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ブックマーク / www.warewaredan.com (4)

  • 何が死の校門を押させたか

    女生徒が校門に挟まれて死んだという、例の兵庫県立神戸高塚高校の、その校門前に、ぼくら三人はビラ配りに行った。 ぼくは、DPクラブという、中高生の自由を中高生自身の手で勝ち取ろうというグループを主宰している19歳の高校中退生。沢村は、広島の高校をこの春に卒業して、埼玉で極貧生活を送っている18歳のプー太郎。中村は、つい最近千葉の高校を中退した16歳のカメラ少年。 ぼくら3人は、遅刻の校門指導で生徒が死ぬという前代未聞の事件に衝撃を受けていた。そして、学校の管理主義に対してよりも、むしろ、事件後も相変わらず平然と期末試験や授業を受けつづけている高塚高の生徒たちに対して云いようのない苛立ちを覚えていた。 報道によれば、校門に、死亡した石田僚子さん(15)がはさまれたためにできたスキマから、何人かの生徒が彼女の上を飛び越えて登校し、テストを受けたのだという。校門を押した教師は、その後、そのテストの

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    REV 2019/10/18
  • 我が国は“法治国家くずれ”である

    法治国家という言葉がある。 だがこの言葉、多くの人が使い方を間違えている。 何か大きな事件が起きる。警察が記者会見で、「これは法治国家に対する挑戦だ!」と叫ぶのを目にした時、諸君が違和感を持たないとしたらそれは諸君がやはり法治国家という言葉の意味を正しく理解していないのだ。 法治国家とは何か? それを正しく理解するには、この「法治」という言葉の対義語を想起すればいい。 「法治」の対義語は「徳治」(「人治」ともいう)である。 政府の活動つまり国家権力の行使のやり方を、あらかじめ法によって定めるのが法治主義であり、そうでないのが徳治主義である。「法によって定める」のは「制限する」のと同じことだから、つまり国家権力の行使のしかたを法で制限するのが法治主義、制限しないのが徳治主義ということになる。 徳治主義では、法ではなく、絶対に間違いを犯さない個人なり集団なりのその「絶対に間違いを犯さない優れた

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    REV 2015/06/08
    「つまり名ばかりの法治国家である。タテマエとして法治国家であることになっており、国家権力の行使は、違法を合法だと強弁するヘリクツによって正当化される。私は、こういう国家権力が一番タチが悪いと思う」
  • 戦争は遠いアフガンやイラクではなく、他ならぬこの日本国内で起きている ・ 外山恒一

    戦争が、始まっている。 この戦争を、ブッシュやラムズフェルドといった人たちは、「まったく新しい戦争」と呼んでいる。 「まったく新しい戦争」は、どこがどのように「まったく新しい」のか? 9・11直後、アメリカのアフガン攻撃の最中に書かれた『文明の内なる衝突』で、大澤真幸は次のように分析している。 (アメリカのテロリストへの、あるいはタリバンへの反撃は、そもそも戦争と呼べるのか否か、ということが盛んに議論されたが)戦争なのか、それとも戦争ではないのか、という見解が大きく分裂するのは、どうしてなのか? その理由ははっきりしている。この戦いにおいては、軍隊が警察として振る舞っているからである。普通、戦争とは、主権国家と主権国家の間の戦闘――外戦――である。だが、9・11テロが引き起こした「戦争」においては、当面の敵として措定されている主権国家らしきもの――タリバン政権――は偽装的なものであっ

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    REV 2007/07/17
  • いじめられたらチャンス

    以下の文章は、1994年末、愛知県で起きた「いじめ自殺事件」の直後に、「いじめ」の当事者である全国の中高生を読者に想定して書かれ、いくつかの出版メディアに持ち込まれたが、「過激すぎる」などのトンチンカンな理由で、結局発表する機会を得られないまま現在に至ったものである。その後「いじめ」問題を扱った出版物が何十冊と刊行されたが、もしこの文章が執筆直後に、つまり「いじめ」論議ブームの早い段階で公にされていたならば、その内容はまったく別の展開を見せたに違いないと悔やまれてならない。 オウム事件について、吉隆明はこんなふうに書いた。 「わたしは自民党と社会党が差異を失って浮遊しながら国政権を掌握している現在の政治社会状況と、サリンによる無差別殺傷が犯罪として出現してきたことと、大手の新聞やテレビ報道機関が無差別に法的確定の以前の段階で特定の個人や集団を犯罪者として葬ろうとする出鱈目な言説をふり

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    REV 2007/03/29
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