ぼすのですが、さらに用済みということで汝南王と楚王を殺害してしまいます。ここで8人の諸王を巻き込んだ内乱が発生し、そのうち7人が死亡し、306年に恵帝の弟が帝位に就くまで続きます

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    Neji800 2013/04/07
  • 中国史(第5回 三国志) - 歴史研究所

    中国史(第5回 三国志) ○今回の流れ まず最初に。 三国志について詳しく書いて欲しい、というメールや依頼も多く来ていたので、この際思い切って大幅増補します。しかしそうしますと「この時代について詳しすぎる」という人も多いでしょう。ですから、まずは超簡単にこのページの概要を書きます。 1.黄巾の乱が起こって後漢は大きく乱れ、群雄割拠。 2.様々な争いの結果後漢は滅亡。曹操+曹丕親子の魏、劉備の蜀(蜀漢)、孫権の呉が成立。 3.蜀漢は魏に滅ぼされる 4.魏は家臣に乗っ取られ、晋が成立。 5.呉は、晋によって滅ぼされる。 以上です。 この流れを踏まえた上で、読みたい方は以下をどうぞ~。 ○皇帝が遊んでいるようじゃあ・・・ 第12代皇帝の霊帝(位168~189年)は、宦官と外戚、それから清流派と呼ばれる知識人達が争っている中、政治を放棄します。宦官に「良きに計らえ」と政治を任せ、自分は官職を金で売

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    Neji800 2013/04/07
  • 中国史(第4回 後漢~復活した漢だが) - 歴史研究所

    中国史(第4回 後漢~復活した漢だが) ○洛陽に都を定めた理由とは? 後漢は、前漢と違って、都を洛陽に定めました。 なぜ長安に定めなかったのでしょうか。それは、長安は天然の要害の中にあり、防衛にはよい拠点でしたが、その一方で交通の便が悪いというデメリットがありました。ゆえに、後漢は洛陽に都を定めたのでした。また、前漢と同様、最初は社会秩序の回復のため、対外消極策をとりましたが、まもなく匈奴を討ちます。匈奴は北と南に分裂し、南匈奴は後漢に従い、北匈奴は西へ移動してゆきます。 そして、後漢は西域の経営に力を入れ始めました。さらに、その西域を治める役職である西域都護の班超は、部下の甘英を、当時ヨーロッパと中東アジア地域を支配していたローマ帝国(前27~394年 それ以降は東西に分離)に送りました。甘英はシリアまで行き、戻っています。 と、ここで疑問が出てくるのは、なぜ甘英はローマまで行かなかった

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    Neji800 2013/04/07
  • 中国史(第3回 漢の時代) - 歴史研究所

    中国史(第3回 漢の時代) ○項羽と劉邦 こうして劉邦は兵力を整えると出陣し、秦の地を守っていた章邯らを倒します。 急激に勢力を拡大し、項羽を脅かすにいたりますが・・・しかし、さすがに項羽は強い。別働隊を率いる韓信が戦果を上げていましたが、劉邦自身は各地で敗北していきました。しかし、最終的には劉邦は項羽を倒すことに成功するのです。それはいったい何故か。やはり、項羽と劉邦の人物性の違いにあるでしょう。 まず。劉邦は、どういう人物だったのでしょうか。 彼は、沛という町のごろつきでした。農家の出身で3男。言葉遣いが悪く、好色で、よく大言壮語を言う人物でした。しかし、何か彼には人を引きつける魅力があったのでしょう。彼には仲間も多く、沛の町の人々が決起したとき、役人であった蕭何(しょうか)や曹参らが中心となり、劉邦を頭目にすることにしました。そして、韓の国の貴族・張良(軍師として活躍)、将軍として大

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    Neji800 2013/04/07
  • 中国史(第2回 秦と始皇帝の時代) - 歴史研究所

    中国史(第2回 秦と始皇帝の時代) ○始皇帝の政治 始皇帝は、法家の人間である李斯を丞相(首相のようなもの)にして、法治主義に基づく政治を行います。また、それまでは各地に有力者に土地を与え、諸侯として政治を行わせるのが一般的でしたが、彼は中央集権主義を目指し、役人を中央から派遣して政治を行わせる「郡県制」を採用しました。こうして全国が郡と、その下に置かれた県によって分けられました。 また、北方の遊牧騎馬民族の対策として「万里の長城」を建設しました。これは、すでに魏や趙など各諸侯が部分部分で建設してあったものを将軍蒙恬がつなぎ合わさせ、遼東半島からオルドス(中国西部)までの距離を結ぶ、1つの長城にしたものです。 なお、今私たちが見る万里の長城(=写真/撮影:七ノ瀬悠紀)は明の時代にモンゴルの侵入を防ぐために大修築を行ったもので、秦の時代はここまで立派ではなく、馬が飛び越えられないようにする程

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    Neji800 2013/04/07
  • 古代中国~周、そして秦へ - 歴史研究所

    第1回 古代中国~周、そして秦へ ○古代文明~古代国家の登場 前5000年~4000年頃から、中国の黄土地帯と呼ばれる、黄河の忠・下流域において、初期農耕をする人々が現れました。彼らはアワを栽培し、豚や犬・鶏を飼い、竪穴式住居・泥壁の住居に住む生活をしました。彼らが磨製石斧、そして文様のある彩色土器である彩文土器を用いたことから、その土器の別名をとって彩陶文化といいます。さらに、前2000年~前1500年頃に、土器の技術の進歩で黒く磨かれた土器も登場し、これを黒陶文化と呼びます。 そして、邑と呼ばれる大集落が出てくるようになり、王朝が発生するのです。 伝説では、最初の王朝は「夏」という王朝です。また、さらにその前には三皇・五帝時代というのがあったとされています。後者はあくまで伝説の域を出ません。しかし、「夏」については、最近の調査で、実在の可能性もでてきました(後述)。 とりあえず、現在確

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  • 西アジア史(第28回 オスマン帝国の繁栄と第1次ウィーン包囲) - 歴史研究所

    ○ドラキュラ王の抵抗 メフメト2世、もちろんコンスタンティノープルを落として終わりではありません。彼はまだ若い。むしろ今からが番です。引き続き彼はバルカン半島の格的な征服に乗り出します。これに果敢に抵抗した人物の一人が、ルーマニアのワラキア公国王・ブラド・ツェペシュ。彼は、結局は敗北してしまうのですが、祖国防衛のためによく抵抗しました。 ところが・・、彼は残忍な刑罰を好みます。そして、彼の父親の名前はブラド・ドラクル。よく解んないのですが、この辺から吸血鬼ドラキュラのイメージが出来上がってしまったようです。 ちなみに、この地域は隙を見ては独立しようとし、事実独立を果たしたこともあります。オスマン帝国にとっては厄介な地だったようです。 メフメト2世はこの他、ロシア地域にも攻め込み、旧キプチャク・ハン国系のクリム・ハン国を保護国化におき、黒海沿岸に影響力を拡大しました。 ○ハプスブルク朝と

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  • 西アジア史(第27回 ビザンツ帝国の滅亡とオスマン帝国) - 歴史研究所

    ○オスマン・トルコの誕生 オスマン朝といったり、オスマン帝国といったり、オスマン・トルコ帝国といったり、呼び方さまざまですが、とにかくそんなトルコ族系の政権が、オスマン1世(位1299~1326年) によって、だいたい1299年に誕生します。 トルコ地域のルーム・セルジューク朝から独立した、最初はごく小さな政権でしたが、オスマン1世、それから第2代のオルハン(位1326~62年)は領土を一気に拡大し、アナトリアの大半を征服。バルカン半島にも征服への拠点を作ります。 さらに第3代のムラト1世(位1362~89年)は、イエニチェリと呼ばれる常備軍を創設し軍事力を強化。首都をエエディリネ(旧アドリアノープル)に定め、ブルガリア等に侵攻し、1389年、コソヴォ平原の戦いでバルカン半島諸国の連合軍に勝利。しかし、これが相当かの地の住民に恨まれ、ムラト1世はセルビアの一領主ミロシェ・オビリチの手により

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  • 西アジア史(第26回 モンゴルを受け継げ!ティムールの大遠征) - 歴史研究所

    ○この人もよく征服した 中央アジアを支配していたチャガタイ・ハン国。もうこの言葉を書くのも飽きてきましたが、やっぱり後継者争いで東西に分裂。さらに豪族たちが割拠して争っていました。その中の一人がティムール(1336~1405年)。1370年、彼はティムール朝(帝国)を建国します。首都はサマルカンド。 以後、彼の征服活動はモンゴル帝国を理想とし、イラン・イラク・アルメニア・グルジアを征服。当然、チャガタイ・ハン国は滅亡し、弱まっていたキプチャク・ハン国もさらに衰退します。 1398年には、今度はインドのデリーに侵入し略奪。彼は、学問に造詣が深く、サマルカンドに占領地から多くの人材・財宝を集め発展させましたが、征服した地は破壊しました。そして1401年には、マルムーク朝からシリアを奪い、翌年にはオスマン帝国のバヤジト1世(後述)と戦い、大いに打ち破りました。ご覧下さい、この広大な帝国! こうな

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    Neji800 2013/04/07
  • 西アジア史(第25回 マムルーク朝 女性スルタンも登場) - 歴史研究所

    ○あれ?マムルークって何? 今からお話しするのは、マムルーク朝。ところが、マムルークについてぜんぜん解説しておりませんでしたので、まずはそこから。 マムルークというのは、簡単に言ってしまえば傭兵・軍事用奴隷です。最もなり手が多かったのはトルコ人。ほかにもギリシア人とか、スラヴ人もいます。 アッバース朝が対東ローマ(ビザンツ)用に雇ったのが最初です。また、セルジューク朝では自民族が「頑張ったんだから、もっとおいしいものよこせ!」とうるさいので、対抗策としてマムルーク軍人を特に重用しました。もっとも、マムルークも給料が出ないとすぐに暴れだす。どこの王朝でも、まずマルムークの給料をどうするかが一番も悩みどころでした。 そして、サラディンの作ったアイユーブ朝。ここでもマムルークが使われます。ところが、マムルークのほうが力が強くなりすぎ、1250年、クーデターが起こって滅ぼされてしまいました。マムル

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  • 西アジア史(第24回 イル・ハン国によるアラブ統治) - 歴史研究所

    ○イル・ハン国の成立とアッバース朝滅亡 モンゴル帝国皇帝モンケ・ハンの命令で、その弟のフラグ(1218~65年)は西へ遠征をしました。そして、途中でニザール派を壊滅させ、細々と命脈を保っていたアッバース朝の首都バグダートに到達。ついに第37代カリフ・ムスタースィムは降伏し、モンゴルの処刑の儀礼により絨毯に包まれ騎馬に踏み殺されました。 そしてカリフの一族は、エジプトに逃げ、アッバース朝を倒して建国されていたマムルーク朝(1250~1517年 マムルーク朝については次のページで解説)の保護を受けることになります。 もちろん、落ちぶれたとはいえカリフを殺すなど今までに考えられないような事態で、これはスンナ派イスラム界に大きな衝撃を与えました。そしてフラグは、 中東全域を支配下に治めると、シリア・エジプトのマルムーク朝と交戦をはじめます。ところが、その直後にモンゴル皇帝モンケ・ハンが死去。モンゴ

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    Neji800 2013/04/07
  • 西アジア史(第23回 イスラム過激派の原点?VSモンゴル) - 歴史研究所

    ○暗殺者集団、誕生・・・。 現在、相次ぐイスラム過激派による自爆テロが、世界を震撼させていますが、実はイスラム中世期にもテロで恐れられた集団がありました。それが、シーア派過激派ニザール派。シーア派のためならば、イスラム・キリスト教(十字軍)だろうが多くの要人を暗殺しまくっていました。イスマーイール派のハサン・サッバーフ(?~1124年)が、それを分裂させて作りました。イラン山中に拠点を構え、暗殺者をどんどん送り込みます。 暗殺・・・例えば、セルジューク朝の宰相ニザーム=アル=ムルク。名君である第3代スルタン・マリク=シャーと二人三脚でセルジューク朝の最盛期をつくった人物ですが、1092年、彼はバグダードに帰る途中でニザール派によって暗殺されました。そして、彼とマリク・シャーの死後、セルジューク朝は分裂します。 暗殺はセルジューク朝トルコを中心に行われたほか、十字軍に対しても行われ「アサシン

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    Neji800 2013/04/07