やや長くなるが、日本ファウンドリーのこれまでの歩みを紹介しよう。 ここ館山で半導体工場が誕生したのは1984年。当時の社名は「NMBセミコンダクター」。ベアリング大手のミネベアの元社長、故・高橋高見がハイテク時代の到来を見越して建設した、時代の最先端をいくDRAM(記憶保持動作が必要な随時書き込み読み出しメモリー)の製造工場だ。 当時、日本の半導体生産高は米国を凌ぎ、コンピューターや電子制御機器の普及と相まって、メモリーの分野で世界トップとなった日本の半導体メーカーは巨額の利益を謳歌していた。 利にさとい高橋はこれに目を付けた。もちろん、巨額投資が相次ぐことで需要と供給のバランスが崩れ、価格が急ピッチで上下する半導体事業特有の「シリコンサイクル」と呼ばれるリスクはあった。だがカリスマ性とワンマン経営でならした高橋は、「巨資を投じても十分に回収し得る事業」と断じ、その野望を半導体に賭けたのだ