静岡県榛原郡金谷町(現・島田市)生まれ。父親は農場長で、町の有力者の一人。 静岡大学教育学部附属島田中学校から静岡県立藤枝東高等学校に入学。地質学に興味を持ち1968年4月に弘前大学理学部物理学科に入学。大学入学後、なりゆきで民青に加盟するが、学内活動においてはあくまでクラス代表としての立場を取り、必ずしも民青の方針に沿った活動をしていたわけではなかったので、民青幹部から批判を受けることもあった。一方で民青の指示により反代々木派学生の排除(反代々木派学生に対する暴行を含む)を行い、民青・共産党から一定の評価を得るも、反代々木派を全否定する民青に対し、植垣自身はむしろ反代々木派にも一理あると感じたという。やがて民青の反代々木派学生に対する暴行に嫌気がさすようになり、1969年4月に脱退。その後反代々木派に転じる。 1969年夏に弘前大全共闘を結成しバリケード封鎖を行う。その最中、福島医科大学