比叡山延暦寺の焼き討ちで3千人あまりの僧俗を殺戮して、本願寺一向一揆に対しては10万に近い門徒の命を、信長は奪っています。 家臣に対する処罰も苛烈きわまりないものでした。 いつしか「第六天の魔王」と信長は、内からも外からもよばれ、恐れられるようになりました。 戦国時代の君臣関係は、対等に近かった 戦国時代の君臣関係は江戸時代と違い、対等に近いものでした。主君と家臣の力関係によっては、家臣が主君を怒鳴りちらすこともありました。 武田信玄や上杉謙信でさえも、当主になって間もないころは、家臣が言うことを聞かなかったり、家臣同士で争うことに嫌気がさし、やけ酒を飲んだと伝えられています。 上杉謙信は、やけ酒だけでは収まらず、京都へ逃げ出すほどでした。隠居して僧になる、と駄々をこね、重臣がなだめて越後へ連れ戻したのです。 豪族の長の集まりである家臣団を一致団結させるのは、なかなか骨が折れる行為だったの